九州地区
若松競走場――北九州市
芦屋競走場――芦屋町外二ケ町競艇施行組合
福岡競走場――福岡市
唐津競走場――唐津市
大村競走場――大村市
一
北九州市若松競艇場は、九州の北端を占める洞海湾の奥深い位置に設置され、前面は八幡製鉄、三菱化成などの重化学工業地帯を臨み、背面は常緑の石峰連峰を控えている。往時の若松は、日本の近代化を促進した鉄、石炭という基幹産業の一端を担(にな)い、石炭輸送の基地として、洞海湾には常に七千艘にも及ぶ機帆船を擁(よう)しその殷賑(いんしん)を誇った歴史をもっている。しかし、時代はエネルギー革命に伴い石炭の斜陽化と共にその衰運を辿るのやむなきに至り、これに加えて第二次世界大戦中に受けた空爆の被害などが累積して当時の若松市(五市合併による北九州市構成前)の財政は、年を重ねる毎に著しく逼迫(ひっぱく)して前途に大きな不安の影を投じていた。ここにおいて、市当事者及び各界有識者の間に、隣接各市の興隆に立ち遅れすることのないよう緊急打開策が当面の急務とされる情勢となったのである。
この様な四囲の環境において、時たまたま(昭和二十六年六月)モーターボート競走法が制定施行されることになったのは全く天与の奇縁とでもいうべく、戦災の復興と市財政の建直しの二大目的のため、適用許可を申請するに及んだのである。
この間の経緯としては、昭和二十七年六月二十四日議案第八十八号「若松市モーターボート競走場設置に関する件」として議会に提案され、はじめて公式の場で論議を呼ぶこととなった。しかし、当初の一般的思慮としてこのような事業が、果して所期の目的を達成するだけの収益をあげ得るかどうかについての確信はなかなかつけ難い気配が濃厚であった。それと同時に、本事業がいわゆる賭博に類する点において、市民生活に波及する影響を懸念し道義的立場から排撃する反対の声と、その施設費が当時から見て極めて膨大に及び、万一失敗のあかつきにはそれこそ取返し不能の財政窮乏が予測され、その際における責任の重大をおそれる声も強かった。
ところが、こうした雲行きの中にも、昭和二十三年、隣接の小倉市が荒廃した空爆後の市街地復興のため全国に先き駆けて、一部強硬な反対を押切り競輪事業を敢行したところ、逐年多大の成果をあげつつある事例を目前にすると共に、更に隣の門司市が開設してこれ又着々と実効をあげつつあるのを知り市議会の熱望に応え、この際、みなと若松にふさわしい海の競技として陳情へ踏みきったのである。もちろん、これらの事業は一般世人の射幸心をそそるという弊害も無視した訳ではなく、出来得るだけの競技の健全化を心掛けると同時に、これよりあがる収益の使途についても学校の建設や増改築、道路の整備、その他公共施設優先による都市面目の一新を目指したのである。
この間、市の当事者としては、かつて福岡市助役として同地の競輪事業の内容に精通している坂村明氏を若松市助役として迎えるよう、市会内部の賛成を取付け一応の態勢を固め、連合会本部と内交渉し同会の最高幹部及び運輸省係官の出向を待ち、事前の下調査の手続を完了し、ここにいよいよ設置の見透しがついたので、モーターボート競走法に基づく市の関係条例や規則の成案を急ぎつつ昭和二十七年三月二十五日、次の陳情書を運輸大臣に提出したのである。
記
モーターボート競走場設置に関する陳情書
福岡県若松市は洞海湾の北側海岸線を占め、戸畑、八幡両市と相対峙して我国屈指の炭田たる筑豊地帯を背後に控え、その咽喉を扼する本邦第一の石炭積出港として成長し今日に至ったものでありますが、その財政事情に至りましては、本市が半島的地形にあるため諸事不利な地位にあり、所謂石炭景気に潤ふこと極めて薄く窮迫せる状態にあるのであります。
従って眞に市民のため急を要する諸施設の整備も兎角見送り勝ちとなり、一般住家の払底は勿論、校舎の増改築、道路、下水の修復、上水道の拡張、埠頭施設の拡充等予算これに伴わないため隔靴掻痒の歎きを喞っているのであります。市は久しくその打開策に苦心して居りました処、幸いにも先般モーターボート競走法の施行を見るに及び、当市の地先である奥洞海湾が競技場として好適であり、而かも北九州七十一万の人口と筑豊炭田を控えその立地条件上極めて恵まれた位置にあることが各専門家によって裏書されました。ここに意を決し、同競技場の建設について眞剣に研究を始め既に競走会連合会矢次委員長の来訪を乞い、その適地たるの確信を固めつつあり、併せて着々各種の下準備を進めているような次第であります。
つきましては、本件は何れ市議会にも諮り決定の上改めて御願を致すべきでありますが、不取敢事前に本書を以て本市の実情の一端を申述べて御諒解を願い上げますると共に、正式に申請の上は何卒特別の御詮議を以て御許可下さるよう此処に予め陳情旁々懇願申上げる次第であります。
二
