社団法人岡山県モーターボート競走会
沿革のあらまし
モーターボート競走法は昭和二六年六月一八日公布されたが法案の成立については関係者の並々ならぬ努力が払われた。その詳細は他に述べられているのでここでは省略するが、わが岡山県においても一部の人々の関心をあつめ秘かに研究と計画が進められた。
隣接地玉野市では、すでに競輪場を開設してかなりの成績を収めており、その収益金をもって教育其の他施設の充実が計られているのを目のあたり見て財政の窮迫している自治体は何かやらねばならぬと真剣に考えられていた。
児島市のうぶ声
これより先、六月初め頃この法案が国会通過の見通しがついたので、児島市選出県会議員岡村貞一氏と友人佐々木多吉氏は、岡山駅で山口県へ帰郷の葛西氏と会い、具体的なことに関し詳細な説明を聞いた結果、岡山県下に競走会の設立と競艇場の選定が急務であることを知り、両氏は児島市役所に中塚市長、中村助役を訪問して、競艇の法案が通過した場合開設の意志があるかどうかを尋ねたところ、ぜひやりたいから協力してもらいたいとのことであったので、直ちにその足で下電本社に永山一己社長を訪ね、競艇の話をしたところ、永山社長は実は三ヵ月程前東京の三木武夫事務所でこの話を聞いて、私自身も法案の通過に関心を持っていた、もし岡山市や玉野市に先手を打たれてはと心配して居った矢先だということで、開設に対して如何なる協力もおしまぬということになり、ここに競走会の創立に永山・岡村・佐々木氏等が登場することになった。
いよいよ法案が通過したので時を移さず大室海水浴場で永山社長を中心に中塚児島市長、中村助役、岡村県議の四氏は競艇場設置について話し合った。競走会は県下に一つ設立されることになっており、当時は競走場の設置についても全国モーターボート競走会連合会が主導的役割を持っており、地元競走会も競走場設置についてかなりのつながりがあるので早急に競走会の設立を必要とした。一方児島市としては競走場設置に相当の資金がいることであり、又玉野市が早くから熱心に運輸省方面へ運動していて、競願となることは必至であり、相当の困難が予想されるが全力をあげ具体化につとめることとなり、ここに児島競艇場設置準備の第一歩を踏み出した。
競走会は安藤健一氏が設立発起人代表となり設立の準備を進めていった。設立許可申請には知事の副申書がなければならないので設立発起人はギャンブルを好まない三木知事の説得に相当苦心を重ねてやっと副申書をとり、運輸省に認可申請書を提出するに至った。
運輸大臣の認可が下りたのは昭和二六年一〇月一九日でここに「社団法人岡山県モーターボート競走会」は発足することとなった。そこで一一月二日岡山市東中山下「旅館後楽」で設立に同意したものを集め、創立総会を開催した。会員二九名、出席者一七名で創立事項の説明、定款の承認役員の選任がスムースに行なわれた。
会長 安藤健一
副会長 岡村貞一 西山安雄
専務理事 佐々木多吉
理事 渡辺莞爾 久保善次郎 朝明和吉 黒瀬佐膳 橋本末治 洲脇勝太郎 前畠頼三 難波繁夫 三宅三次
監事 片山市夫 藤原猛
顧問 石井省三 大上茂樹 熊本強 森富太郎 脇本猪三男
相談役 永山一己 高原碧山
事務所を岡山市内山下三一に置くことに決定し創立が完了した。
一方施行者としての児島市においては競艇場設置について市議会は賛否両論に分れて激論がたたかわされ、慎重に審議の上結局一票の差で劇的な原案可決となった。認可申請はやはり玉野市と競願となり難航した。市長、助役、議会と一体となって猛烈な陳情が運輸省、自治省へ続けられていった。
第一回の陳情には永山下電社長、岡村県議、中村助役、朝明市議等が上京した。
当時のことを永山社長は語っている。
『陳情と情勢診断をかねて上京、三木武吉老、郷土の先輩星島代議士、岡田忠彦邸など訪問した。競艇場設置に対し当時星島先生は“玉野市の競輪場附近の海岸が適地である”と新聞に発表していたので、私は談判する積りで相当意気込んで伺ったが、話しているうち先生の真意も判明し郷土のため大いに協力されることを約束された。私は一行と別れ三木武夫氏、堀木謙三氏を訪問したが、この第一回の陳情で運輸省は児島市に競走場を設置させる方向にかたむいていることを察知することが出来た』
開設へと前進
その後関係者の努力により一応児島市へ認可の見通しがつき一息ついたところで又玉野市が猛然と運輸省方面へ巻返しを計り、両市は施行権をめぐって相競うことになったので、結局運輸省は現地を視察した上で決定するということになった。そして八月に運輸省から山岸舟艇班長と係官ボート連合会からは矢次常務其他関係者等で編成された現地調査団が玉野・児島両市のレース場予定地を視察することになった。
