宮島競艇施行組合 含・大栄産業株式会社
宮島競艇場の沿革(施行者・施設会社)
青い海に浮ぶ朱の大鳥居、日本三景の一つといわれる安芸の宮島を正面に眺めて水しぶきをあげているのが宮島競艇場である。山陽本線宮島口駅から徒歩三分のところ国道二号線に沿って位置し、電車、バスの便もよく風景と交通に恵まれた環境に昭和二十九年十一月初開催の幕をあけたのである。
しかし、恵まれていたのはこれだけで発足にあたっての種々の苦難は、競艇場設置の声がおきた昭和二十七年初頭から数えれば実に二年有半、この間、関係者の筆舌につきぬ辛労に綴られた“誕生までの足跡”を顧ればよくぞここまでの感慨につきる。
この辛苦は、競艇誘致とこれを阻止する反対運動のなかで五町で組織しなければならなかった施行者、昭和二十七年創立されながら競走場がなく競艇実現の推進母体となった競走会、資金難を打開しつつ短期突貫工事で受入れ態勢を整えねばならなかった施設会社、オーナー会社、この四者の構成で発足していることはその間の複雑な事情を物語っている。
まず昭和二十七年四月に広島県モーターボート競走会が設立認可され県下に競走場設置の活動を展開し始め、翌二十八年にかけて候補地は二転三転低迷していたがその頃の候補地は呉線の坂町附近と宮島口、広島周辺のほか尾道、三原附近とする備後地区案もあがって、それぞれ関係者の調査、事前審査等で誘致は一進一退していた。
宮島口に設置する動きには当初地元大野町を中心とするものと、包ヶ浦案とを採算面から検討した結果中止した宮島町との流れがあった。当時宮島町は山積する公共事業に要する財源に乏しく、このままでは町の発展もむずかしく新たな財源を必要としていた。折から地方財政窮迫を救う手段として競艇事業が各地で行なわれているのを時の町長故梅林義一氏が着目してこれを主唱したものである。
観光地宮島の不振を憂うるものは多かったが宮島は由緒ある神の島でありギャンブル事業で町の繁栄をはかるなど邪道であるといった反対と、この種の企業が果して採算のとれるものか、といった不安があり簡単には踏切れなかったが、町長は宮島の復興と事業の内容を熱心に説きつつ具体化していった。
そのなかで競艇施行の指定を受けるには人口三万以上を必要とするため宮島町単独では不可能であり、どうしても他町に誘いかけねばならない事情にあった。そのため対岸の各町村に呼びかけたが他町村でも戦後のきびしい地方財政の中で諸種の復旧事業、新制度による小中学校の増改築等急を要する事業のよい財源策としながらもギャンブルという事業の不安や青少年に及ぼす影響等の抵抗があり、一方競艇設置の動きを察知した一部町民や諸団体の反対運動も気勢をあげつつあった。このため苦しい働きかけが続けられ宮島町助役平野勝氏も「当初は相手にしてもらえない町村もありこのため日夜奔走したものだ」と当時を述懐している。このうち大野町、玖波町、小方町、大竹町の同意を得るに至ったが事業出資はなく別途に施設会社で設備し、実施に当ってはご迷惑をかけないという条件のものであった。この主旨は後日一部事務組合設置の際に規約としてまとまっている。
他方、低迷している候補地の決定も第一候補と目された安芸郡坂町は紆余曲折の末、町議会の否決もあって後退し明けて昭和二十九年広島市が競輪防衛の立場から強力に運動を展開し宮島口とつばぜり合いの形となった。二月には当時競走場登録を管掌していた全国競走会連合会から笹川副会長を招いて宮島口、庚午、宇品、坂町など広島周辺の大がかりな再調査が行なわれ広島市案が有望視されたかにみえた。しかし、広島市案に附帯する諸情勢を検討したところ立地条件は宮島口より他に最適の場所はないと判断した宮島グループは終始一貫して競走場設置に挺身した。
かくて宮島町は施行者側を代表して同年五月一日広島県知事に公有水面使用及び工作物設置許可申請を行ない、五月八日には次の五町長連名でモーターボート競走法の適用を受ける指定町の申請を広島県知事経由で自治庁長官に、中国海運局経由で運輸大臣に提出している。
昭和二十九年五月八日
宮島町長 梅林 義一
大野町長 船倉 清三
