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キャラクター創造力研究会第4回(2005年9月1日)
発表者:船曳建夫氏
テーマ:「自身、化身、分身、そしてヘンシーンとしての変身」
 
●文楽の鑑賞家として
 本研究会では、前から考えたいと思っていた人形について取り上げる。本研究会の主旨に応えるところがあるかもしれない。ただ前から発言しているようにキャラクターという物が良く理解できない。多くの場合、アニメの登場人物で生けるがごとく実体化して人々の関心を集めているものを指して意味するようだ。試しにネット検索していて、スタジオジブリの宮崎・高畑作品に出てくるキャラクター人気投票サイトを見た。『天空の城ラピュタ』のパズーというキャラクターがあった。みんな相当に詳しいようだ。加えて、大きな産業だということ以外に、どんな新しい意味があるのかが、よく分からない。人気者とか、人間でない加工された登場人物だから新しく面白いのかといえば、昔の小説にもそういうものはあった。けれども、人気テレビ番組の『電車男』を見ていると、キャラクターに関係するフィギュアーを多くの人が非常に好きであることに気付く。みんなが、それを集めて並べているのを見ると、文楽というものを長い間見続けているものとして、人形に関連付ける辺りで、キャラクターの創造力研究に何か貢献出来るのではないかと思った。それで野崎さんのお勧めに従って研究会に入った次第。
 
●人形
 文楽は、それこそ半世紀に近くなるほど見てきた、といっても人形よりむしろ人形浄瑠璃が好きで、さらに浄瑠璃のほうがやや専門である。とは言っても見に行けば人間がそこで人形を遣っているし、大学生のころに文楽の大道具関係に出入りして以降頻繁に人形浄瑠璃鑑賞に行き続けているので、文楽に関しての知識はアマチュアとしては十分だと思っている。
 文楽に関して長年抱いている疑問は、人形使いの人と人形との関係である。人形を人間が動かして、あたかも生きているかのように見せる単なる技術だとすれば、何となく分かる。しかし実態はそうではない。文楽の舞台は、3人の人間が右往左往しながら人形を手前のところでこう遣って、実に人間が邪魔な芸術に見える。そして主遣いの人は、黒子の場合もあれば、立派な衣装で表に出る場合もある。昔の鑑賞者や批評家は、表に出ることを批判したものですが、どうもそれは違うと思っている。理由があって、人形遣いは出るべくして出ていると考える。しばしば一番いい場面になるほど人形遣いはすごく立派な裃を着けて「やあっ」と声を出して本人が出てくる。さらにいくつかの演目では、他の2人の人形遣いも主遣いの人と同じ柄の派手な着物と裃を着けて出ることもある。それは演目が近代的なものだからでは全くなく、3人手遣いという演目だからである。長年疑問に思っている事の1つが人形遣いは邪魔になるのになぜ表に出てくるのかということだ。
 次に、人形の動きについてである。これはロボットとか他の問題に関わってくると思うが、人形遣いが動かす人形は人間の身振りを真似ているのではなく、モジュール化している。例えば手だったらいくつか決まった数の右手の動かし方があり、左手も足も首も肩も同様である。つまりいくつかの型を組み合わせることで人形の動きを作る。だから普通の人間の「ええっ」て言う思案の動作を真似ているのではなく、人形には思案の手の形ABCがあって、そのうちの何かを遣う。少なくとも人間の動きを単純に真似るということではなくて、いくつかの分解された動きを組み合わせている。
