マンガ・アニメ学術的研究会 第9回(2006年1月10日)
中野晴行「戦後日本におけるマンガ市場の特異性」
マンガ産業論と4つの仮説
マンガ学術研究会は1万年の歴史をたどってきましたが、最後に私の専門分野の昭和20年以降、現在までを話します。世界中でこれほどマンガが読まれている国は日本だけで、不思議なことです。『マンガ産業論』という本は、『週刊少年ジャンプ』誌上で手塚治虫先生の生涯を紹介した時に、編集部の人たちとその理由について話すようになったのがきっかけで、書くことになりました。当時の「週刊少年ジャンプ」は600万部以上を発行していました。読者は小学生から40代のサラリーマンにまで広がっていて、作品の幅もそれにあわせて広くなっていました。編集部の方は「ジャンプの読者は40代まで広がってきているから、40代向けの作品も必要なのだ」と言っていました。しかし、私の周辺では、「ジャンプ」に飽きている子どもたちがたくさんいた。子どもが飽きている中で、編集部は40代くらいの大人の読者を追いかけていました。「子どもを大事にしなくていいのですか」という話をしていた翌年から、週刊少年ジャンプは途端に売れなくなり、短い間に600万部の雑誌が270万部ぐらいまで部数を落とすという事態が発生しました。
売れていたものが急激に売れなくなるということは、マンガ史を見ていると結構あります。その最たるものが、劇画の元祖とも言える「絵物語」です。昭和26年ぐらいまで非常に流行りまして、どの雑誌にもメインで載っていました。特に小松崎茂さんと、山川惣治さんは、大変な人気でした。ところが、これが昭和27年をピークにパタッと売れなくなりました。
市場の中に起きている現象を追い求めれば、日本人がなぜこんなにマンガを読んでいるのか、理由が見えてくるのではなかろうかと考えるようになったのです。
日本人がこんなにマンガが好きなのは、手塚治虫先生がいたからで、よその国でマンガがあまり読まれていないのは、手塚先生がいなかったからだというようなことを言う人がいます。しかし、たった一人の人間のせいにしていいのでしょうか。手塚先生がいなかったら、日本は違ったのだろうかとか、いろいろなことを考えなければいけないと思います。それよりもマーケットに答えを求めたほうが、いろいろなことが見えるのではないかということで始めたのが、マンガ産業論という考え方です。今のところ、マンガ評論の世界は表現論がメインでありまして、産業論はまだ孤軍奮闘状態ですが、マーケットから日本のマンガの特異性を見ようとしています。
スタートするときに、いくつかの仮説を立てました。第一の仮説は、本当は文学やニュースをやりたくて総合出版社に入社したのに、マンガ部門に配属されてしまった優秀な編集者たちは、マンガをやっているうちに気持ちが高まって、文学にもニュースに負けないものをやろうとしたのがマンガの成長につながったのではないか、という説です。これは、現手塚プロの松谷さんが、入社する前の実業之日本社が出していた漫画サンデーという雑誌です。マンガの雑誌ですけど、ヌードではないグラビアがあったり、「行政士にあこがれて」という丸山明宏(現・三輪明宏)のインタビュー記事があったり、梶山季之(かじやまとしゆき)の「出世三羽烏」という小説があったりします。もちろん手塚先生の大人マンガの代表作である「人間ども集まれ!」とか、なんといっても日本で一番、その名を冠した漫画美術館を持っている富永一朗先生のマンガがあり、非常にバラエティーに富んだものです。恐らくマンガに配置された人たちがやろうとしたのは、こういうことだったと思うのです。少年サンデーの創刊当時も、同じような中とじの週刊誌スタイルで、やはりカラーのグラビアがあって、グラビアのページは女性ではなくて長嶋、金田、王、朝潮太郎、栃錦といった人たちでした。その当時、ちょうど皇太子ご成婚がありましたので、ご成婚のお写真も入っています。さらに、これが売れるマーケットが存在した、というかつくられた。
だから、子どもから大人まで読むという奇妙な現象が、特殊日本的なマーケット構造にあったから生まれたのではないかと考えてみました。
次に第二の仮説です。日本のマンガがあまり特殊な文化だとすると、海外において受け入れられないのではないかという問題があります。しかし今、日本のマンガは思春期の読者が持っている普遍的なニーズに支えられて、海外でも読まれています。ドイツで少女マンガが大変ヒットしていたり、アメリカでもTOKYOPOPが扱っている作品は少女マンガが非常に多い。青年誌、少女コミックについては、海外にはそういう青少年、特に少女のニーズに合うような商品がなかったので売れ始めたのではないか、というものです。
