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五 競走場の建設
(競走場の位置決定より建設着手まで)
 競走会創立総会までの経過概略は以上の通り既に準備は終ったのであるが、施行者指定が昭和二十六年十月二十七日運輸省審議会通過、翌二十八日地方財政委員会で決定された段階でも競走場の最終決定に至らず、その早期選定が望まれていた。
 それまで候補地としては第一に西の浜海水浴場があげられ、次に大島桟橋前の海面−現在の唐津東港海岸であり、佐志幸多里の浜、東の浜二軒茶屋付近の海岸、松浦川千人塚河畔と五指にのぼる競走場候補地が挙げられては種々の理由で消えて最後に残ったのが今の栄町松浦川河口(現競走場)であった。しかし栄町の松浦川河口にしても種々問題があったようだ。
 その一は競艇場建設のため必要な河岸埋立に対する松浦川上流町村に反対意見があったことであり、又競走のためのモーター、或いは花火などの騒音を理由に唐津東高等学校やその父兄から反対が出た等、その決定が遅延したが唐津市公安委員長、唐津市婦人会長、唐津市校長会長、唐津市PTA連合会長、唐津市観光協会長等の了解、賛成が得られ、最終的にここに決定され、昭和二十六年十二月二十日付で唐津市長(清水荘次郎氏)より全国モーターボート競走会連合会長足立正氏宛モーターボート競走場事前審査申請書が提出されたのである。
 その後、二十七年一月十日に唐津競走場指定促進協議会が設けられ、唐津競走場指定について陳情することが議せられ、直ちに代表者が九州海運局に指定促進方を陳情した。
 この協議会メンバーは唐津市より市長清水荘次郎氏、助役渕上春一氏の他に庶務課長池田九州男氏が加わり、競走会側から理事長久保幸喜氏、専務理事中島太氏、外に九州海運局唐津支局長奥浜恵俊氏が参加している。
 なお競走場の設置については佐賀県内では唐津市の他に伊万里町(現伊万里市)も昭和二十六年末より名乗りを挙げ、モーターボート誘致期成同盟を結成し猛烈な運動を展開していたのである。
 その当時の実情については地元の唐津新聞が二十七年一月十一日付で、「軍配は何れに?モーターボート競走場誘致に両者猛烈なる争奪戦を展開」という見出しでその間の事情を詳細に報道している。
 しかしその時は既に九州海運局では一月十一日付で唐津市が財政的に施行者として適当と認める旨の副申書を本省に提出したと唐津支局に連絡が届いていた。
 昭和二十七年一月二十四日には主務省の九州海運局監理課長春山清氏が来唐し、唐津市議会議長宮崎芳郎氏外関係市議及び佐賀県モーターボート競走会理事長久保幸喜氏の立会で競走場に内定していた松浦川口一帯の現地下調査を実施された。その結果について春山課長は次の通り語った。「現地調査の結果、規定の水深まで浚渫すればコースは十分にとれると思う。唐津は交通的にも施設の立地条件も適当と思う。下調査の結果は直ちに運輸省に報告する。本省で検討された上、認可については全国モーターボート競走会連合会運営委員会が最終的に結論を出す事になろう」との事であった。なお春山監理課長外調査官一行は翌二十五日伊万里町を調査している。
 昭和二十七年二月六日には全国モーターボート競走会連合会運営委員長矢次一夫氏、九州海運局山岸舟艇班長一行の現地調査を受ける。一行は競走場予定地の松浦川口を調査、清水唐津市長、金子競走会長及び久保理事長から施工について説明をうけたが調査の結果について矢次委員長は次のように語った。
 「唐津は場所としては結構だと思う。しかし施工については運輸省から指示されている種々の条件を充たす事が先決であり、又県当局の意向も聞き、これを勘案して二十日頃運営委員会を開き審議したい。伊万里は翌七日視察するが施行者の準備の都合もあるので二月の末日までにはその何れかに決定したい。どちらに決定しても仲よくやって貰いたい」旨の含みある発言があった。
 その後全国モーターボート競走会連合会(会長足立正氏)は「佐賀県下におけるモーターボート競走場施行について唐津市、伊万里町競願の形になっており県の態度がはっきりしないので最近まで決定を保留していたがこれ以上のばす事は運営に支障がある」として正式に唐津市を指定する事にし、この旨運輸省に必要な手続を取る旨の文書を唐津市長及び競走会長に出したとの記録がある。以上の経過をもって昭和二十七年三月二十九日地方財政委員会告示第十七号により唐津市は施行者の指定をうけたのである。
 かかる経緯を経てモーターボートは本格的実現の段階に入ったのであるが、当時一般市民の考え方に競艇よりも競輪をとの意向がまだまだ圧倒的に強く、唐津市長としてもその選択に迷った形勢にあり、その情勢が競艇設備の着工を著しく遅延させたものと思われる。即ち当時の競輪誘致の動きは活発で二十七年七月二十六日には鬼塚村、久里村、鏡村(何れも現唐津市)及び浜崎町の議会代表者が唐津市に集まり、清水市長、渕上助役、宮崎市議会議長、殿川副議長と会談し競輪誘致組合を結成して積極的にこの問題に取り組む事が決議されている。
 しかしこの競輪場誘致問題は同年十一月に至り、通産省(通産大臣池田勇人)方針として新規許可が絶望視される事態に立ち至っている。これを転機として諸般の情勢は一変し、競艇事業促進に固まり、市民の世論も傾き、昭和二十八年一月六日には観光事業発展の大乗的立場から唐津市旅館組合、料亭組合、食堂組合等が中心となり競走場建設期成同盟が結成され、促進活動を始めている。一方当時唐津市政を批判し活動中であった革新系の唐津市政刷新同盟が非教育との見解から反対に廻り市執行部を牽制していた。
 しかし既に議決された市議会の決議は無視する訳には出来ずまた財政的に背に腹は代えられぬ立場から市当局は当時建設中であった大津、津、尼崎、若松、芦屋等の、レース場を実態調査する事となり、庶務課長池田九州男氏が派遣され、最終結論はこの池田調査にまつこととなったのである。池田氏は二十八年一月十四日各地実地調査の結果を唐津市長に報告し、一月二十一日の市議会で大要次の通り報告している。
1 売上は各地の立地条件により異るので収益があるか否かについては一概には言えない。
2 旅館、飲食店等への影響は期待がうすい。
3 競輪に比し大衆的に親しみがうすい。
4 教育的には競輪ほど悪影響はないだろう。
と報告したと当時の唐津新聞は伝えている。
 市議会側ではこの池田報告にかかわらず、当初方針通り競走場は設置する腹を固め、当日の議会でレース場を栄町(現在地)にすることを改めて確認している。その時も清水唐津市長は栄町は埋立工事との関係上慎重に検討したいと議会に回答している。
 この頃九州海運局からは「モーターボート競走場建設は昨年六月決定し、既に六ヵ月経過した今日未だに着工していないが建設するのかどうか。若し建設するならば六月はモーターボートの好シーズンであるからそれまでに完成する様急がれたい」旨の文書督促があった。
 かかる事情下に二十八年二月十七日唐津市議会では競輪誘致不能が確認された現在モーターボートに全力を注ぐべきであるとして競輪特別委員会、競艇特別委員会を解散し新たに競艇委員及び競走場設立委員を任命し、本事業の早期実現に踏みきったのである。
 委員会委員氏名次の通り。
一 競艇委員会
矢野 栄  前川義春  亀井直人  谷口三治  田中忠二  野崎和一郎  安藤大三郎  宗田義見  高田安一  浦田喜市  花田繁二  増本嘉市
二 競走場建設委員会
中尾茂雄  香月良弘  堀川芳雄  宮崎喜重  吉永常太郎  村山錠吉  森口猛一  花田繁二  勝山銀太郎  吉田善太郎  増本嘉市
 以上の委員によって本格的活動が開始され、市当局及び議会の方向は完全に建設推進に一致したのである。
 
