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準備から開場へ
 下関市が競艇に関心をもったのは、昭和二十六年六月、その法律ができた直後からであった。苦しい財政を助ける一手段として、当時すでに商工課を窓口として、自転車競技法による、競走場の開設を目指して、事務がすすめられていた最中であった。その後、門司の九州海運局で、競走法の説明会が開かれたので、議会側にも呼びかけて参加した。故人となった市議会議員升本松一氏は殊のほか熱心であった。
 自転車競走の方の運動は、相変わらず続けられていたが、いっこうに好転の兆もない内に、こちらよりあとから申請した門司市に設置がきまったという情報が入った。当時通産省の意向は、これ以上の新設は好ましくないということであっただけに、全く意外というほかはなかった。続いて入った情報によると、東京でいろいろな取引きがおこなわれ、その中には、下関に門司競輪場を共用させるということもあったとも聞いた。しかし行政区域の全然違う市間でそんなことは出来得べくもないので、まことに理解に苦しむものがあった。事態がこのようになった以上、競艇場開設に一切の努力を集中しようという事になった。そして、松尾守治市長から福田市長にバトンが渡ったことがこの方向一新に都合がよかった。
 二十八年に入って、徳山市が競艇開設の準備をすすめているという話が伝わり、宇部市には競走会が設立され、その役員有志が下関商工会議所を訪れて懇談した。
 会議所側では山本清氏が熱心であった。特に山本氏は、福田市長とも親密であったので、この事について相当突込んだ意見をのべて市長の腹を聞き、自らも大いに奔走したのであった。
 当時、市の財政は相当窮屈で、この事業をおこなうための資金の手当には一沫の不安があった。そこで市金庫を受持っている山口銀行に下話をしたが、いささか難色を示したので、やむなく住友銀行に話をもちかけた、ところが割合よい返事があったので、これに力を得て手続きを進めているうち、住友本店から待ったがかかった。そこで山口県信用農協連の融資をうけることになった。
 このように、指定金融機関からもよい顔をされない市の財政であっただけに、どうにかしてこれをやり遂げ、市の財政を建て直す有力な事業にせねばならぬと考えた。
 宇部側の有志は、その後下関市に対して財政的援助をすることを約束した。
 福田市長は、宇部側の有志の申し入れに同調の態度を示し、時にふれ折にふれて議会筋の意向を打診すると共に、候補地の検討をおこなった。それは彦島では福浦・竹の子島、旧市では武久・筋ケ浜、山陰部では安岡・吉見、長府では宮崎などであった。しかしいずれにしても広い敷地と規格に従った競走水面をも必要とするところから一長一短があってきまらなかった。最後に思い切って、適地を新しく造成しようという案が出た。その適地として長府駅前の松小田海岸が予定された。
 市長はこれに裁断を下した。将来の長府埋立ての橋頭堡の一つとするというのである。
 松小田海岸は非常に遠浅で、航路にも関係なく、関門海峡特有の潮流にも影響されない所である。ここを浚渫して競走水面を作り、その浚渫土砂をもって土地を造成してゆく、造成土地は施設を収容するに十分な広きとする。さらに競走水面を保護するため、前方に防波堤と防砂堤とを築造すれば、風浪の影響なく常に正常なレースができるわけである。
 ところが、この附近一帯は東亜港湾株式会社が、はやくから埋立権をもっている上に、浅海漁業が盛んであった。そこでまずそれについての事前折衝を重ねた。会社も漁業組合も了解した。
 埋立てなどの費用として大体五千万円が入用であった。既成地よりも余分に要るわけであるが、宇部の有志からはこれに対しても支援を惜しまないとの申出があった。しかし市長にはまた別の考えがあった。それは宇部市との合作である。
 公共団体同士ということであれば、市議会に対しても話しの通りがよく、また今後何らかの問題が起こっても、話し合いで十分解決できるが、“有志”ということでは、利権につながるという誤解も生まれやすいし、利害相反する事態が起これば、なおさら話しは面倒になる。市長はこの点の配慮からか、自ら宇部市長と話し合いの場をつくり、競艇合作について懇談した。しかし宇部市長は、内部事情を説明してそれをことわった。
 市長の腹はきまった。四月十五日付け下商工第四三四号は、このことを表明している。