 また一つの素朴な疑問だが、人形遣いの顔が人形に似てくる。例えば、女の人形を遣うことで有名だった難波掾(なにわのじょう、文五郎という名前の方で知られている)という90歳近くまで生きてた人の場合は、その老人が演じる八重垣姫の顔と同じような顔付きに見えてくる。しかし、文五郎は姫の演技を要求され、期待されているわけではなく、八重垣姫の人形を遣うことを要求されているのだから、その都度姫の気分になって遣っているうちに顔が人形の姫に似てくると考えることもできる。そうすると変なことになる、つまり人間が姫の人形を動かして姫らしくしているというよりは、動かされているほうの姫が人形遣いに影響を与えて、人間のほうが姫から魂を吹き込まれている。さっきの比喩でいけば、人間が人形に魂を吹き込むのではなく、人形のほうが人間に姫の魂を吹き込んで、文五郎という人形使いの顔が、姫のような顔になるということだ。
 当初人形という、魂がなくて動かない、そういう物体を生きている人間が動かして生きたように見せると、考えれば簡単だと言ったが、実は何か逆のことが起きている。みんなが持っている素朴な疑問である。これは人形浄瑠璃を観に行って2回目くらいに、みんな気が付くことだ。武将を使っている人形遣いの顔は何だか武将のように見えてくる。そこに何か、人形遣いだけの問いに答えるだけじゃなくて、人形というもの一般の何かもう少し大きな問題があるのではないかと思っている。
 
●ロラン・バルト『表徴の帝国』における問題提起
 ロラン・バルトというフランスの文芸批評家が、その著書『表徴の帝国』の中で、日本に関して鋭く分析している。この本は、フランスやヨーロッパのさまざまな書き手や知識人が、自分の得意なところについて絵入りの、写真入りの本を作るという豪華なシリーズで、小説家は必ずしも小説を書くのではなくて、僕の好きなルクレジオという小説家は南米のインディオのところに行った経験を写真で出したりしている。この本は、ロラン・バルトが書いたということと、皇居を日本の中の偉大なる中心の空虚であると書いたということで有名だ。この本の記述を孫引きというか、引用して「天皇は日本の中では実体というよりも空虚な場所であって、自転車のスポークの集まるところのようなもので、日本という国の統治にはいい」とかしゃべっている人はいるが、本自体をまともに議論した日本人はいない。でもこの本は少なくともロラン・バルトという人の恐ろしき勘の良さというのを表しているところでは奇書というべき本だと思い注目している。例えば、天ぷらを作っているところなんか、ふざけて書いていると思わせるところもあるが、ふざけて書いているにしても、彼の直観力があり、見事なパロディで文章が出来上がっている。本書の様々な着眼点の中に、文楽についての記述が10ページ程ある。文楽を何回観たのか知らないが、文楽を長く見ている僕があっと驚ろく、彼の直観力の鋭さを感じる。例えば以下の2つを挙げる。1つは「身振りと行為の両方が舞台の上にあらわになる」、つまり身振りというのは例えば大星由良之助という忠臣蔵の人(大石内蔵助であるが舞台では大星由良之助という名前になる)を人形遣いが遣った時の、人形である大星由良之助の身振りのことだ。ところが人形遣いは人形遣いとして一生懸命大星由良之助を演じるという行為をしている。シェークスピアでいうと、ハムレットらしい体の動きが身振りで、はまり役としてうれしい身振りをしている、仲代達矢が演技しているのが行為である。
 例えば、3歩あるいてパッっと振り返ると30年前の主人公に変わるという有名な『セールスマンの死』という劇がある。3歩あるいてパッと振り返ると「おお、ボブ」とか言って、18歳のボブをアメリカンフットボールで鍛えようとする若い頃の父親になる。その3歩あるいて振り返るのが、いわば役者としての行為だけど、観客はそこに『セールスマンの死』の主人公の身振りを観ている。簡単に言えば演劇の場合には行為を感じさせてはいけない。観客は、仲代達矢が右左右左って3歩あるく行為ではなく、ハムレットが悩みながら歩んでいる身振りを観なければいけない。ところが文楽の場合は身振りと行為の両方があらわになる。つまり人形遣いがこうしている行為の時、人形のほうはどうなっているかというと後ろ向きで男のつれなさを恨めしく思ってこんなふうに身振りしている。行為と身振りの両方が出てきて、観客が両方を見るのはおかしい、こんな演劇は知らないぞとロラン・バルトは言っている。ふつうの人形劇では、なるべく操っているほうは隠す。つまり行為があらわにならないように隠す。文楽の場合は身振りと行為が舞台の上にあらわになる。
