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 こうして心待ちしていると、八月十日頃になって東京からの連絡があり、小田助役が町長にかわって上京し、居残り中の小田十壮氏とともに関係筋に出頭し、結局、全連の矢次氏を介して昭和二十七年八月十二日付の運輸省の芦屋町外二ケ村競艇施行組合に対する競艇場設置認可書を受けとって、大喜びで帰って来た。また、若松市に対しても、そのあと同様に認可がおりたのである。ちなみに福岡県モーターボート競走会に対しても、既に同年七月二十五日をもってその設立の認可があっていたし、これで福岡県下での競艇事業実施の基盤はととのったのである。
 ところでこの競艇事業は、芦屋町としては、昭和二十七年中には実施したいと目標をたてていたので、認可がおりたうえは一日も早く施設をつくりあげ、開催しなければならない。若松市においてもまた同じであったろうと思われる。そこで競願で鎬を削った両者は、必然的に再び施行開催の後先を争う立場に立ったわけである。
 芦屋町では競走場の位置を山鹿地区の城山山麓の川ぞいの土地と遠賀川の水面をその施設計画地としていたので、先ず敷地の整地に着手しなければならない。用地は必要に応じて買収し、或いは賃借することになったが、地形上、河岸に接して連なる雑木に覆われた小丘を半分ばかり除去する必要があると同時に、厄介なことに、十数年前、大洪水のため陥没している以前の芦屋橋の残骸が、芦屋、山鹿の両岸から数十米にわたってそのままになっており、その半分ばかりを取り除かねばならない。思い切って爆破すれば、破片が市街地にとびこんで来るおそれもあり請負業者の苦心も一通りではなかった。一方建築作業が可能な部分は早速建築工事にとりかかるというわけで、文字通り昼夜兼行の作業が開始された。まるで盆と正月が一緒にやって来たような忙しさの中に、事務所、倉庫、選手控室、本部、大スタンドと工事は一挙に進められて行った。
 また他方では、事業課設置に関係する町職員の採用、投票所に必要な三百数十人にのぼる従業員の雇傭、競艇場の内部に使用する備品、消耗品等の調達など事務面でも多忙を極めた。そうしたあわただしい毎日ではあったが、従事する職員の顔は、将来を夢みるように晴れ晴れとして働いていたのである。
 しかし、前にも述べているようにこの事業を行なうために必要な財政的余裕は一文もない。従って費用の全部を借財で賄う以外に方法はない。だが当時の銀行は、自治体に対してはなべて警戒的かつ冷淡であった。
 それは自治体の財政的窮状をよく知っていたためである。だから自治体に対してはたやすく金を貸そうとしない。ましてや最悪の状態にある芦屋町においては尚のことであった。町当局首脳の必死の願いにもかかわらず、殆どの銀行から直接融資を受けることは、絶望視される状態となったのである。余程有効な担保財産をもっていれば別であろうが、芦屋町のように財産らしい町有財産を持たぬ町では問題にされなかったのである。一般商社や個人では、海のものとも山のものともわからない競艇事業を目当てにして、金を貸そうという篤志家もいない。まして数千万に達する金額でもあり、やむを得ず縁故をたどって、その侠気と同情にすがる以外になかったのである。そこで、黒山町長は、またまた木曽重義氏にこのことをお願いしたのである。
 木曽氏はこの切実な願いに対して特に好意を寄せ、その主宰する木曽砿業株式会社の福岡銀行での昭和二十七年度年間融資の枠のなかから、芦屋町に割愛して譲ることを承諾していただいたのである。そのほか吉次鹿蔵氏の斡旋や町の有力者である梅林忠春氏の好意によって、同氏が専務理事として、采配をふるっておられる株式会社梅林組の、同じく福岡銀行融資枠から芦屋町に融通して貰うことになった。こうしてご両所の保証によって合計三、五〇〇万円の借財が可能となったが、そのかわり、担保には芦屋町の役場庁舎、学校などの公共施設を差入れることになったのである。こうしてヤッと基本的資金の把握ができ、愁眉を開いたのであるが、前記諸氏の好意、親切と福岡銀行幹部の配慮に対しては、深く感謝したのである。
 ところで梅林組に対してはこればかりではなく、一切の工事を随意契約で請負ってもらったが、工事費の支払いは一ヵ年後という勝手な条件をつけた。梅林組はこれについても快諾され、町のため商売気抜きで誠意をもって工事にあたってもらったのである。梅林忠春氏に対しては重々感謝するところである。
 こうして事業計画は進められて行ったが、突貫工事の効果は、如実に現われ、一日一日と目に見えるように工事は進捗して、とうとう十一月の初めには予定の工事を完成したのである。もっとも、当時はスタンドも屋根なしの青空スタンドであったが、競艇が始まって間もない頃であった関係で、芦屋に限らずどこでも似たようなものであった。いまから考えると大きな違いである。
