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●オタク
 オタクに関する私の解釈は、オタクという言葉は「あなたの家」というような意味ですが、あなたであって、絶対に第三者ではない。多分、オタクはあなたでもないと思うが、少なくとも第三者が出会っている社会ではなくて、すでに「あなたと私」という世界ができている中でのオタクだと思う。その状況で、オタクの人同士が公園のオフ会なんかで会うと「オタクは」と相手を確かめたり、自己紹介をしたりするのだと僕は考えている。
 「我々」という二人称代名詞には2種類ある。日本で我々と言った時には、もしAさんが「あなた」ならば、「我々は」にはAさんは入ってない。日本の私たち、それから英語のweというのはあなたを除いている。だから我々日本人はと言った時は、あなたは日本人でない。ところが少なくとも僕の調査によれば、太平洋諸国には、「私たち」という我々と、「あなたプラス私」という我々の2種類の我々がある。あなたと私が我々である地域では、あなたはもう私たちに入っていて、対立するあなたではなくて一種一緒の我々という認識である。そこで、僕はオタクの「あなた」というのは我々である、つまり「私たち」というyouではないかと思っている。
 
●カレシ
 カレシって言葉があって、これはこれでまた面白い。カノジョでも良いが多く使われているカレシの方でいきます。カレシは第三者である。「彼氏」という言葉は歴史が長いようでして、少なくとも永井荷風の「つゆのあとさき」という戦前の小説にも出てきて、要するに例えばボーイフレンドとか情人(いろ)とか恋人とかをさす言葉として100年使われた言葉のようだ。例えば女の子たち2人が「彼氏ができた」というふうに会話の中で使っている。その時は女の子以外の別のところにいる彼氏について語っている。それはyou and me「あなたと私」の世界ではなく、先立つところの他者の世界である。私の若い時はよく洋服などを買いに行くと店員が寄ってきて「彼氏は何を探してるの?」と、第二人称として話しかけられたものだが、最近はそういう使い方はしていないようである。そういう変化に対して、僕は大きな意味を付与する。つまり「カレシ」というのはyou and me「あなたと私」にとっては第三者であって、やはり「オタク」のほうがyou and meの世界の言葉であり、「カレシ」というのはいくら相手に向かって言っても、第三者で先立つところの他者になりかねないと考える。つまり店員にとって「あなた」と呼びかけるのは、日本の謙譲語のシステムにどこか反すると思って、店員にとっては初めての未知の人間がお客として来ているということへの一定の配慮を示すために「カレシ」という言葉を使う。それでいて店員が私、客に直接話しかけたいわけだから、彼氏を二人称で使うのだと僕は理解している。その限りにおいては「カレシ」という言葉の使い方には、何かyou and meの世界に完結しない異物としての第三者が入って来かねないので、「カレシ」というのを「アナタ」の代わりに使うということは最近では行われなくなってきていると思っている。謙譲がなくなっているのではなくて、閉じられた世界というのをより求めているからだというふうに思っている。
 
●自身
 こここまで話せば、私の話のタイトルが「自身」「分身」「化身」、と今朝になって「変身」を加えて、これから続く意味がお判りいただけたと思う。
 「自身」というのは自分の体で、これは基本的に感じないものだ。幼児心理学や発達心理学を援用すると、生まれた赤ん坊にとって自分の体は感じられない、どこまでが自分の体なのかという感じがない存在と言われている。むしろ最初に感じるのは、自分ではない。例えば母親であるとか母親の乳房や声であるとか、そうした外側で、そこから自分が決まってくる。少なくとも自分の「自身」については感じないというところから人間は出発している。それが次第に自他の区別ができてっていうのが発達心理学の説明の仕方である。
 僕は、大人になっても自分の身、体は感じてないと思っている。自分で自分の体を感じたら、それはかなりしんどい。もちろん寝ている時が一番感じていないが、起きている時でも、常々は自分の体自体を感じるということはない。自分の体を感じてそこからそのこと自体に何か意味や価値や喜びを見出そうとすると、スボーツやダンスやセックスということになる。歩いている時は疲れたとか、石にけつまずいて痛いとか、そういう時には感じるけどそれ以外は感じない。動物というのはいつも自分の体を感じていたら、それは成り立たないということだと思う。何故なら自分の体というのは自動的に脳で制御されている。勝手に心臓は動いて、勝手に新陳代謝をして、さっき食べたものは勝手にいま消化している。いちいち我々がそれを行為として命令したり、それをしていることを感じたりしない。胃がただれて痛かったり異常なことがない限り「自身」というのは感じないものである。
 
●化身
 ところが人間は、自分が自分であることを考える。そのために何かの意味を求める。意味なくして生まれてから死ぬまで生きていられるのは、生まれながらに悟りを開いたお坊さんだけだ。我々は、自分自身が何かであるということを感じようとする時に、何かの意味をいつも求めるが、そのようなものの1つとして、身振りや振る舞いを行う。スポーツであるとか、相撲以前の昔から祭りの中で行っていた競争であるとか、いろんなことをして体を動かして来た。それから体を使って遊ぶことで自分の体を感じて来た。子どもやチンパンジーなんかでも例えばグルグル回って、止まると三半規管の水の働きで目が廻るので、自分の体がグルーッとこう揺れる感じがして、自分を感じる。
 自分を感じることが本研究にどう関連するか言うと、特に文楽に関係して言えば、日本の伝統芸能は自分の体を感じるものとして、3つの手法を用いているということだ。1つは仮面で、それは能に使われている。1つは化粧、隈取で歌舞伎に使われている。化粧には着物とか装飾ものを含めて考える。1つは自分の体に関しての自分の体の技法、技である。歌舞伎は、仮面であるとか化粧であるとか人形であるとか技であるとか、そういうものを総合して、自分の体を何かに化身することで自分の体を感じる。
 