 もう1つは「魂のないものに魂を吹き込んで生かしていると思いがちだけど、そうではない」、当たっているかどうかは判らないが、中々いいところをついている。つまり生けるがごとく人形を遣うのであれば、生けるがごとく人形を動かせばいい。しかし人形のサイズは小さいし、人形の足なんかも見えないし、人形は人形の動きしかしていない。大星由良之助の人形が大星由良之助をやっているのが見えていて、本当に生きている人間のように見えるわけではない。つまり最初からそれを狙ってないと、ロラン・バルトは書いている。これは、本研究会の問題になると思うが、魂の問題にヨーロッパ人は引っかかっている。私は、日本というローカルな地域に住むカトリックだから割とよくわかるが、例えばコッペリアというバレエで、コッペリアという人形がしばしば本物の人間になってしまうところがちょっと恐ろしい。つまり、魂は神だけが与えられるはずなのに人間が魂を吹き込んでしまうのは冒涜である。例えばソニーのアイボやホンダのアシモくんが、動けば動くほど、こいつらは無意識に魂を吹き込もうとしているんじゃないか、と思いがちだが、実際はそういうことをしてない。つまり魂のないものに魂を吹き込んで生かすことはしていないと言っている。
 この2つとも僕の考えと近いから、偉いと誉めている。つまり先ほど言ったように「人間だと思ってたよ、間違えちゃった」ということは絶対にない。それは元々意図してない。
 人形が、分解された動きの組み合わせをやっているのを見て、大星由良之助を見たという気がしているだけだ。大星由良之助がそこにいたとか、人間が大星由良之助を演じていると思ってだまされたということは絶対にない。魂を吹き込もうという気はないのだから。
 どういうことをしているかと言うと、西洋的な魂とは違った意味で、人形遣いは明らかに生けるものとして、私たちと同じような人間として、汗振り乱しながら何かをやっている。魂なきものとして動いているのだけれども、日本的に言えば性根の座った大星由良之助という人間の性根を読み取って、そして大星由良之助を見せている。魂を吹き込んで人間にしようとは思ってないが、性根を入れて大星由良之助に見せようとはしている。人間を作ろうとしているのではないけれども架空の大星由良之助を作ろうとはしている。これは本研究会のキャラクター創造力に関する考えに使えるとのではないかと思う。
 
●仮面
 仮面に注目する。何故かというと、人間はいろいろな形で自分以外であり、自分であるようなことをしたくなるから、様々なことを発明してきた。自分が成り代わるためだけではなくて、人間が使う道具、装置として発生してきた2大発明品が人形と仮面ではないかと思うからだ。これは論理的考察というよりも、経験的な考察によって、そう思っている。だから仮面も人形も、自分以外の何かにならなきゃ成立しない演劇では使われるわけです。船曳建夫が船曳建夫として出ていくのは演説会場ではいいが、ハムレットや大星由良之助になる、つまり船曳が船曳でないものになるには、演技のうまさの他に方法として道具を使う。そこで人間が発明した大きなものが人形と仮面だろうと思っている。ヨーロッパで人形、即ち魂を吹き込む行為は恐れられている話をしたが、仮面は意外に恐れられてない。まだ良く勉強してないが、仮面は人形ほど恐れていなくて、多く論じられているようだ。人形には、ユダヤ・キリスト教では偶像崇拝という何か過ちに導くという感覚、魂のないものを人間化するということは神の本質を見誤ることだという意識が、常にあって恐れられている。だからユダヤ・キリスト教では偶像崇拝は忌避されている。モスクに偶像は存在しないし、ギリシャ正教も偶像崇拝を禁止していた。中世でもしばしばそれがある。