一方、福岡県モーターボート競走会には、将来施行者として認められるべき若松市長から副申が提出され、ここに施行者と競走会は一体となって事業推進に向うこととなった。しかし順序として心要なことは、競走場として果して当市が諸条件を具備し又具備し得る適地であるかどうかの事前審査を、連合会及び運輸省から受けねばならなかった。ところがここに一つの問題が伏在していた。それは、施行者は一県一ヵ所の規定であったのに、ほとんど期を同じくして若松市と芦屋町とが互いに競い合う形となり、何れに競走場並びに施行者が決定するか予断を許されない情勢となったのである。今日考えてもそのときの双方の当事者は想像以上の心労をされ、関係者も互いに知友の間柄も多かったので困った面もいろいろ生じた。元来、若松は立上がりが芦屋より若干遅れた関係で、果して指定を受けることに漕ぎつけ得るかどうか、すこぶる疑問であった。市が市会に諮ったのは同年六月二十四日、満場一致で議会通過、更に六月二十五日には連合会宛、次の事前審査の申請を行なったのである。
記
モーターボート競走場事前審査申請書
福岡県若松市は洞海湾の北側海岸線を占め、門司、小倉、八幡、戸畑各市とともに、いわゆる北九州五市を形成し、更に南には筑豊炭田を背後に控えこれを合すれば、その人口優に二百万を突破する我国有数の重工業地帯の中心をなし、且つ、これらを結ぶ鉄道、電車、バス等の交通機関は四通発達して、その所要時間何れも一時間以内という立地条件上、誠に好適の位置にあるということができます。
而かもその人口構成に於て都市人口が過半数を占むる関係上、既設の門司、小倉の競輪或は八幡、小倉の競馬等何れも一回一億円以上の売上高を示し、特に貿易の門司、水産の戸畑、石炭の若松は港の町船員の都として、一般市民の海に対する親しみは極めて深いものがあり、先に本市に於てモーターボートレース実施の計画が巷に云われるや否や、当地は言うに及ばず近隣諸市の間にも異常の関心を呼び起し、その実現の機運が著しく醸成されておりますので市としても、其の財政難打開の一策として、ここにレース場設置を決意するに至ったのであります。申すまでもなく洞海湾は、外海より入り込みたる本邦屈指の良港で特にレース場予定海面は市の中心部をなす港口より約二キロの地点にあり三方は山容なだらかな丘陵に囲まれ、自然の風波を避けて恰も湖水の如き観を呈し、更に対岸は水産基地戸畑の漁船と相並んで鉄都八幡の黒煙を遥かに臨み、石炭と港の街、若松と共に産業と観光の両者を兼ね備えレース実施について天然の地形に恵まれたる環境にあると思われます。
就ては本日別紙の通り競走場設置について市議会の満場一致を以て議決を得ましたので格別の御詮議を以て至急事前審査方御願致したく別紙関係書類相添え申請します。
添付書類
一、競走場明細書
二、建設費の内訳及び其の調達方法
三、当該競走場を使用する場合の収支見積書
四、建設に要する予定日数
五、施行者(都道府県)及び競走会の意見書
六、競走場の図面
七、競走場施設の配置図
八、付近の見取図(人口分布、観客輸送力及び宿泊能力を含む)
三
さて競走場は先きにも記したように、一県一ヵ所が運輸省並びに全国連合会の基本方針であったが、当該県の地勢や都市人口並びに海水面、河川、湖沼等の状況により福岡県のように人口密度は高く、且つ適当な水面に恵まれた地形であるから福岡県は特別認めて貰えるものと判断し、且つ若松、芦屋間の距離も僅か二〇キロに過ぎず、開催も交互にすればファンの交流も自然に出来るので好都合であるという理由のもとに、県競走会と共々陳情した。
その結果は、運輸省並に全国連合会もその理由を適当と認められ、特別として一県二ヵ所が認可される情勢となった。この朗報に若松、芦屋の双方俄かに勢いを得て運動方針を一本化して共同戦線を張り、福岡県競走会も又この方針のもとに各種応援を送り運動を強化した。ところがここに、突如として、洞海湾地区一帯の各種労働組合から猛烈な反対運動が起り、曰く(いわく)その及ぼす影響が甚だ多く勤労精神を減殺し、低賃金にあえぐ労働大衆の射幸心をそそり、これを利用する不純な計画であることは明らかであるから、かかる社会悪の根源となる公認賭博行為は、いかに市当局が財政再建を口にしてもその設置には断然反対であると宣明すると同時に、反対運動を展開するという抗議に会い、せっかく曙光(しょこう)を見出した運動に大きな衝撃を与えた。もともとこの種の事業にはあらかじめ地元の労働組合の諒解工作が必要であることは関係省より一応話はあったので、それぞれの方面に諒解の下話はしていた。殊に小倉、門司、八幡の競輪競馬の既設競技場も平穏に行なわれていたのでやや楽観的面もあったが、今ここに強硬な反対に遭遇してみると甚だ困憊(こんぱい)せざるを得なかった。もちろん運輸省や全国連合会では地元の大反対に対して直ちに許可することも困難であるとの事から市議会はもちろん坂村助役以下幹部がそれぞれの労組に渡りをつけ、先ず若松地区内の各労組と交渉し、順次洞海湾一帯の各労組の代表者達と話合うこと数回、百方手の尽す限り説得を進め、ようやく若松側労組の諒解を得たが、八幡地区の労組は容易に承知の域に達しなかった。しかし当局者の再三再四に及ぶ熱心な説得にやっと諒解を得てここにこの難問題も無事解決をみたのであるが、一時は非常に不安にかられたものである。
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