玖波町長 狭戸尾秀夫
小方町長 嘉屋 豊助
大竹町長 二階堂哲朗
この申請の中でモーターボート競走の施行を必要とする理由は次のとおりとなっている(要旨抜粋)
宮島町
観光施設の充実、周辺道路の開発、水族館の設置、厳島神社を中心に国宝や重要文化財の保護施設の整備、上水道拡張、下水道完備、中小学校々舎の改築等公共的事業が山積しておるも必要な財源は枯渇して町の一般歳入によることは到底至難の状態であり、これが打開の一方策として競艇を実施する。
大野町 同理由
玖波町 同理由
小方町 同理由
大竹町 同理由
昭和二十五年のキジヤ台風、翌年のルース台風による河川氾濫で学校々舎、民家、橋梁が破壊流失した災害の復旧事業、新教育制度による小中学校の増改築、保育所の新設等急を要する重要事業に町の一般歳入によることは不可能で、この打開に競艇収益をもって事業の完遂を期する。
となっておりこの申請に添付した各町の議決書の決議月日と議長の署名は次のように記されている。
昭和二十八年十月三日議決 宮島町議会議長山中 忠
昭和二十八年八月二十七日議決 大野町議会議長船江仁六
昭和二十九年三月三十日議決 玖波町議会議長荒田近太郎
昭和二十八年九月二十一日議決 小方町議会議長神尾徹生
昭和二十九年五月六日議決 大竹町議会議長笹野熊市
こうして宮島口を唯一絶対の場所として広島市に先んじて申請した宮島町他四ヵ町連合体に対し、広島市も五月二十六日に競艇実施案を可決し、宇品、吉島等五ヵ所を予定地として急遽申請を提出したが、いささか宮島側に立ち遅れの感があった。
この間の経緯が新聞に発表され世論の注目するところとなり競艇是非論が連日紙上を賑わしたのもこの頃である。
朝日新聞五月二十二日付
“最後までには一波乱か”副申で苦境に立つ中国海運局
中国新聞五月二十七日付
“競艇場設置を可決”広島市会賛成二十一反対五
中国新聞五月二十八日付
“全県的な運動展開”競艇反対へ県労会議方針決る
読売新聞五月二十九日付
“浜井市長の命取りか?”県労会議「競艇は賭博」と強硬反対
毎日新聞五月三十日付
“七月二十日開場へ”広島を尻目に宮島競艇準備進む
かくて宮島と広島の競願になった施行者の申請には県及び地元海運局の副申が必要であり、競走場設置には運輸省から示されている設置基準があり、この審査に県競走会の副申を添えて登録を受けなければならなかった。
このため当時県会議員(現参議院議員)でこの事業の企画に相談役的存在であった中津井真氏に出馬を願い県庁、中国海運局及び県競走会、全連並びに自治庁、運輸省等の関係官庁と団体に猛運動を展開した。こうした陳情攻勢は正式認可のおりるまで中央、地方の別なく関係者一丸となって続けたものである。
副申については中国海運局、県競走会も慎重に検討し種種の条件対象で苦慮が払われ、再度の事前審査も一長一短であったが、宮島側関係者の熱意が先行し来広の全連笹川現会長、県競走会現会長である岩田幸雄氏の内認を得て、事実上宮島側に凱歌があがった。これは岩田会長の決断によるところが大きかった。
朝日新聞 “競艇場宮島側が有利”
毎日新聞 “広島は各種条件で絶望的”
中国新聞 “夢に終るか競輪防衛”
六月六日・六月八日 付
かくて施設会社の構想も整った同年六月十日関係者八十余名列席して地鎮祭を行ない、水野建設の請負で八月末開催を目標に突貫工事に着手したものの手続きの不備などから工事を一時中止するという一幕もあったが、六月十一日には県知事に申請していた公有水面使用及び工作物設置許可(指令港第九四八号)があった。
一方開場の見透しがつくにつれ競艇反対の峰火をあげた県労、地区労に教組等の反対運動は広島から一転して宮島に向けられこれに地元の青年連盟、婦人会も加わり執拗に続けられた。なかには反対実行委員会が組織され全村一致の反対とか反対町民大会などで関係官庁に反対陳情もされ共産党は独自の内容をもつ反対ビラを撒布するなど激しいものがあった。