 一方、仮面は偶像と違う形でギリシャ神話以来から様々なところで議論され、使用されて来た。宗教的な場面以外のところでずっと生き残っていて、ペルソナが人格という言葉に移ったように、仮面に関してヨーロッパ人はこれまで長く考え続けているらしい。『仮面の解釈学』という本で、坂部恵さんが「仮面はリアリティーであるところの素顔を隠すものではない」と書いている。ロラン・バルトも坂部さんも「何とかではない」を発見することが多い。だから例えば私、船曳建夫という素顔がいて、仮面を被ると船曳建夫の素顔や人物ではなくなるという単純なことではない、という哲学が今や常識になっている。つまり、船曳建夫が船曳建夫であるということ自体を疑ってかかる。船曳建夫であるためには船曳建夫という実体が最初から最後まで絶対あるという自己同一性は無いというのが哲学の常識になっている。
 他人にとっての船曳建夫と妻にとっての船曳建夫は当然違う。私であるという実体は他人との関係の中で決まるが、私は常に変わらない実体としてあり続けるという自己同一性などはないという訳だ。従って、船曳建夫が鬼の仮面を被ると船曳建夫はなくなって鬼になるということはないのだ。更に説明を加えると「おもては意味されるもののない意味・・・」、つまり私が鬼の仮面を被っても、私が鬼にならないので鬼ということを意味されるものではない。でも私が鬼の仮面を被れば何かを意味するということだ。坂部氏はさらに「みずからの<分身>であり<他者>である影」という面白いことを言っている。影は光がつくる黒い影の他に、日本では面影、心の暗い影、水面や鏡に映る自分の顔の影などを合わせて我々は影と言っている。多くの場合『私』が映されたもの、『私』というのが何であるかわかるという意味をもつ。坂部氏はそこのところを大変難しい言葉で「かげはうつしうつりあうもの・・・人と夢のごとく」表現している。大まかに紹介すると、夢の中のものが本当か、いまこうしているのが本当かということ、我々には、幼少のころから実体というものがないというようなこと、そんな19世紀以降の話を仮面と影のところで書いている。こういう仮面と影の話は、本研究会で人間を考える時にいいと思っている。「みずからの<分身>であり<他者>である影」という辺りが面白い。つまり人間があり、自分を映す水面とか鏡とか光の後ろの影とかがある。自分があるということがその影によって分かる。それを分身と考えたら、それは仮面というより人形のほうに近いのかな、キャラクターに近いのかなと思っていた。坂部さんの本にもそう書いてあったので引用させてもらった。何れにせよ坂部さんも僕も同じようなことを考えている。
 自己同一性の実体の論理は失われた云々というのは、我々がいつも言っていることだし、言葉は難しいが、我々がいま現代の中に生きている感覚の上で、結構そういう実体験をしている。「先立つ他者との差異性の中にしか確立できない私」と坂部氏の哲学論文には書いてあることが、次の事例と見事に対応する。ある学生が18歳で東大に入学し、うつ病になった。原因はキャラが立たなかったからだ。彼らにとって最初の1、2ヶ月ぐらいでクラスの中の自分のキャラを立たせることができるかどうかということが非常に重要な問題である。キャラが立たないと、クラスに溶け込めず居場所がない。多分これは中学、高校でも同じだ。面白い奴とか、どんなキャラでも構わないのだが「キャラが立つ」ことを非常に気にしている。要するに他人に自分が何であるかをはっきり認めてもらう。その結果、コンパにも呼んでもらえるし、飯の誘いも受けられる。影が薄いとクラスの中で段々忘れられて居場所がなくなる。つまり、前は自分が何であるかという以前に先立つ他者に対して、「おれはおれだ」という考え方、19世紀的な自己同一性があった。自己同一性の考え方の上では、いろいろな情況に対応できないので、その後そうでない逆の考えが出てきたこと、日本の少年が自分について悩むことと見事に一致している。だから「おれはおれだ」以前に他者が「おれ」をどう考えるか、どのように振る舞って「おれ」の実体を認めさせるかということを非常に気にしている。