 芦屋競艇はその後、雨天ともなれば大きなテントを張って屋根に代え、雨をさけて貰ったがそれでもファンは不満を訴えなかったから妙である。
 こんな具合に、建築工事は完了したが、一万、競艇用のボート、エンジンの設備については当時これらのオーナーになろうという人はいない。成功するかどうか雲をつかむような話には資本を投ずる人がいないのも当然だった。施設会社など考えても見ない時で、仕方がないので一切のことを施行者がしなければならなかったのである。全連がやるべき選手養成も県の競走会へ、それがまた新施行者にとリレーされて、結局施行者が選手の養成を手伝ったような時期で、芦屋町も若松市も選手養成には、採用、訓練など大いに手伝ったもので、登録番号二〇〇番代の選手が生れて来た。とに角その頃はすべて創造混沌の時代であった。選手についても一つ変った話がある。芦屋競艇がいよいよ初開催を目前にしていた頃、大村市で訓練中の選手のなかに赤痢患者が発生し、多くの選手が隔離病舎に強制収容されてしまった。開催準備に大わらわの芦屋町ではこれは大変とばかり、吉田三郎氏と熊野太郎収入役があわてて大村にとんで行って状態を聞き、長く入院せねばならない選手はごく僅かで開催に支障ないとわかって一安心したこともある。
 さて、一応基本的な資金はできたものの、何しろ総額九千万円ほどの資金も要することでもあり、やはり資金不足ははっきりしており、やりくりは大変だった。ボートやエンジンの購入費にしても、町民有志や周辺市町村の有志にお願いして、一定の利息をつけて借財することにした。このことについては、町議会議員の有志にも大いに協力してもらったがこれに応えた町民も多数にのぼり、福岡市にはかねてから芦屋人会という郷土出身者で結成された会があって、会員のなかには、元芦屋町長、長野政八氏や木村甚三郎氏、永島武雄氏などの有力者が居られ、斡旋盡力をしていただき、会員多数の方が多額の金員を融資、寄与していただいたのである。また永田忠氏のように周辺有志の多額の応募も一、二でなく、当時の遠賀郡香月町の金丸熊太郎氏、隣町水巻の住吉鹿之助氏、中間市の岡部甚作氏などにも資金調整のうえで多くの支援と配慮を蒙ったことは感銘深いところであり、これらの多くの人々に対して深く感謝したものである。
 こうして関係者の不眠不休の努力のすえ、十一月初旬、予定どおり競艇場の整備が完了したので、十一月七日に福岡県における最初のモーターボートレースを開催することに決めたのである。幸いその前日、即ち十一月六日付で芦屋競艇場の登録も終わり、いよいよ七日午前十時から開場式と初回のモーターボートレースの開催式を華々しく挙行することになったのである。
 その日、昭和二十七年十一月七日、競艇場内に設けられた式場には、九州海運局長和田勇氏、同若松支局長ほかの係官、全連幹部諸氏、県競走会、施行組合など関係役員のほか、福岡県遠賀地方事務所長、折尾警察署長、同芦屋警部補派出所長、若松市長、同市会議長、近隣市町村長、同町村議会議長に加えて地元芦屋町内有志等、多くの来賓参加のもとに式は厳粛かつ明るい雰囲気のうちに行なわれた。それは芦屋町にとって、また福岡県競艇事業界にとってもまことに記念すべき意義深い式典であった。
 青空に高々と打ちあげる花火の音とともに午前十一時十分。第一節第一レースの幕がファン、関係者数千人の歓呼の声に迎えられてスタートした。
 静かな水面に真白い波しぶきをあげて滑るように走る色とりどりのボート、勇壮な軍艦マーチ、そのどの色も、そのどの音も、そしてすべての物の影が、ながいながい年月の間沈滞していた芦屋町をよび起こし、新しい勇気と情熱とを湧き立たせずにはいられないように、人々の耳に、目に、そして脳裏に、深く強く刻みこまれていったのである。
 芦屋町民の悲願と夢は遂に実現したのだ!! 黒山町長以下、この事業のために必死の努力を重ねた人々のほんとうにうれしそうな顔。ある人は感激に紅潮し、ある人はあたりかまわず握手をしてまわる。みんなが空にむかって大声あげて叫びたかったに違いない。『やったぞ!遂に創りあげたのだ。みんなみろ、このモーターボートをみんなみろ!』と・・・。
 芦屋の町は、この競艇事業によって町の財政を極貧の状況から救われただけではない。その日、その時の感激を知っている人達は、住民全部が結束し、努力を積み重ねれば北九州の一寒村ともいえる芦屋でも、こんなに大きな成果が得られるということを痛切に感じ、自信を持つことができたに違いない。或いは財源そのものよりも、このことの方が有意義なことであるのかも知れない。


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