座談会
競艇の高天ヶ原! 創始時代を語る
日時 昭和44年3月17日
場所 東京・日本都市センター
出席者 (敬称略)
東京都モーターボート競走会長
藤 吉男
元全国モーターボート競走会連合会総務部長
前埼玉県モーターボート競走会常務理事
平野 晃
日本モーターボート協会専務理事
原田綱嘉
全国モーターボート競走施行者協議会専務理事
高橋百千
競艇沿革史編さん主務者
埼玉県都市競艇組合助役
司会 塩原圭次郎
司会挨拶 本日はお忙しいところをご出席下さいまして誠にありがとうございます。
ご承知の通り、競艇十五周年記念事業として、競艇沿革史を発刊いたすことになり、目下編さん中でありますが、これについてモーターボートがギャンブルとして発足し、実際に施行された当時のこと、たとえて申せば競艇の高天ヶ原時代、次いで神武天皇即位のころ――その当時実際にご関係なされたお三人にお集まりを願い、当時のご苦心、ご苦労のほか、でき得れば裏話なども承り、これを記録に残したいと存じますので、よろしくお願いいたします。
モーターボート競走の発想
司会 はじめに、津競艇沿革史(増田正吾氏編)を拝見したんですが、福島世根さん(某高僧の愛人だったといわれた人)という人が初めに出ておりますので、この人はどういう人かと思っていまして――この間、笹川先生にお会いしたとき伺ったところ
「モーターボートをギャンブルにしたいというアイデアは私が獄中にあったとき、たまたま、英国のライフ誌を読んでいるうち、英国では自転車がギャンブルとして開催されていることにヒントを得て、海国日本はモーターボートをギャンブルとして市町村の財政に寄与したらと考え、出獄早々この構想を発表したが、自分では運動できないので福島世根(当時六十二才・故人)や矢次一夫氏に依頼して運動を開始した」
とのことでしたが、その後どういう経過をたどったのでしょうか?
藤 それは、平野君がいいでしょう。
平野 藤会長は、古くから笹川先生とご一緒で、よくご存じだと思うんですが、私の知っているのは極く一部分だと思いますが、立法化することについて笹川先生と矢次先生が話し合われ、その第一歩として大野伴睦氏をたずねて舟艇協会を紹介されたと記憶しております。――確かなことは笹川先生にお聞きしなければわかりませんが――私たちは、モーターボートのアマチュア団体として、舟艇協会があることさえ知らなかったんです。
藤 私は、大体ギャンブルぎらいで・・・全然、関係していませんでした。笹川先生が巣鴨から帰って事務所を開かれたころ、時々、福島さんが出入りしていたようです。これはモーターボートの話が出る前ですが――福島さんが韓国人に脅迫された事件があって、笹川先生から「藤君!ひとつ力になってやれ」といわれたんですが――その問題には介入しませんでした。
笹川先生は、国粋大衆党時代から「四面海の日本は海外に進出しなければならん。海国日本らしいやり方をやらなきゃならん」と主張されており、巣鴨で更にこの信念を強められたようです。
ここでお話ししたいことは、安岡正篤、笹川良一、矢次一夫、この三人は実の兄弟といってもいいほどの親交があり、たまたま、モーターボートの話が出て「社会復興の企業としてやって行こう」ということで、盛り上がったんだと思います。そして、そのころ大野氏の所へ出入りしていた福島さんが“使い役”をされたそんなことだと思います。笹川先生は、物心両面で、ずいぶんご苦労されていたご様子で・・・。発端は、ひょっとしたはずみじゃないでしょうか?
平野 いまのお話で思い出したんですが、安岡、矢次両先生のパージ解除のお祝いは、ご一緒でしたが、なかなか盛大でした。
藤 平野君は矢次さんの秘書兼総務部長のような役割りをやっていられたわけですが――原田君との関係は?
平野 先きにお話ししたように、モーターボートの専門家である日本舟艇協会に母体になってもらって、法律を作るにしても、ギャンブルとして取り上げるにしても、対象になるかどうか――いろいろとコーチしてもらうため、適当な人を派遣してほしいとお願いしたわけです。それで、まっ先きに原田君が推せんされて――。
藤 土肥君は、あとでしたか?
平野 エンジニアとして原田君一人でした。舟艇協会は原田君を派遣してくれたほか技術的なことで全面的に応援してくれました。その後、私や原田君に相談があって、企画性もあり筆も立つというので土肥君が企画部長として入られたんです。それから両君の関係で、道明君、道明君の関係で菊池君。道明君は後の技術部長です。
司会 福島世根さんが銀座の事務所へ出入りされたのは、いつごろからですか?
平野 あれは二十五年の夏ごろでしたか?
藤 二十三、四年ごろから、あの人は来ていたようです。矢次さんもそうです。
平野 何やかやで、私がおたずねした人で覚えているのは、中島久万吉さん、郷古潔さん――。
藤 それから美濃部洋二さん、倉茂貞助さん――。
平野 美濃部洋二さんは競輪の理事をやっていられて、連合会の設立準備委員会で作った運営委員会の初代の委員にもなられました。競輪のことをお聞きするため、神谷町のお宅へ何べんもお伺いしました。倉茂さんもいろいろ知恵を貸して下さった。
藤 美濃部さんは、矢次さんの紹介でしょう。
平野 そうです。
司会 (津市競艇史を開いて)これを見ますと、銀座派と歌舞伎派があって、銀座派の方は足立正、中島久万吉。歌舞伎派といわれる方には前田一派とありますが――。
藤 当時、大野氏のお弟子さんの前田郁氏が衆議院の運輸委員長をしており、参議院の運輸委員長は植竹春彦氏、後で私のところの名誉会長になった中島守利氏、これらの人たちが議員会館で会合しておったが、大野氏の紹介で前田委員長と知り合った福島世根氏が、いわゆる銀座派の情報を持ってこれに合流、この方の連合会設立準備会事務所を歌舞伎座の中に設けたので、これを歌舞伎派と称するようになったのが本筋だと思うんですが。
平野 そもそもモーターボートの発想は福島世根さんから始まって、民間の笹川、矢次両先生から出た話が議会にかかった。その前後、運輸委員長前田郁さんがこれをキャッチして、そこから二派に別れる発端が始まった。そういうふうに記憶しておりますが――。
藤 私もそうだと思います。
平野 国会にかけるまでには、いろいろと紆余曲折がありましたが、津の競艇史にも書かれているように各党の共同提案で行こうということで、自由党は神田博さん、民主党は有田喜一さん、社会党は土井直作さん、この三党三人の方が三党の総務会をまとめるために努力されました。六十何名の議員提出ということになったんですが、そこまで漕ぎつけるには大変な苦労があったんです。
有名な、藤さんの「広川弘禅宅夜襲事件」は、この期間中の出来ごとです。当時の自由党は吉田総裁の時代で、吉田さんは大のギャンブルぎらい。同じころ農林委員会の方にはドッグレースもかかっており、自由党からは提案しにくいという事情もあったわけです。そのころ広川さんは自由党の総務会長でした。とにかく三党で話がまとまり、法案が議員提出立法として、運輸委員会にかかったころ、前田委員長が、自分の関係範囲で中央の連合会を作ろうという強い気持ちを持ったのではないかと思うんです。
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