六 競走場着工よりレース初開催まで
 昭和二十八年四月十四日、レース場護岸工事契約が佐賀市上滝組と締結、同月十七日起工式が行なわれた。式は八島天満宮宮司により行なわれ唐津市から市長代理渕上助役議会から宮崎議長、競走会からは金子会長、佐賀県から宮副県経済部長が出席、渕上助役のスイッチ操作で浚渫船が始動し、工事が始まった。
 昭和二十八年六月九日、陸上の施設工事関係の第一次工事契約(穴場関係設備)、同二十二日には第二次工事契約(本部、スタンド、艇庫、競技本部等)が佐賀市上滝組と締結何れも七月二十日完成を条件にして突貫工事を始めた。以上の様にやっと重い腰を上げた唐津市でもやはり競艇開始となると一日でも早くというのが人間の情で、特に夏のシーズンをのがさず是非開催したいとの希望が強くなり、八月開催を目標に関係者はそれぞれ懸命の努力をつづけたのである。
 この努力にもかかわらず工事の進行、設備その他の準備の都合で八月開催が危ぶまれたが、ともかくも八月五日開場式、八月七日初開催とまでこぎつけた苦心は並大抵のことではなかったろうと当時が偲ばれる。この事は昭和四十三年六月二十七日唐津競艇十五周年記念式にわざわざ出席された笹川良一全連会長が、その挨拶の中で当時のことを回顧され、唐津競艇場は設備が不十分であるから八月レース開催は延期してはどうかという九州海運局の意見があったが金子道雄競走会長の強い開催意見とその熱意に笹川全連会長もついに同意せざるを得なかったと述懐されていた事を思えば感慨無量のものがある。
 かくて昭和二十八年八月七日唐津競艇初開催。幾多の起伏、変遷をたどり松浦河畔にモーターボートの波しぶきが上り爆音が響いたのである。その当時の施設状況は次の写真でご判断願い度い。見るからに殺風景でいまに思えば正に隔世の感があり、なつかしくまたほほえましいものを覚える。
 
唐津競艇、初開催の宣伝車
 
唐津競艇初開催当時の写真から
開場式当日の入場門(S28・8・5)
 
超満員のスタンド(初開催)
 
モーターの装着風景(初開催)
 
 なお参考までに記念すべき第一回第一節第一日、第一レースの記録をとどめて置く。
第一レースB級ランナーバウト一、八〇〇米
1 発売総数 六四九票(単式五一票、複式三五票、連勝式五六三票)
2 競走成績 入着三−四(一着、登二五五・福田幸信《福岡県選手》、二着、登六七二・脇山兵衛《佐賀県選手》)
3 払戻金 単式三一〇円、複式一八〇円、連勝式三、〇四〇円
4 売上合計 一、四一七、〇〇〇円
5 入場者 三、一九七名


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