こうした反対運動のほか暗礁にあったのは競走水面の漁業権問題で、この水面には各種の漁業権が錯綜しており、関係する漁業協同組合も当時九組合あってこの折衝には梅林町長が当時宮島漁業協同組合長であった福田歓二氏に依頼して五月下旬から補償交渉を始めたが、利害関係と反対のために反対する組合もあって紛糾した。しかし、精魂を傾けた福田氏の斡旋が奏効して円満に調整をみることができた。
この頃の各新聞は、
朝日新聞六月十一日付
“地元の漁協組から横槍、宮島競艇場設置に暗影”
中国新聞七月一日付
“四面楚歌「宮島競艇」地御前村からも横槍”
朝日新聞七月二日付
“教委にも強い反対”“大野宮島競艇場設置に”
読売新聞七月五日付
“賛否両派東京で火花”“反対期成連盟代表も陳情のため上京”
この反対も文字どおりの東奔西走の努力で、
中国新聞七月三十一日付
“近日中に自治庁、運輸省が指定及び認可せん”
―宮島競艇問題、中津井県議帰来談―
と好転し、遂に八月十四日モーターボート競走を行なう町の指定(自治庁告示第三六号)を受けた。この告示には申請した五町が一部事務組合を組織することを条件にして指定されている。
待望の許可が下り一ぷくする暇もなく、埋立に建物に工事も大童に進められる一方、施設会社として宮島町梅林義一氏を社長とする宮島競艇株式会社が九月七日設立され、十月三日には競走場の登録申請を全連会長あて提出した。
この間に大竹町を中心とする小方町、玖波町等五ヵ町村の合併で大竹市が誕生し、施行者としての条件である一部事務組合の設立許可申請は次の三市町長連名で事業計画書設立費計算書、初年度収支予算書、各市町会議決書、組合規約の関係書類を添えて十月十八日に広島県知事に提出し翌十九日に宮島競艇施行組合の設立が許可された(指令地第二三三五号)。
昭和二十九年十月十八日
宮島町長 梅林 義一
大野町長 船倉 清三
大竹市長 二階堂哲朗
広島県知事大原博夫殿
一部事務組合設立許可稟請について
となっており、添付書類のうち組合規約の要点を抜粋すると、規約は五章十五条からなり総則で宮島競艇施行組合と称すること、宮島町、大野町、大竹市を以て組織することを定め、議会は議員定数を十二人とし内三人は町長、市長の職にある者、九人は各市町の議員三人の割合とし任期を二年としている。執行機関には管理者と事務局を置き、管理者は町及び市の長の中から選挙することとし任期二年会計では組合の利益配分を宮島町五割、大野町三割、大竹市二割とし組合の事業資金の調達及び損失負担については大野町及び大竹市はその義務を負わないとなっている。
なお、この組合設置と規約の各市町の議決は次のように行なわれている。
昭和二十九年十月十二日議決宮島町議会議長山中 忠
昭和二十九年十月十四日議決大野町議会議長船江仁六
昭和二十九年十月十七日議決大竹市議会議長神尾徹生
組合設立の許可のあった翌二十日午後一時には第一回宮島競艇施行組合議会定例会が宮島口の松和荘(電鉄寮)に緊急招集されているが、その会議録をみると、応招議員は次のとおり。
梅村義一 船倉清三 二階堂哲朗 山中 忠 船江仁六 笹野熊市 松本大次郎 山下 巖 荒田近太郎 井上雅一 谷口 巧 神尾徹生
以上十二名全員出席し、会議事件説明に出席を求められたものは宮島町助役平野勝、事務担当者福田歓二、高橋昭三、三宅鉄雄、会議の書記は西垣武史で、当日の議案は次のとおり七件であった。
議案第一号 議会議長選出の件
第二号 議会副議長選出の件
第三号 管理者選出の件
第四号 事務局長指名に同意を求むる件
第五号 管理者職務代行者指定に同意を求むる件
第六号 監査委員指名に同意を求むる件
第七号 議会規則制定の件
議長選出まで年長議員の梅林議員が臨時議長となって議事を進行しそれぞれ次のように決議している。
議会議長 笹野熊市
議会副議長 船江仁六
管理者 梅林義一
事務局長 福田歓二
管理者職務代行者 平野 勝
監査委員 山中 忠、山下 巖、荒田近太郎
かくて初代の管理者、事務局長と正副議長等の主要人事も決まり施行者としての組合が名実ともに発足したのである。
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