 僕はゼミの面接の時に突然にこう聞く。「君はどういう人ですか?」すると、女の子は気にせずに「私は〜」って答える。男は何か引っかけていると疑うのか、そういう質問を受けたことがないのか「僕が答えていいですか?」「先生は君のことを知らないのだから君が答えてよ」って言うと「みんなは面白いやつって言います」って言う。「みんながどう言うかじゃなくて君はどういう人だと思っているのか君が答えてよ」と聞くと「僕ですか?考えたことないですけど面白いやつだと言われているから?」と来る。そういうやりとりの中に「先立つ他者の差異性の中にしかいない私」という坂部さんが難しく言っていることが事実として表れている。キャラクター研究会との関係性を言うと、つまり、「キャラ」として自分を他者の中に置くことで自分の存在価値が認められる。だから「おれはおれだ」とは居直れない。本研究会の「キャラクター」と「キャラが立つ」というのは重なっていて面白いということになる。
 「感じない男」という本が出版された時、大ヒットする予感があったがダメだった。自分が世の中ではマイナーな人間だからかなと思ってちょっと悲しかった。その本には色々なことが書いてあった。どうして男性はセーラー服好きなのかっていうと、セーラー服の少女になりたいからだ。自分自身がセーラー服の少女になって、愛される体になりたい。14から15歳の時以降、自らの体を汚いということでしか認識できなくなっている人が多くて、40歳の男になってもセーラー服好きだったりする。自分の体を汚いと思って自分を好きになれない、自分が一番愛される体になるのはセーラー服である。同時にセーラー服は「愛される体」であり、「愛された体」ではない清純な体であるというイメージがある。セーラー服をある人たちが好きかというと、そういう意味があるらしい。その時にやはりある意味で「キャラが立つ」とか「先立つ他者の差異の中にしかいない私」とか「魂のないものに魂を吹き込んで生かす」ということ、そして人形浄瑠璃で人形を遣うようなことと同じような状況があるのではないかと思う。つまりセーラー服の少女になるというのは妄想で、もしくはセーラー服を買って着る、どちらにせよセーラー服の少女になるのではなく、その身振りをする。完全に行為を消してセーラー服の少女としてその身振りだけで外に出かけていくことを、本当は期待しているのではない。セーラー服の少女の身振りをするのは家の鏡の前か、これが重要なことですが「あなたと私」の世界の中でその身振りをするのではないかと、私は理解している。「あなたと私」の世界というのは、コミケみたいなところでいろんなキャラクターの格好をしていく世界で、これは皆さんの方が詳しいと思います。男の人でもセーラー服で行く、美少女キャラクターに似てなくても気にせず、その姿をして行く、それで良いんだと思う。つまりバレバレでも良い。なぜなら「あなたと私」の世界での事柄で、あなたと私は互いに身振りと行為の両方があらわになっても良いと、許され合っているからだ。もし第三者が、例えば道を歩いている時にセーラー服の格好をした男性に遭遇すると「あなたと私」の相互理解がないのだから、その行為が目から消えなくて「あ!男がセーラー服着て歩いている!面白いな!気持ち悪いな!」とか「なんだろう?」と言うだろう。しかし全員がオタクという世界では「あなたと私」の中で、身振りと行為が両方あらわになっても良いと許されている。つまり人形に魂がなくても良いし、セーラー服の少女の体は本当の少女の体じゃなくても良い。キャラクターの世界について門外漢の私としては、キャラクターというものはそれに似た解釈、鏡の前か「あなたと私」の2つの世界で成り立って、完結していくという気がしている。


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