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第115回 日本のODAは何のためか
(二〇〇六年五月二十五日)
所管争いの交通整理が真っ先に来るとは
 今日の話は、ODAについて根本から考えてみようということです。なるべく知性の含有率を高くして、テキパキとお話ししてしまおうと思います。
 まずお手元に新聞のコピーがあります。ごらんになればわかりますが、内閣にODAを根本から考える「海外経済協力会議」というのが設置されて、それで会合が開かれた。ODAというのはインチキの塊だから、根本的に考えなければいかんと長年言われてきたことが、ようやく動き出しているというので読んでみました。この見出しにもあるように、中国へ円借款をしているが、まずこれを何とか減らしてやれというのが狙いらしい。
 正式にそう書いてあるわけではありませんが、新聞の見出しもそうなっているし、関係者の話もそうなっている。では、とその中身のほうを読みますと、何のことはない「外務省が主としてやる」に力点が入っている。
 何をやっているんだ、と思いました。結局外務省の人が事務局になって書き上げたのと違うのか。今までODAをやってきたのは外務省と経産省、それから金融では財務省、旧大蔵省ですね。この三つが「こんなにうまい仕事はない」と思って、天下り先にしたりお金を好きに使ったりしてきた。その所管争いの交通整理がまず真っ先に来るとは何ということだ、というのが私の感想です。
 これは感情で言っているのではなく、知性で言っているつもりです(笑)。とにかくこういうのができて、これのもとになったのは元検事総長の原田明夫さん――虎ノ門DOJOのとき武士道の話をしていただいた方ですが、その原田さんが中心になってまとめたレポートです。
 その原田さんに会って、どういう考えでこうなったのですかと聞いたら、私は何も知らないと言う。それはそうでしょう。検事総長をやめた直後、突然トップになってこんなレポートが書けるわけがない。だからまあ書いたのは外務省、財務省、経産省ですが、一生懸命中心になって書いたのは、たぶん外務省の人。
 外務省の仕事で楽しいのは経済協力局しかない、あとの仕事はみんなやりたくないと外務省の中では言っています(笑)。経済協力局へ行って世界中に金を配っていると、サンキュー、サンキュー、シェシェと言われて楽しい。それを他に取られてなるものか。特に内閣府に取られてなるものか。
 極端なことを言う人は「外務省はもう閉鎖してもいい、外交は内閣府でできる」と言いますが、これは私もそう思っているのです。外務省は領事館だけあればいい、大使館なんか要らないと思っています。
 一度、中山太郎さんが外務大臣だったとき、二人で三十分テレビ対談をした。その時にそう言ったのです。中山さんは大臣になってから二〇〇回外遊したとか、飛行機の中で過ごした時間を合計すると一カ月になるとか、そんなことばっかり言っていた。いや、いい人なんですよ(笑)。いい人ですが、旅行会社みたいなことを言うのは外交と違う。ということを婉曲に言って、「外務省は領事館だけあればいい。外務省にいる人をどんどん減らして領事業務へ回しなさい。海外で働いている日本人はみんな大使館には怒っている、領事館にも怒っている。日本人の世話をしてくれない。恨みがたまりにたまっている。それは大臣の耳に入ってないでしょうから、言っておきます」と言うと、ほんとうに全然耳に入っていないらしくて、キョトンとしていました。
 
五十年間ウソで固めたODA
 テリー伊藤さんという帽子をかぶった個性的な人が、外務省というのはひどいところだと言った。あれがやっぱりきっかけだと思います。一斉に「外務省はけしからん」という声が、海外にいる日本人から湧き上がった。私も実例はいくつか知っています。それで、外務省は危機を感じて、一生懸命ODAについての文章を書いたんだろうと思います。
 今日の私の話は、まずこれが第一です。このレポートでは内閣府にODAに関する会議をつくって、これが司令塔になると書いてある。では、司令塔は何を指令するのかと見ると、何にも書いていない。ただ外務省が主としてやることが適当であると書いてある。それから中国のような国には少しは絞ったほうがいいと書いてある。つまり理念なきODAですね。それが、相変わらずここに出ているな、と思いますから、司令塔は理念をつくれというのが第一の話です。
 それから第二は、これまでのODAを振り返って、まあ五十年ぐらいの歴史があるんでしょう。五十年間もインチキの数々を続けてきた。建前と本音がまるで違う、ウソで固めたODA、という話が第二にくる。これを私がやりだすと、三日ぐらいかかってしまいます(笑)。私は実は、学生のときゼミナールのレポートがODAでした。だから、古くから考えています。昭和二十五年、六年からです。外務省の人から頼りにされて、日本のODAはいかにあるべきか、海外調査団に加わるようお願いしますと言われました。その時は経済企画庁に出向していました。それでシンガポールとインドヘ行って、こうあるべきだというレポートを外務省あてに出したことがあるんです。まだ二十八歳のときです。
 その時、シンガポールではジュロンというところに製鉄所をつくりたいとリー・クワン・ユーが言い、当時の富士製鉄がつくろうとした。私は「そういうのは独裁者の勲章である。我が国でも鉄がつくれると誇示したいだけである。だから絶対損する。ジュロンでやるなら造船所で、しかも修繕からやるべきである。修繕でも一番儲かることをして、だんだんお金がたまってから造船をやりなさい」と言った思い出があります。そうなりました。
 インドでも思い出があります。その時私の属する学生団体の先輩が外務省にいた。その学生団体をつくった人は、国際問題について活躍できる立派な日本人をつくろうと思ってその団体をつくったので、その卒業生が外務省に何人かいた。
 私が行くと「後輩だから」とすごく丁寧に世話してくれる。何でも見せてくれる。大使館から来た機密電報でも見せてくれる。「外務省に来いよ。お国のために働こう。日本国家はそういう人材が必要なんだ」と、そういう気持ちなんでしょう。うかつな人には見せられないが、あの会の後輩ならというのがありまして、明治大正以来の日本国家というのはこういうふうになっていたんだな、とわかりました。お互いに志を同じくして、日本国のために尽くそうという縦のつながりがあったから、昔の日本国家はよかったんだと思います。
 インドではこちらがエイドと言うと、その度に向こうの役人は「ノー・コンペンセーション」と言い直しました。この解説はいつかいたします。
 