 「先般参上の節お話申上げましたモーターボート競走の件につきましては、その節貴市において諸種の御事情により共同にて施行することの不可能なる旨を拝承し誠に遺憾に存じあげます。
 当市においては早速市議会各位と種々話し合いを致し且つまた担当の商工水産委員会にも諮りました所、本市において施行することの大体の了解を得、来るべき市議会に提案致し度いと考えておりますが貴市との経済提携並びに今後各般に亘る協力体制確立などの諸点より勘案し、この際そのいと口としても両市合作施行について今一応御考慮頂き度いと思います。(下略)」
 下関市は独自でやることにふみ切ったのである。
 申請書類の作製、山口県モーターボート競走会との連絡の一段の緊密化、市議会の同意を得るためのしばしばの話し合い等々、事務処理に当っていた商工課の動きは急にはげしくなっていった。また競走会長東長丸氏は、側面運動として関係官庁への陳情に奔走した。
「御配慮謝ス、下関市デヤル、二十六日臨時議会デキメル見込ミ、市長」(四月二十日付電報)
 これは東氏が奔走して得た情報を知らせるとともに、市側の態度をきいてきたのに対しての返事である。
 こうして、二十六日の臨時議会において、市議会の同意を得るとともに、申請書は各関係官庁に提出された。
 担当者阿月商工課長の出張報告書によれば、「(前略)競艇場の設置及びその施行指定について事務打合せのため五月十六日〜二十四日まで滞京、各関係機関を歴訪した。全般的にみて楽観し得る状況であった。
 前段は運輸省及び競走会連合会に対する設置許可の問題並びに北九州側よりする当地設置の反対運動に対する打破であった。
 後段は県よりの副申により自治庁への施行申請手続であり、その間地区選出代議士各位を歴訪しそれぞれ協力方を要請した。(中略)未だ正式決定を見るに至らぬが見通しは必ずしも暗くなく、きわめて明るいもので、競走会長も極力、援護陳情を続けるということであった」
 関係機関への接触は、市議会からもおこなわれ、升本、浜本両議員も上京陳情をつづけた。この間、松小田地先埋立てについて東亜港湾との交渉がくりかえされた。
 この海岸一帯は、昭和十七年八月の台風による高潮で、海岸線が洗われた。そこで、国庫補助によって堤防工事がおこなわれた。ところが、二十年八月の台風で又被害がありその復旧工事が二十三年に完成した。その後も二十五年のキジヤ台風によって被害が出たので、県工事として補修・補強がおこなわれ、海岸線一帯に高い堤防が築かれた。競走場はこの堤防護岸の外、海にむかって作られることになった。東亜港湾の手によって捨石がはじまり、その上にコンクリートの壁ができると、浚渫船から土砂が吐き出され、みるみる土地が出来ていった。
 昭和二十九年八月二十四日、まっていた指定市の通知がきた。ついで九月六日舶工第一八八号、運輸省船舶局長名で「下関市のモーターボートの競走の開催について」の通知があった。その中で、
 「なお下関競走場における競走開催については当局として当分の間左記により実施するよう指導する。」
一 宣伝広告は九州地区におこなわないこと。
二 一回の開催日数を八日間以内とすること。
 が指示されている。これは北九州側(芦屋・若松)の反対を緩和する措置であった。
 これより先、下関の設置について、強い抵抗を示したのは福岡県芦屋町であり、これに若松市が同調をみせた。下関の設置がやや確定的となったころ、下関と北九州側は、各競走会長を加えて、九州海運局で話し合いをおこなった。しかし、北九州側の要望に対して下関は異議を述べ、結論の出ないまま会議は終わった。そのことがこうした指導となって現われたのである。下関はやむなくこの指導に従って十二月末日まで北九州に宣伝をせず、一回の開催を八日間とすることにした。
 かくて九月議会に、競走場の設置条例、工事請負契約、事務機構などを上程した。競艇施行という本筋は、先の議会で同意を得ているので、さしたる論議もなかったが、事務機構についての質問に対して市長は、経過を辿りながらつぎのように答えた。