第三の仮説は、実は日本のマンガ産業の中心にいる大手出版社は、これまで新しいマンガ表現を自ら生み出したことは一度も無く、それまで他の部分で作品の核心に達成していた別の市場から、作家や作品を取り込んできただけじゃないかということです。
第四の仮説は、マンガ関連市場が膨張しすぎると、マンガ誌上は、いずれ収縮する運命にあり、またマンガ家の作家性は損なわれる運命にあるのではないか、ということです。90年代半ば、青年誌の場合は92年くらいから、少年誌は95年くらいから部数が落ち始めて、雑誌は落ちる一方です。この市場縮小の原因は、実は80年代の急成長にあるのではないかと考えています。80年代に、少年ジャンプの600万部に象徴されるような大成長を遂げたことが収縮要因なわけです。
皆さんは、自分は「サンデー」を買っているけど、友達は「マガジン」を買っていて、お互いに交換して読ませてもらったというような記憶があると思います。80年代後半から90年代頭の「少年ジャンプ」全盛期というのは、クラスの全員が「少年ジャンプ」を持っているという状態になります。これは完全に市場飽和状態ですから、これ以上伸びるはずはなく、こうなってしまったことに、実は収縮する原因があった、ことになります。
一方でマンガを作る側、つまりマンガ家が、自分の描きたいものを描けなくなってしまう。作家性を喪失するという矛盾を起します。産業としてのマンガ関連市場が大きくなると、人気の高い作品は、途中で終われなくなっています。なぜかというと、アニメはどんどん作られているし、関連商品はどんどん作られていきます。たとえば鳥山明さんの「ドラゴンボール」の場合、バンダイが、「ドラゴンボール」のゲームを出すと100万本売れ、シリーズもののII、IIIを出すと90万本台のベストセラーになりました。そうすると、元のマンガをやめるわけにはいかなくなってしまいます。人気のあるうちは終われないで、ようやく終わるのはボロボロになってから、という作品も少なくありません。
この四つの仮説をもとに、マンガ市場を研究してみようということで、マンガ産業論をやり始めました。産業として語るに足るマンガのマーケットが出来たのは、1959年にサンデー、マガジンが出た時点ではなくて、もうちょっとあとの1963年ぐらいに求めたほうがいいのじゃないかと考えられます。
なぜかというと、国産初の長編TVアニメ「鉄腕アトム」が1963年1月1日から放映されまして、これによってマンガとテレビがくっついて、さらにそこからマーチャンダイジングが始まるという、大きな変化が起きているからです。一方で出版部門でマンガが大きな産業になるのは、1966年に「少年マガジン」が100万部を突破しまして、そのあたりからではないかと思います。「出版指標年報」というものがあるのですが、これがマンガというのを単独で集計を始めたのが、このマガジンが100万部を突破した翌年の1967年からです。それまでは、児童書という統計はあるのですが、マンガという統計はないのです。したがって、統計資料をもとにいろいろなものをやっていこうとすると、どうしてもそのあたりにもっていかざるを得ないのです。こうしたことを考えますと、1960年代半ばから見ていけばいいのではないかということになります。
そこから論を進めてみます。まず、第一点としでマンガにかかわる市場は、マルチで複雑な構造をとってきたということがあります。市場が一個ではなかったということです。まず、生産という面から見てみましょう。昭和30年代までは、東京文化圏と関西文化圏が、はっきり存在していました。これが崩れたのがやはり60年代半ばです。恐らく、新幹線の開通によって東京大阪が3時間半で結ばれるようになって、又はその前のビジネス特急こだま号というのが出て、東京・大阪が日帰りで移動できるようになって、関西文化圏の存在が消されてしまったことが大きいと思います。私は小学校1年生のときに、ビジネス特急こだま号に乗っていますけれども、これは大変なものでありました。この辺りからだんだん崩れ始めて、新幹線の開通によって二つの文化圏が個々に存立しにくくなってくるということがあったと思います。昔は、テレビの番組も大阪制作と東京制作が半分ずつぐらいありまして、「てなもんや三度笠」という名作が東京のゴールデンタイムに放映されていましたが、今は大阪制作で東京で放送されているものは、「新婚さんいらっしゃい!」とか一部の視聴者参加型バラエティーくらいで本当に少なくなった。しかも「関西テレビ制作」と入っているドラマでも、東京で撮っていたりするという状態です。しかし、2つの文化圏が存在したことはプレマンガ市場だけでなく、その後のマンガ市場にも大きな影響を与えます。
