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住み心地のよさを実現する力は日本が最高
 以上をまとめると、第一は他国も悪いぞ。第二は日本は口だけではない、実行している。第三は他国にも気がついている人がいる、ということです。
 そして第四番目は、今言っているように事実を列挙して先入観を捨てると、新しいものが見えてくるわけです。
 こういう分析をして、箇条書きに書き上げて、そこで次に出てくるのは「いったい何の役に立つ底力なのか」ということです。今まではGNPのためであり、輸出に役立つ底力が問題に取り上げられていました。
 しかし、現在は違う。今の気持ちで言えば、住み心地の実現ですね。まずは金ばっかりではない、暇も欲しい、自由も欲しい、広々としたところも欲しい。だから、経済的消費だけでなく、空間消費、あるいは時間消費、あるいは価値の自由とか、精神の束縛が少ないこととか。そういう住み心地のよさを実現するための底力が日本にはある。他の国よりある。しかも既に大部分は実現している。
 二番目は気持ちの交流です。相互信頼と相互扶助の社会と言ってもよい。それが最先端の工業社会、近代社会と両立している。つまり、住み心地をよくするということにおいて、個人的に解決するのではなく集団的に解決するという点で、日本のシステムはどうも世界最高ではないか。
 誰もそういうことを言わないから困るんです。私の実感では世界最高である。実例を見れば、商社マンなどでそのまま外国へ住み着く人よりも、やっぱり帰ってくる人のほうが多い。年をとったからということもあるでしょうが、他にもあるはずです。したがって、外国人も年をとったら日本に来て住みたいはずである。住んでみて、これが最高だと言う人もいることはいる。
 しかし大挙してやってこないのはなぜか。アメリカの研究所に行っているとき、日本のことを褒める人がいっぱいいましたから「そのとおりだ、あなたも老後は日本に来て住みなさい。あなたの財産も全部円にかえて日本に持ってきなさい」と言ってみました。すると「理屈で考えればそうなるが、まだしない原因が二つある」と言う。
 一つは家族のための英語の娯楽がない。まあそれは、テレビにもっと英語番組ができればいいわけですね。それから移住者がもっと増えれば自然にそうなるでしょう。二番目は、日本には原子爆弾がないからだ。これは、アメリカでは常識的な意見なんです。要するに原子爆弾のない国には危なくて住めない、お金を持っていけない、という国際常識があります。
 ですから、その二つをやればいいんです。英語の娯楽や教育をつくるのは簡単です。原子爆弾を持つのも簡単なのですが、それは日本人自身がなるべく持たずに済ませたいと思っているから困難なのです。
 
