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非科学的ではなく、科学を超えている
 ここで問題は、「価値の自立」がないのがよいとする日本の風習です。自分の意見はこうだなどとあんまり言わないのが麗しい。そういうのはお互いの間に置く。日本は「人間主義」だというが、「人間(じんかん)主義」なのです。人間と人間の間に置いて、自分のものだとも言わないし、あなたのものだとも言わない。両方のものだというふうに価値を置く。そういうやり方が、庶民の普通のやり方です。
 これが一番だとは私は言いません。福沢諭吉が言ったように、思想の独立、自分の価値を持っていろ、と思います。福沢諭吉は「日本の庶民はやたらと人にペコペコしているから、こんなことでは外国にやられるぞ」という意味で言っているわけですね。
 それには賛成する人が少なからずいて、大学の校歌には「学の独立」なんていう言葉がみんな入っています。「思想の独立」と校歌にはある。が、あんまり身についていない。
 しかし、日本固有の心の持ち方がある。思想などと言わずに「心の持ち方」と言うと、例えば「それは島国的です」、あるいは「非キリスト教的です」と言うが、これは「人間中心主義」と言うべきです。神様は祭り上げられていて、人間同士の話し合いをもって真理とする、という生き方です。キリスト教が入っていないというのは、入っていない側にはわかりません。だからアメリカに行って話してみてびっくり仰天する。
 それから超科学的です。科学を超えている。
 欧米の学者は、日本人の物の考え方は非科学的であると言ったが、このごろ科学がだんだん進歩してくると日本風になってきた。日本人の常識は科学を超えていた、科学がようやく追いついてきたという認識になってきました。例えば「察する」とか「ひらめく」とかですね。「品質がいい」というのもそうです。そういう頭の働きは現実にあるが「どうしてか」というメカニズムがわからなかった。科学が遅れていた。しかしメカニズムが少しずつ追いついてきて、多少説明できるようになってきた。
 
日本風思想、日本風哲学が世界に広がる
 そこで次の話に移りまして、世界はどんどん変わっている。二十一世紀は今までと違う世界になる。その世界で求められている新しい思想、哲学は何かというと、日本風のが入ってくる。現にもうだいぶ入っている。
 それは、アメリカに行って学者や評論家と議論すると出てくる。日本の大学の教科書にはまだあまり出てこない。日本の大学教授で「少し変わり者だ」と大学の中では嫌われているが、テレビには出るような人が言っている。大学の中でいい点をとっている人は、それは絶対遅れている。二十世紀の思想哲学では、いまだに利益とは極大化するものだ、とそれを目指しているんですからね。合理的とは何か? というと、合目的なものが合理的なんだと言う。マクドナルドなんかを見れば、それはそうでしょう。
 前にも言いましたが、マクドナルドは出発点の頃は、お客に長いこと座ってもらいたくない。ファストで食べてさっさと出ていってもらいたい。しかしお客は椅子に座りたいだろう。そこで椅子はつくったが、下にはヒレがついていて、ラジエーターのようになっている。お尻が冷たくなるようにつくった。しかし、暖かそうに見せるために色だけはオレンジ色。
 マクドナルドのこういう商法を話すとほんとうに面白いので、以前話したことがありますね。会社から見ればそれが合理化なんです。お客が気がつかなければ、たしかにグッドアイデアなんです。
 しかし、長くやっていれば気がつきますよ。特に、日本ではすぐにわかってしまう。だから、日本マクドナルドはまた別のことをしている。
 それはともかく、要するに合理化とか科学的とかいうのは、話が人間の心や満足に入ってくると説明ができなくなる。国や文化や集団によって違う価値観に、ぶつかってしまうわけです。
 簡単に言うと、最近ぽつぽつ言われていることは、競争ではなく共生である。共に生きる平和的解決のほうがいい。とことんやって「ゲームだから審判を置いて負けたものは退場」というのではなく、平和的解決がいい。
 つまり、日本を見習えですよね。
 それが成り立つためには、実は性善説にならなければいけない。「争いはこの辺で終わりにして、また仲よく一緒に暮らそう。それができるあなたです」というのは性善説です。日本では当然ですが、アメリカでは当然ではない。どうせよそ者、食い詰め者が入ってくるという性悪説。そのための解決としてアメリカで行われているのは「分住」です。「新しく来た移民とはつき合わない。分かれて住めば問題がない」というわけで、今問題になっているわけですね。「我々は見捨てられているのか」と。
 