 「競艇という問題に関して、私も相当考慮しましたがなにせ市会の非常な御協力と市の財政の立場から、これを進めねばならぬとの市民の熱意も盛り上ってきまして北九州方面にかけて反対がありましたことは御承知の通りですが、ようよう許可をうけたのであります。実は周東(衆議院議員周東英雄)先生にもお願いして、自治庁長官はこの点難色を示されているので難しかろうという返事を聞いて、先生の紹介で長官に会いまして下関の現状を申しました。北九州方面はいろいろああいった施設をもっているのに下関にはできない、それで北九州側に比較して税金が高く、思うように仕事がやれない、さらに特別の施設ができない、あの小倉の体育館、門司の水族館のような、やらぬでもよいと思われるものでもどんどん出来るが、下関はなんにもできない、なおかつ赤字を出している財政で普通の市民に対する特点がないとやかましくいいまして、長官にも理解をいただきました。(中略)こういうものの経営というものは、唯普通の地方公共団体のやる事業から若干逸脱したような事業で、事業そのものは非常にむつかしい、そこには専門の大筋議員(興行業)がおられますがこれは一種の興業で、単に船を動かすという事では運営が出来ない面が沢山あります。したがってせっかく市民も市会も努力したため、門司方面と競い合って負けがちであったが、よく権利をとってくれた、将来運営よろしきを得んとこの経営について市民の口から非難が出るようなことがあっては禍根を残すことになる。せっかく心配してしかも市の経済を援助する目的その物が少しでも市民から非難の声があるというような事があってはいけぬと思いまして・・・(下略)」
 また予算は、特別会計競艇事業費が設けられた。その説明は次のとおりである。
「――その骨子は十月・十一月は八日間十二月より三月までは十二日間開催いたしますので通算六十四日おこないます。
 売上げは、徳山その他を参考として、一日平均六五〇万円と見積り、それに対して法定の経費を見ますとその余りが収入となりますが、それより開催に必要な経費を差引きまして、純利を一、〇〇〇万円といたしました。しかし実質的には開設当初でありますので、開設までの諸経費、初年度調弁費が入用で、それが一、〇三二万円となりますので、次年度からこれが不用になりますれば約二、〇〇〇万円の利益ということになります。(下略)」
 一時借入金の限度額を六、〇〇〇万円とし、諸工事費八、一八〇万円の財源は市債とした。この工事の概要は次のとおりである。
中和建設 一、二五八万円
窪田建設 一、〇八〇万円
東亜港湾 四、八五〇万円
東亜港湾のものの内訳は
埋立地長さ、四五〇米・幅一〇〇米、岸壁より一五米先を幅一五〇米、それより二五米の間隔をとり、長さ五七〇米の防波堤とその両端に一五〇米の防波堤を設ける。
 十八日議会終了後直ちに事業局人事が発令された。事業局長中邑晴雄(総務課長)・業務課長阿月健治(市長室)・経理課長富永政夫(税務部第二課)
 競艇開設準備の所要事務は、すべて商工課が執っていたことは先に見たとおりであるが、その後阿月商工課長は、白石・戸井両書記とともに市長室に配置(四月二十九日)され、これに専従していたが、この発令とともに事業局に配置換えになった。追っかけて十月一日付けで他の職員が配属された。
 工事の方は、埋立ては昼夜兼行でおこなわれ、出来た土地にスタンドや穴場がたちはじめた。市長の特命で、豊浦小学校の古い校舎二棟約一、一七〇平方米が、穴場として移築された。
 当時競走会連合会長に報告された工事の進捗状況には、
着工 二十九年八月二十三日
完了 二十九年十月五日(予定)
第一団地、油庫・管理室及び附属建物・艇庫及び修理場事務室及び附属建物・発着所(ピット)。
第二団地、穴場及びスタンド・主審判台・執行本部及び附属建物。
第三団地、スタンド・正門入口及び附属建物。
 場内(埋立地)を以上の三団地に分割し、三業者をもって昼夜兼行工事の進行に努めつつあり、第一・第二団地については各建物基礎終了、建物の木組終了、第三団地については今月末迄に基礎完了の予定。
 なお防波堤工事は、全工程の約三分の一以上進捗・・・。」
となっている。
 また、全連総第一四七号は、下関の十月開催をつぎのように通知してきた。
(前文省略)
前節 十月二十二日より二十五日
後節 十月二十八日より三十一日
 下関の十月開催がこれによって確定したなかで十五日には全工程の五分の四が進捗し、防波堤は三分の二が終了したことを各関係機関に通知しているが、十七日に至って全部の工事が終了した。
 一般従事員の採用、訓練、穴場関係職員の徳山での実地訓練がおこなわれた。東京からは菊地・青木の両氏が来場して指導された。
 昭和二十九年十月二十二日午前十時、飾付けが終わった場内の一角から花火が打ち上げられ、開場式がおこなわれた。そして市長の報告をかねた式辞があり、来賓の人びとは模擬レースにその前途を祝福したのであった。


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