国家の最適規模はどのくらいか
 話を戻しますが、個人的解決ではなくグループで解決をするというとき、ここで出てくる問題は国家の最適規模です。最適規模はどのくらいなのか。
 これは多くの人が「スイスがいい」「スウェーデンがいい」と言うから、それならどうも人口二〜三〇〇〇万人くらいがいいらしい。アメリカみたいに三億人も住むと、秩序や規律を一番悪い人に合わせることになる。だから飛行機に乗るときの検査は、一番タチの悪い人並みに扱われる。あまり人数が多いとそうなってしまう。
 そういう意味で、「最適規模」という考えを、ここには入れなければいけない。国家単位での住み心地の実現を考えていかなくてはいけない。
 そこで出てくる一番大きな問題は、まずは経済にも最低規模があるという考えです。例えば自動車をつくるためには、まず国内で売れなければいけない。そのためには、人口二〇〇〇万人ぐらいないと無理だろう。三〇〇〇万人以上は必要かもしれない。
 しかし次に、大きければ大きいほどいいのかという問題が出てくる。これは軍事力でも同じです。国家の最適規模を考えるとき、軍事力は人数が多いほうがいい。多ければ多いほどいいというので、最大限主義になりやすいのです。
 これはほんとうですか? 経済学部で経済を習うと、「すべての経営者は、利益の最大化のために努力する」と教える。そう言わないと経済学理論になりませんからね。マルクスもそう教えたし、後に続く学者もみんな最大利益の追求と言う。しかし今、ホリエモンがそれをするとあんなに叱られている。「それはおかしい」と言われている。
 実際そうなんです。利益の最大化だけをやる会社には新入社員が入ってきません。入ってきてもパートタイマーしか入ってきません。すると、型どおりの仕事しかできません。未来への開発ができません。お客様に対しても、型どおりのことしかできません。というか、お客様へのサービスはその最小化に努力するわけです(笑)。
 このごろ日本中にそういうのが行き渡ってしまって、ファストフードやファミリーレストランに行くと注文を繰り返して「何と何、これでお間違えありませんか?」と言うが、すると日本人は人がいいから、友人の分まで合計して数え上げて、「はい、これでけっこう」と答える。しかし、ヨーロッパ人はあんなことしません。それは商売をやる人間がすることで、お客はそんなものに協力しません。お客は自分の注文を言うだけで、あとは待っていればいいのです。それがよいサービスです。しかし日本にはすっかりアメリカナイズされた分野がある。これまでの二十年はそういう時代だった。しかし、今はもう終わりかけていると思っています。
 だから、あんなことをやっているファストフードや、ファミリーレストラン、コンビニは滅びます。現に売り上げは伸びていない。店員たるものは、お客が一人一人言うのをきちんと聞いて、ほんとうはノートもとらずに覚えなければいけない。これがヨーロッパの、まあこれは悪いところだとも思うのですが「私たちはあなたの召使いです」と、宮廷文化がそっくりレストランに入っている。お客の前でノートをとるというのは失礼で、きちんと覚えて「かしこまりました」と間違いなく運んでくるのがよいサービスです。
 もっと言うと、なじみのお客には「熱さはこのくらい」と覚えてあげなければいけない。覚えてあげるとチップをたくさんくれる。それがヨーロッパ文化で、そういうのが住み心地が良いか悪いかですが、嫌だと思う人はファストフード店へ行けばいいわけです。だんだん贅沢になってくると、そういうところへ行きたくなって、チップを出すと余計気持ちがいいという人がいる。やがてそういう人が日本にも増えてくるでしょう。
 だから、そういうふうに商売も変わります。
 一例を言うと、私は関西の人間だから、タクシーでも「ああ、よかった」と思ったときは「お釣りはいらない」と言います。すると「おおきに、またどうぞ」と礼を言います。東京でそんなことをすると、ムッとして怒る人がいる(笑)。これは公務員を気取っている。許認可された事業であって、六六〇円以上はもらいません、そのかわり口はききません、話しかけないでください。東京は、やっぱり武士の街でした。しかしこの不景気のどん底に落ちたころから「ありがとうございます」と言うようになりました(笑)。一〇〇円玉をあげると「お客さん、ありがとうございます」と受け取るようになりました。東京もちょっと変わりましたね。
 
最大限主義の落とし穴
 運輸省の委員だったとき、こう言ったことがあります。
 運輸省の許認可行政は、もともとはタクシーではなくトラックから始まった。物を運ぶ話がタクシーまで入り込んで、お客を物だと思っている。A地点からB地点まで最短距離を最短時間で運べばいい、それがよいタクシーだということになっている。だからその間、お客の話に返事をするのは悪い運転手である。もしもそのとき事故が起こったら困る、というふうに行政ができ上がっている。「だからタクシー業界の売り上げが伸びない」と言ったのです。
 例えばヨーロッパの常識で言えば、話しかけて「この辺で面白いところはあるか」と言ったら「はい」と連れていってくれる。「食事がうまいところはないか」とか、いろいろ雑談のお相手をしてくれて、そのかわりチップを取っていく。日本の田舎町へ行って話しかけてごらんなさい。運転手は何も知りませんよ。蕎麦のうまいところはないかとか、あのお城は誰がつくったのかと聞いても、何も知りません。
 だからあれはもともとが人体輸送業なんです。「情報産業になって高度情報化時代だというなら、もっとそういうことをやってチップを取るようにしろ」と言ったら、MKタクシーの青木さんが「ガイド兼業タクシー運転手募集」を始めた。場所が京都というのも合っていて、ある程度できた。
 話を戻せば、経済力と軍事力はとかく最大限主義になります。タクシーの運転手でも、六六〇円しかもらえないんだから、あとはなるべく手抜きするのが合理化である。口をきいたら損するというふうになっている。
 ここで言いたいことは、最大限主義とか最小主義は、余計なものをみんな切り捨ててしまう。しかし、その切り捨てたものの中に味がある、満足がある、文化がある、心がある、精神がある。そこに、日本人は戻ってきたなと言いたい。つまり「最大限主義は捨てましょう。自分にとって必要なのはここまでだ。これだけあれば十分だ。あるいは、もっと欲しいときそれを手伝ってくれる人がいたら、そのお金は出します、感謝もいたします」という思想、哲学の分野に入ってきた。


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