世界思想史の新しいページを日本がひらく?
 ところで、アメリカ人を見ていると大体一五%ぐらいの人たちが不満をもっている。所得の低いロー・インカム・ピープルが一五%ぐらいいて、この定義は年収二〇〇万円以下で家族が四人暮らしているとは大変なことです。それが一五%ぐらいいる。だから、日本で二極化と言っていますが、まだ日本はそんなにひどいことはありません。
 それから、健康保険に入っていない人が一七%いる。こういう人たちは病気になっても病院へ行きませんから、狂牛病にかかってもわかりません。でもアメリカの農務長官は「患者は一人も発生していない」とか「ここで一人出ただけだ」とか言う。ああいうときに、すぐ反論しなければいけない。「病院に行かないんだろう。日本人は全部病院に行く。基準の数字が違う」と。だからアメリカに住む人は危険ですよ。ああいう肉を食べなければいけないわけですから。
 それが「住み心地」の中に入るか入らないかです。神経の太い人はいいんですよ。細い人は、これで嫌になる。中国に住んでも同じです。
 それから、最大限利潤などは求めるものではない。嫌われ者になるからやめておけ、というのが日本の考えですね。これは共同体主義です。
 「最大限利潤を追求するためには独裁者が必要だ。わかり切った簡単な結論に直進するには独裁者がいないといけない。それを支えるエリートが必要だ」というのが、ヨーロッパが発明した国民国家の姿です。あるいは、アメリカがやっている未来産業の姿です。
 「それはもうやめよう。独裁者が悪いなら、エリートも悪い。そういうのがいない国をつくろう。経済でも大企業は分割せよ。中小企業がいっぱいあって、右へ行く会社もあれば左へ行く会社もあるのがいいんじゃないか」というのを日本はやっている。以前はお役所の命令で「みんなこっちへ行け。行かない者には税金で補助金をやるぞ」とやっていた。これもムダですからね。それで「そんな役所は要らない」と今なっている。つまり「エリートは要らない。各自勝手に方々へ走っているほうがいい」というわけです。エリートがしっかりやるのは、警察と消防と自衛隊と裁判所、それだけでいいというのを日本はやっております。
 そういうわけで、「日本は住み心地がいい」が、これがもっともっと、二十一世紀には表面に出てくるであろう。なぜ出てくるかと言えば、今言ったようなことは世界思想史を読めば、全部あるんです。性善説もあるし、無政府主義だってあるし、平和絶対主義だって、エリート否定論だってある。それはもう、人間は昔から全部考えてある。
 その中のどれを取るかという問題です。それから、世界思想史の中には日本のぺージがない。日本人だっていろいろ考えていろいろな思想があるのに、なぜ世界思想史に入っていないかといえば、みんなが日本語を知らないからですね。日本の学者が英語で書かない。別に我々は英語で書かなくてもよい。日本の中で拳々服膺して大変愛用しているからこれで十分である。よその国にわざわざ英語で書いて教える必要はない。むしろ教えないほうがよい。向こうの国は仲間げんかをしていろ。アメリカは裁判社会で、うちわでいがみ合っていろ。そのほうが得だ、・・・とまでは思っていませんが(笑)。
 
日本人の俗信の研究を
 ですから私は、世界思想史の中に入っていないからダメだと思わずに、考えてくれと言いたいのです。つまり日本人の「俗信」ですね。一般が信じている俗信の研究をしなければいけない。
 と言うと、学者は世界思想史の中に書いていないものだから、自分で書くのは大変だと立ち往生してしまいます。しかしそれは学者でなく日本の漫画家がやっています。日本の漫画やアニメの中に日本精神が入っている。それを向こうの子供がわかっている。そして、その効果がもうずいぶん出てきました、子供がもう二十歳を超えてきましたから・・・という話を、これは何度もしております。
 漫画のほうが情報量が多いんですね。一瞬にしていろいろなことがわかって、心の中に座り込んでしまう。無意識の世界まで入って、それが一生続いてしまう。頭で理解したことは身につかないが、漫画で、優しい心とか、かわいい女性とはどういうものかとか、男らしい男とはこういうものだ、と思った感激は、一生残ってなかなか消えません。そういう漫画リテラシーの不思議を、日本人はもう昔からわかっている。これは科学的であって、科学的ではありません。
 自分の特徴は、自分ではわからないものです。友達から言われないとわからない。そういう人間の一面がありまして、国際交流が盛んになると、これが面白い話題になる。ヨーロッパに行きますと、イギリスは変な国だという会話がある。フランスは変な国だという会話もある。その延長で「あべこべの国・日本」という本がある。ご存じだと思いますが、のこぎりを日本では引っ張る。あちらでは押す、とか、そういう話をすると「えっ、そう言えばそうだ」という実例がいくらでも出てくるんです。
 面白い話では、日本は女尊男卑である・・・と言うと「え、日本は男尊女卑ではないのですか」と言う人が多くて困るのですが、向こうこそ男尊女卑です。日本がすごい女尊男卑だということは、日本人は気がつかない、これが当たり前だと思っていますから。たとえば財布は女房が持っているのが当たり前。男が「お小遣いちょうだい」というのが当たり前。これで家内安全、平和にうまくいっている。そんなことは外国の人はわからない。だから見えない。向こうでは、そんなことでうまくいくわけがない。女房がみんな持って逃げてしまう(笑)。
 女房が持って逃げる国になるか、ならないか、ということです。逃げないほうが住み心地がいいに決まっています。だからやがてアメリカでも離婚は減って、死ぬまで添い遂げるのが美しいという国に、だんだんなるであろうと思います。ならないなら、アメリカは滅びる。あるいは国力が低下して、世界への影響力を失っていくでしょう。
 世界中を見渡してごらんなさい。どこに行っても夫婦仲がよい国の力が強い。国家の寿命を保っている。国民の人数も多い。だから世界中、やがて人類は夫婦仲よくなるでしょう。これは自然淘汰の原理ですね。
 そういったことを経て、日本風が世界に広がる。そのとき広がるのは、トヨタ自動車やナショナルの電気製品だけではない。今言ったような思想とか感性も広がるのです。


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