かつての東京文化圏と、大阪文化圏とが成立していたのは、江戸時代に端を発しています。東京(江戸)は政府があって情報が集まってくる、大阪には相場が立つので情報が集まってくるわけです。例えば、米相場は、日本全国の作況状況が瞬時にわかっていないと商売にならないわけです。赤穂浪士の討ち入りが江戸であって、三日後には大阪に情報が入って、そこから何日かして、もうとりあえず浄瑠璃を作っているというくらいに大阪の情報力というのは高かったわけです。いろんな産品が大阪に集まってきますから、それぞれの産地の情報なり、あるいは各地の消費状況とか、そういうものが全部入っています。東京は政治ですが、大阪はもっとせっぱ詰まった経済情報が集まってくるので、それ故に情報発信もできたわけです。明治維新の当時銀本位制だった大阪は、金本位制に移行したときに、大変苦しむわけですが、五代友厚という人が、大阪は工業でいきなさいと提唱して、東洋のマンチェスターが大阪に生まれます。このように、常に関西というのは一つの文化圏で成り立つ状況が、ずっと昭和30年代まで続いていました。大阪にもちゃんと出版社がたくさんありました。ちなみにGDP、人口、いろいろな意味で関西は東京の二分の一圏と言われています。
これは昭和30年代終わり以降、商業も工業も政治も、なんでも東京という、一極集中になってきたからです。
●大阪の出版社、赤本流通
大阪の出版社は、今日の心斎橋近辺にありました。神保町みたいな場所が心斎橋にあった。本屋の数は昭和で換算しますと、東京の3分の1ぐらいですが、赤本屋というものが結構あったと思います。100軒やそこらはあったと推察されます。そして、小学館、講談社、集英社とか、大手出版社に対して、赤本の出版社というのが存在しました。赤本というのは、どういうものか、今回覧します。赤本には子ども用の絵本やマンガ本の他にも文庫や講談速記本などがあります。これは、真田十勇士のひとり、三好晴海入道が主人公で「鉄腕和尚」という本です。出版が昭和24年1月ですから、「鉄腕アトム」がこれをパクッたのかも知れませんね(笑)。これは、丸山東光堂というところが出しました、正岡容(まさおか いるる)という作家の本です。これは戦後に出し直したものですけど、親本は戦中の昭和18年に出ています。これは戦後エノケン一座で舞台化されましたので、それに併せてエノケンの絵が入っています。ちなみに、この表紙を書いたのは、ミステリー作家の都築道夫です。
このように、赤本出版は、多種多様なものが作られています。
赤本の販売、流通形態を説明すると、もちろん取次ぎも通すのですけれども、それ以外にも、営業マンが見本を背負って全国を廻って、取引先を作ります。取引先に対しては、月に一回、月報というカタログ冊子が送られます。月報を見て注文するのですが、何冊ものセットで買うと安くなります。さらにたくさん買うと報奨金が付きます。したがって、戦前の価格水準で話をしますが、定価が仮に30銭になっても、報奨金とか、たくさん買うときの割引とかでやっていくと、これを10銭で売っても元がとれます。だいたいこれを15銭で売ります。だから、表についている30銭のものを、たくさんまとめて買ったときの割引とか報奨金とかで、10銭で売れば利益が出る状態ですから、15銭で売れば5銭のもうけですね。
そのころの日本には近くに、本屋がないような場所もたくさんありました。そういうところでは、子ども用の荒物屋が、消しゴム、ノート、鉛筆を売っている横で、マンガも売りました、あるいは、個人で売る赤本屋さんもいました。まず、風呂敷に本を入れまして、電車とか連絡船に乗ります。大体乗客は、みんな暇を持て余していますから、「この赤本がたったのこれこれで売ります」と回って行くと、時間つぶしに赤本を買います。書店の正規の値段より20%値引きして売ります。当時は、普通の書店は県庁所在地とか大きな町にしかなく、全国でも数千軒しかありません(現在は2万軒)。普通の書店にも置きますが、買いに行くのも大変だし、正規の値段だし、むしろ固人の赤本屋から買う方が楽で安いのです。講談社の少年倶楽部を買おうと思うと、ちょっと大変だけど、赤本を扱っている榎本法令館の絵本を買うと安い。ただ、正規の書店に置いてある本には箔が付くわけです。ビデオやDVDでも映画館にかかった作品には箔が付く、地上派TVで放送された作品には箔が付く、その結果沢山売れる。そういう現象に似ています
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