日本財団 図書館


日本経済が世界に貢献している統計が揃ってきた
 日本のマンガはそうです。しかしそうでないのもある。
 日本には両方ある。そこが素晴らしい。
 『第三の波』を書いたアルビン・トフラーさんと一緒にディナーを食べたとき、彼も「日本のマンガやアニメが洪水のように入ってきて、それはセックスと暴力がひどくて、子供の精神に影響を与える」と言いました。それで反論しておいたのです。日本はアニメ映画を一年に四〇〇〇本つくる。無茶苦茶たくさんつくっている。ですから、何でもある。上品なのも、ほのぼのとしたのも、暴力も、セックスも、日本には全部揃っている。「あなた方アメリカ人が、セックスと暴力ばかり買って帰る。だから、あなた方が偏っているのであって、一度日本に来て全部見てみなさい」と言ったら、大変合理的な説明であるという返事でした。
 だから、日本の外務省の人も、一般の人でも、そういう合理的な説明をすべきです。そういうハンドブックをつくらないといけませんね。この前、東京財団と産経新聞が共同で、学生の論文募集をしました。その中で、江戸川大学というところに熱心な先生がいて、大量にそこから応募が来る。入選した女子学生が、こんな挨拶をしました。私のボーイフレンドは中国からの留学生です。仲よくつき合っているが、こと台湾問題とか、靖国神社問題になると、相手は断じて頑固というほかない。そこでこの前某雑誌で、中国人にこう言われたときにはこう言い返せという特集があったので、慌ててそれを買ってきて読んだと言っていました。
 ああ、そうか、需要があるんだなと思ったのです。だから、こう反論せよというテキストブックをたくさんつくるといいのかなと思いました。
 その本は、合理的な世界と、ポケモンから持っていく世界と、つまり理と情と両方から組み立ててあるといいと思うのです。日本はまず情で通る。それから理でも通るような統計がどんどん揃ってきました。日本経済は世界に貢献していますという数字がたくさん出てきました。ですから、元気になった日本という前提を置いて、これからの将来を物語的に、シナリオ的に考えてみることを、度胸を出してやってみたらどうでしょうか。
 これは要するに、ホームパーティをもっと盛んにして、そこで思いつくままに話せばいいということです。それはけっこう、共通の認識になっていくのです。皆さんの中でやりたいという方がいれば、東京財団で会場はお貸しいたします。
 
個人消費で次の経済が始まる
 では、経済が回復してきたということを、どう説明するか。
 普通はマクロ経済的な数字です。設備投資のための借入申し込みが増えてきたじゃないか、銀行も貸すようになったじゃないか、と。しかしこれは、今まではむやみに臆病だったということもある。なぜむやみに臆病になったかというと、政府がそうしたのです。政府の罪は大きいと思います。役人が来て、これは危険な融資だ、やめろ、引き上げろと不良債権かどうかを決めるというのはとんでもない話です。
 役人は、自分が税金を使ってやることを、もっとまっすぐに正しくやればいいのです。民間の銀行が、民間の金を集めて、民間に貸していることに口を出す必要などはまったくない。失敗したら倒産させればいい。それなら国民の税金を使わないでできます。倒産は何も役所がさせなくとも、市場がそうさせます。
 金融庁という役所は要らないのです。中身を言えば、寄せ集めの人がいっぱいいて、偉そうに民間に命令するというのは最高のレジャーらしい。それで部下が欲しいと考えて、「どこに行けばいい部下がいますか」と聞かれたので、「つぶれた銀行にいっぱいいる」と答えたことがあります。つぶれた銀行の人を金融庁に採用すれば、元の上司に対する恨みが動機かは知りませんが(笑)、ビシビシやってくれますよと言ったら、ほんとうにそうなりました。情けない国だと思っています。
 不良債権償却というこっけいな一幕も、だいたい峠を過ぎて、もうみんな忘れています。忘れると、次の経済循環が始まる。もう始まっています。それで設備投資貸し出しが出てきた。それから個人消費ですね。これが一番大事なのですが、個人消費が出てきたから、ではテレビ工場を新しくつくろうかということになってきました。
 では、何でテレビを買うようになったかというと、「底割れはない」と思ったからです。それなら貯金を下ろして楽しもう、老い先も短いからという人がたくさんいる。それで個人消費が出てきた。
 この個人消費はどんな消費か、ちゃんと見ていますか? 現場を見ていない人は統計を見ている。小売り何とか統計、流通何とか統計、在庫が三カ月より少なくなったとか、そんな程度を見るだけのことだったら、給料を払って官庁にエコノミストを置いておく必要なんかないのです。発表してくれれば、誰でも見られるのですからね。それを見て、言いたい人が言えばいい。
 ですから、エコノミストと称する人、昔で言えば官庁エコノミスト、経済企画庁にいた人たち、今は内閣府に三〇〇人ぐらいいるんです。あの人たちは、全部要らない。昔五〇〇人ぐらいいたが、多少は減って三〇〇人だけ残っているんです。あの人たちは研究をしているらしいが、ムダですね。証券会社の人でも同じくらい研究能力はある。今ならデータに基づいて、マクロ経済学の理論を当てはめて言うくらいは、誰でもできる話です。結局どうなのかと質問したら、「晴れのち曇りです」とか「小雨のち時々晴れ」とか言っています。するとお客はわかったような顔をして帰るが、まるで天気予報です。アナロジーの世界なんです。
 
アナロジーもアナリシスも両方必要
 人がものをわかる方法は、アナロジーとアナリシスと二つあるとギリシア哲学に書いてある。アナロジーというのは直訳すると、類比と言います。類に分けて比べる。似たようなものを集めてきて、その特徴をたとえ話で説明する。これがうまい人が、政治家です。あるいは中小企業の社長です。
 そういうのがあまりにも世の中に跳梁ばっこしたのに嫌気が差して、もっと科学的にやろうと始まったのがアナリシスです。これは分析と訳します。構成している内容を書き出して、論理的に正しく議論しようじゃないか。これがアナリシスです。これの特徴は、だまされにくいということです。類比で来る人に対しては、分析で対抗するというわけですが、分析にも限界があって、「結局どうなんですか」とまた総合を聞かれてしまう。
 でも、そういう素人を相手にしなければ、分析家同士の話というのは、なかなか気持ちがいいものです。勝負がつくからです。テキパキ片づけていくことができますから、分析の威力は絶大で、だから人類の社会はこれだけ進歩した。
 しかしその害もある。分析万能論者の大軍が生まれたことです。類比と両方合わせて、人間は物事を理解していくんだというギリシア哲学の根本はどこかへ行ってしまった。分析専門家のほうが類比専門家より偉いと本人が思っている。国民の中にも、それにかぶれた人が大量に出現しました。学歴が高い人です。
 学校に行かなければかぶれないのですが、行くと知らず知らずのうちに毒されます。だからこれは学問公害、教育公害であると私は断言していますが、これを学者の中で言ってもだれも賛成しません。学者の中でも、頂点をきわめた人は賛成しますが、途中の人はしてくれません。


前ページ 目次へ 次ページ





日本財団図書館は、日本財団が運営しています。

  • 日本財団 THE NIPPON FOUNDATION