●分身
 化身と分身がどう違うかというと、自分はここにありながら自分の体が変わるということが化身で、自分の体がここではないところにいくのが分身である。例えば文楽なら、自分の腕とつながっているとしても、直ぐ近くにある自分の分身となる。あとで皆さんの議論になると思いますが、キャラクターを買ってきて、とりあえずは自分の体を感じるものとしてそこに置く、そういう時には化身というのとは違って、自分の身から分かれ出たものとして自分の身を感じる分身になる。孫悟空の分身の術みたいなものでたくさんの自分ができるというような現象があったりする。
 歌舞伎や文楽の場合には化身するのだが、ある情況では分身になる技がある。全ての芸能、演劇、演技において、歌舞伎がその辺りではもっとも技が進んでいると思うので、次の事例で分かりやすく説明出来る。大星由良之助というのが舞台上で市川団十郎という役者が演じている。市川団十郎と大星由良之助は全く一致しているかというとそうではなくて、比喩的にいうとちょっとズレたり、輪郭線が揺らいだりしている。大星由良之助が前面に出たり、市川団十郎が前面になったりする。同じ場所にあって化身なのだが、外園や外側はいつも揺れていて、例えば観客は大星由良之助の身振りに対して「大星由良之助!」と声かけるのではなく、団十郎の演技という行為に対して「成田屋!」つまり「団十郎!」と声をかける。その時は明らかに一瞬だけ団十郎のほうが前面に出て、また後ろに引っ込む。団十郎の大星由良之助の演技自体がちょっと揺らぐと言っても良い。その揺らぎの中に、分身まではいかないが、化身でありながら分身している技を見せる。その演技の揺らぎを観客も楽しんでいるという意味では、文楽は分身であり歌舞伎は化身であると、完全には分けられないと思う。歌舞伎がこの技に最も優れた演劇かというと、実は市川団十郎は戸籍上は堀越夏雄という人が襲名している。堀越夏雄は市川団十郎を演じ、市川団十郎は大星由良之助を演じるという三重構造になっている。「団十郎さん」と呼んで「はい」という時は団十郎をやっている、時に幸四郎が横に来て昔からの呼び名で夏雄だから「なっちゃん」と呼ぶと、団十郎は夏雄に戻る。だから堀越夏雄と市川団十郎と大星由良之助は完全にぴったり合うことで化身を果たし、演技の目標が完成される時と、同時に堀越夏雄と市川団十郎と大星由良之助がズレること自体が歌舞伎の演技をする上で、分身的な技を見せて、観客を楽しませる点となっている。完全に大星由良之助だけが現れることを観客は期待しているのではなくて、「団十郎きょうはうまかったね」って言う時は、団十郎だってことを最初から知って大星由良之助を見ているし、堀越夏雄さんが団十郎になる瞬間を楽しむ場合もまた別にあるのだ。化身と分身というのはパッとはっきり分けられない。
 まず、「自身」というのが感じないものとしてあって、その感じない自分の身を使って何か喜びを引き出す、または何事か満足を引き出すためには我々は「化身」をする。「化身」の中でも、例えば人形を使うという強い方法によって我々は「分身」をする。「分身」は人形浄瑠璃であるとかキャラクターというところに現れる、というふうに理解することにする。
 例えば団十郎さんが大星由良之助を演じている時でも、ある人がキャラクターの美少女、例えばセーラームーンのコスプレをしている時でも、それは「化身」でありながら同時に「分身」としてのズレみたいなものも同時に楽しんでいるというのがある。まだちょっと考えが完全になってないところなんですが。
 
●ヘンシーンとしての変身
 結論としては、昔テレビ番組であった「ヘンシーン」という意味としての変身が出て来る。「ヘンシーン」変身というのは、化身から分身となりながら自分自身の初めての部分を、you and me「あなたと私」の関係の中に発見し、体を取り返すということだと思う。同じような変身は、ある演技、日本の伝統的な芸能の中でも、例えば歌舞伎や文楽の世界にも現象としてある。また、我々が好んだキャラクターに扮したり、キャラクターを収集することにも同じような「ヘンシーン」現象というものを使って楽しんでいる。
 最後のyou and meの関係の中にという意味を、キャラクターの世界では特に説明されなければならない。西洋哲学では自己同一性が失われた後に人は他者の差異性の中で、つまり他人を含んだ、または他人が認めるところの私で生きていくとされる。もしくは「おれはおれだ」といったところで何も意味がなく、他人の入った関係の中で私がどう違っているか、ということでしか私は私でない。you and meの関係というのは、つまり彼氏というか、第3者がいないわけですから他者の差異性がない。言葉が適当かどうか判らないが、他人が入らない関係の中では、キャラクター間の差異性だけが大きな問題なのである。つまり、ゴマンとある様々なキャラクターは、1つ1つ何かが違うというところが問題で、それは他者が入ってくることによって私が差異を決定されるのではなくて、you and meの世界で第三者を入れずに差異性だけをどんどん増殖させていく世界である。キャラクターというようなものを好むオタク的な人たちの性向には、そういう差異性だけを増殖させていこうという意識があるのではないかと思う。ヨーロッパの哲学は、自己同一性が崩れたあとの他者によって成り立つ差異性の世界を言っている。それに対して日本のある『オタク文化』の中では、他者なき差異性の世界というのを作っているというのが当面の結論であります。
 以上です。
 
 


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