相手国も日本国民も変わり始めた
 さて、第三は相手国の気持ちが変わってきた。もう五十年もやっているのですから、相手国も変わるわけです。例えばタイ国のタクシン首相は、津波のとき日本が二二億円のODAを持っていって「さしあげます」と言ったら、「要りません。津波の復興は自分たちでやります。日本からお金はもらいません」と断った。これは新聞にも載っています。というふうに相手国がもう変わってきた。
 では今までもらってきた理由は何かというと、第一は貧乏で、第二は独裁政権の腐敗堕落、汚職としてもらっていた。それがようやく立派な国になりかけてきて、「援助なんかもらいません、ワイロは要りません」と言うようになってきた。これはまだタイだけだろうと言えばそうかもわからないが、しかしこれが次のODAを考える大事なヒントです。内閣府に司令塔ができたのなら、こういうことに取り組んでもらいたい。単なる援助は相手国に断られます、それではどうするんですか? ということですね。そういう第二局面に入りつつある。
 それから日本国民も変わり始めた。これが第四です。日本国民も、援助というのは自分が気持ちがいい。だから税金を使ってもいい、郵便貯金を貸し出してもよいと考えた。無茶苦茶な金利です。期間は二十年で金利はたった一%しかとらないとかです。そういうところへ郵便貯金が行ってしまうから、郵便局は我々国民に金利を払ってくれない。しかし「それでもいい」と思っていた。
 その辺がずいぶん変わってきまして、相手国は感謝しているのか? 有効に使っているのか? ということを国民は言うようになってきた。だから、この国民の気持ちに従って「これからのODAはこうだ」と言わなければだめです。これが第四ですね。
 それから第五に、日本は明治以来今日まで、援助をもらっていない。そもそも明治大正時代は、外国に援助をするなんて麗しいことはない。日本にあげようなんて、そんな国はひとつもない。植民地支配をしてピンはねしようというのが国際常識であり、国際感覚です。援助を出すなんて話は世界中どこにもない。
 だから日本は何ももらってない。それでも日本はここまで立派になった。昔は軍事大国として立派になり、戦後は経済大国として立派になった。しかしその間、援助なんかもらっていません。
 アメリカの援助でここまで来たと思っている人がいますが、ほんのちょっぴりはもらいました。ほんのちょっぴりです。しかし、それ以上にアメリカは分捕っていきました。この話を聞きたければいつでもしてあげます。アメリカは宣伝がうまいから、ガリオアとかエロアとか、日本にたくさん援助をしたと言っています。金額にして二〇億ドルだと言っています。それで、日本国会では感謝決議をしました。しかし後から「返せ」と言ってきた。それで日本国民は大憤慨した。アメリカというのはエゲツナイ国である、と。
 その時、返すという法律が日本にはない。援助でくれるとアメリカは言っていたのですから。急に返済するという根拠がない。きちんと対応すれば、「アメリカは急に『あれは贈与ではない、貸し付けだ』と言ってきたが理屈に合わない」と外務省は頑張らなければいけないが、外務省は頑張りたくない。総理大臣もアメリカとそういうことで言い合いをしたくない。そこで、きれいさっぱり返そうじゃないか、と国会で決議をした。
 憲法に「国会は最高だ」と書いてある。だから「国会決議はすべての法律に優先する」という解釈で、アメリカの言うとおり返そうという国会決議をした。そして外務省と大蔵省が交渉に入った。その時は一生懸命五〜六年粘って、三分の一だけ返せばいいことにした。三分の二は、もらったというか、返さなかった。
 私はそのとき学生で、ゼミナールの先生もそういう関係の専門だったから、いま財務省、外務省にいる人より私のほうが詳しい。これは当然ですね、歳が違うのですから。若い人でそんな昔のことを研究している人はいない。まあどっかにはいるでしょうが、そういう人は出世しない(笑)。それは、そうです。今さら昔のことを言っても始まらない。
 しかし、こういうことこそやはり歴史認識であり、歴史感覚です。こういうことを踏まえておいて、ブッシュさんとも交渉しなければいけない。あるいは日本国民に対しても、「われら日本国民ぐらい気高い国民はない」と言わなければいけません。それを何か日本国民はアメリカのご恩で暮らしてきた、生きてきたと教科書やマスコミに書いて、皆そう思っているというのは、これはもう程度が低い。知性がありません。


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