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 編さん部では四十二年十二月七日井上業務課長を特派、芦屋の選手宿舎にて当時の指導員藤村、山田、峯の三氏に会合を乞い、座談会を開き別記の如く苦心談に花を咲かせた。
昭和四十二年十二月七日
於 あしや選手宿舎
水明荘における「選手養成訓練」座談会
出席者
福岡県競走会 藤村魁一
福岡県競走会 山田平次郎
〃 峯 敏彦
司会 井上武治
司会者 本日は御多忙中を開設当初水明荘で選手養成された方々にお集りいただきその当時の訓練の模様や思い出話などを聞かせていただき、会史の一頁を飾りたいと存じます。
 相当の年月も経過している今日御記憶を辿って思い出していただきたい。養成訓練が始まった時は何年の何月ですか。
藤村 九月の始め頃と思いますが正確な月日は覚えておりません。レース開催を調べると分かると思います。確か二十七年の九月ではないかと思います。
司会者 養成訓練の担当者の役割、教官の分担区分などについて――。
 分担については総責任者が西さん。全般、藤村。操縦、数学・エンジン、山田。整備、松永。法規・国語・社会、峯。助手、楠本寛之、同、平尾幸治。
司会者 養成期間はどの位ですか。
藤村 二ヵ月間あしや若松の初開催に間に合わせるべくやった。期間は二ヵ月間ですが途中で赤痢騒ぎが出て十一月五日に芦屋で登録試験をやりました。
司会者 教科の内容、お気付きの点など、まずエンジンについて――。
山田 当時はモーターはキヌタのエンジンで、大村の施行者から借用してやった。一ヵ月訓練した後で若松、あしやからボート、モーターを入れた。
 一番苦しかったのは、あしやが明日からレースを初めなければならない、これでレースになるのか、と一番心配しましたがどうにか初開催にこぎつけました。
司会者 若松、あしやの受入れについてのいきさつもあるもようですが、その点について。
藤村 長崎県競走会が福岡県から委託された。七月二十九日福岡市の西公園に来るように全連から言われて私と山田が行った。総務部長から水面が競走に可能かどうかと言われた。
 何分自分達が十分でないのに、養成するなどとはどうもできないのではないかと再三辞退したが、競走会が養成員を受入れられた。人員は五十名、その当時の応募者は約七〇〇名以上あった。
 吾々試験委員は一晩中かかって採点して審議、十何人に一人という競走率が高かった。
 若松であしや、若松の市議や関係者が集まって採用決定は地元の方がやられた。採用までは難しい過程を経てきたが、養成していくうち五十名の中一名(高山高明が色盲のため)不適格となり、後の四十九名は全部合格させた。
司会者 訓練の内容宿舎における生活規則などにつきまして――。
 受入れとしましては全員を四コ班に編成、女子は別に一コ班に区分し、教官が海軍出身であった関係から、日課時限などもその通り定め、全連が現在本栖湖で使っているものはその当時のものをそのままとなっている。土曜は半日、日曜は休務、出身者が福岡であったので土曜日の午後から帰省させた。
司会者 帰省させていた頃、時間的に遅れるとか、だらしのない者はいなかった。
 二ヵ月間を通じて一名の脱落者もなかった。当時の生活様式としては厳しいものであった。大部分が学校教師や、予科練出身者であった。
司会者 訓練内容、モーター、乗艇などはどうですか。
山田 十五馬力一機、十二・五馬力一機、ボートはハイドロ一隻で基礎訓練を行なった。五十名では順番が仲々回らず、何とかボート、モーターを増加したい。丁度その頃あしや、若松から十二機のボート、モーターが到着した。教える側も始めてで、大村でやっているレースを基盤にして進んだ。
司会者 教科書、テキストなどはどうですか。
藤村 テキストや教科書は何もなくて急遽作った。田崎氏がエンジン理論家でこれを基準にして作った。
 競技規則はA、P、B、Aからのものをやった。既成のものばかりで体毎ぶつっかって行った。辛うじて登録に合格した。その点非常に苦痛の種であった。
司会者 術科の方は大分苦労が多かったようですが、学科の点、バランスや試験などについて――。
 養成員の学力は中学卒業程度の学力であったが入所当時の試験の成績は余り芳しくない。レベルを上げるためには如何にするか。
 中学卒業というのは旧制中学卒業のことです。昼は操縦、学科は夜やるので一般学科の時間がなくて主任教官とガタガタしたこともある。普通学は雨の時にやれということであったがその頃は天候が良くて仲々雨がなく延灯して試験した。
山田 数学は女子が非常に低かったので、女子に特に力を入れてやると不公平だと、男の方から声が出た。数学は女子が弱かったので私が苦労した。
司会者 訓練はレース中はどうしていたか。
藤村 指導員としては非常に困った。教官が協議して、先ずしつけが第一と計画して軍隊の良い所を取入れ、現制度を作った。レース場は使えない、又レース場にいてはいけない、それで東浦で練習するのに舟はない、大部分はエンジン艇、器材、弁当をかついで山越えしてやった。レースの始まる前にそこを引上げて厳重に安全を主体とした訓練の指示をしてレース後又行く、非常に感心なことは一人の不平も出なかった。教官と養成員が渾然一体となってやったことが、一人の脱落者もなかった結果となった。大村は波が高くてスタート練習が出来ず一案を思いつき、自転車でスタートの練習をやり一秒の余裕も与えなかった。
 一番辛かったのは赤痢が出たこと――何とかして訓練はしなければならず、夜逃げを計画したこともある。あしや若松の分散のこともあり、あしやの年長者であった中西安太郎に何とかしてボートを動かすようにしておけと命じた。事実暗くなるまでボートを走らせた。養成員の強固な意志で動いて来た。
 若松の困難な状勢下にあって訓練をした。本格的な訓練はあしやに来てからで、水面が自由に使えるし、大村では波が高くて乗艇ができなかった。日程的に追いつめられた苦しさもあった。
司会者 その他印象に残ったことや苦心など。
 補佐として参画、宿舎では舎監をした。地元の一員として仕事をした。特に若い者の食事、米の入手については顔をきかせたり―苦労した。又、肉、野菜、鮮魚などの仕入れなどに気を使った。
 終わり頃スタート訓練の時、季節風で波が高く、成果が揚がらぬので何とかしなければならない、そこで一案を考え出して、自転車でスタート訓練をしたらどうかというので自転車六台を買ってフライングスタートの練習、三米の竹棒を作ってやった。自転車のりのできない者がいてそれも訓練した。
山田 食糧の点では皆さん大変苦労されました。私は自宅から通いで毎日泊らなかった。夜おそくまで時間をさいて数学をやらせた。北九州の連中の気質は石にかじりついてもやり通す。
司会者 訓練中の武勇伝などはいかがですか。
藤村 食糧は配給制度で西さんの奥さんがやられた。地元はいなくて助手だけであった。土曜日の午後から帰省させた、両親に状況を話して激励して貰う。又、食糧事情をいくらかでも浮かそうということもあった。
司会者 本日はお疲れの処、長時間非常に有効なお話を聞かせて頂き有難うございました。ではこれをもって閉会と致します。


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