当時の模様を岡村氏は語っている。
『調査団が来るので吾々はこれに立会った。調査団は輸送関係、施行地周辺の状況、レース関係の適否等全般にわたり両市の予定地を視察することになった。先ず玉野市をみて輸送関係では国鉄宇野線を有する玉野の方が優れているレース場も現在の競輪場の東海岸は条件に恵まれていて有望だという話が調査団の中から出て児島側に取っては、必ずしも楽観出来ない状況で一行は児島市の現場へ到着し、第一候補地琴海駅の下の現レース場を阿津の塩田堤防上から中塚市長や私等が説明に当り、次に第二候補地である大室海水浴場へ案内したが丁度季節風が激しく吹いており、波が海岸に打ち上げておったので此処は駄目だということで、その日は当地琴海に一泊、調査団、玉野海運局支局長、児島市長、競走会関係者、県係官、下電社長等一堂に会し、調査団の質問に対して競艇場関係は中塚児島市長から指示通り設備を完成すると決意の程が述べられた。一方、輸送関係で私鉄でしかも狭軌単線でファンの完全輸送は出来ないと思うがとむずかしい段階にはいりかかったが、永山下電社長は単線であるが五分間隔で運転することが出来るし、新車も多数発注しているので、それで足らないとところはバス輸送で充分満足出来るよう計画すると思い切った覚悟の程が示されたので、この問題も解決した。そのうち玉野市は現在競輪をやっており児島市は何もやっていないし、合併後日も浅いので法の主旨からいって児島市に施行さすのが妥当ではないかという声が調査団の中から出て吾々は愁眉を開いた』
調査団は帰京後児島市琴海下の現競艇場を内定した。その報を聞き関係者一同は長い間の苦労がやっと報いられ感涙にむせんだ。
さて児島市は琴海の沖合を五千坪埋立てることに決定し九月に着工、開設予定を一応一一月二二日と定め、三ヵ月の突貫工事で建設が進められていった。
競走会は創立して一年近くが経過しているので会員からの出資金百万円も連合会に対する據出金や競艇場設置のための上京旅費その他の諸費用等で全部使い果たし、その上相当の借入金まで出来た始末で、開設も間近に迫り、資金面で苦しんでいた。まだ開設までには相当の運営資金が必要であり、その調達が出来るか出来ないかは開設を左右する重大問題で、競艇が海のものとも山のものとも分らぬ時期に更に会員や新会員に出資を求めようとしても無理な相談であった。当時としては多数の人が事業の成功に疑問をいだいていたので会長以下役員は資金調達に相当の犠牲を払う結果となった。
九月には児島市役所の一室を借り受け、本格的に開設準備が進められた。
いよいよ開設も間近くなったので一〇月一五日に定期総会を児島市赤崎松本光韶氏宅で開催し、会の内容の充実が計られた。そして事務所を競艇場に近い児島市赤崎八〇山陽化成赤崎工場内に移転し、競艇場の工事と平行していろいろの準備に忙殺された。職員一五名、傭員三〇名、審判の岡山大学生アルバイト一九名と人の獲得も容易ではなく選手宿舎の契約、燃料の確保、競技審判器材の購入と開場の全部の体制が整えられたのは正に開催の前日であった。その間の関係者の苦労は筆舌に尽し難いものがあった。
競艇場は昼夜兼行で工事が進められ、レースコースの土砂をサンドポンプで吸い上げ、その土地が固まる暇もなく杭を打って建物を建てるという荒らっぽさで、まがりなりにもレース開催に必要な最小限度の施設が完成し、開催前日に運輸省、連合会の登録検査が行なわれ、七つの条件付でやっと許可が下りた。二一日には諸官庁、報道機関その他来賓多数を招待して竣工式を行ない、引続いて実務者の訓練を兼ねての模擬レースを行なった。
明けて二二日菊花薫る秋晴れの佳き日早朝からつめかけた五千余の大観衆と緊張した関係者の見守る中に午前一一時スタートのチェッカー旗が振り下され、ここに全国第七番目の児島競艇が誕生したのである。ただ感慨無量の一語につきる。
初レースの三日間は連合会の役職員、既設の津、丸亀の両競艇場の実務者の応援をえて無事終了した。その成績は
売上 |
入場人員 |
二二日 二、五二三、六〇〇円 |
五、一一四人 |
二三日 二、九三三、八〇〇円 |
六、三七一人 |
二四日 二、二九八、七〇〇円 |
二、一四四人 |
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であった。ファンの不慣れもあって予想した程の成績ではなかった。そして競走会がレースを自力で運営出来るようになったのはかなり後であった。
さて競走会と施行者の委任契約は競走会も資金が枯渇していたし、施行者も財政が極度に窮迫し職員給与も欠配寸前の苦しい状態で、契約の内容如何は両者の台所に影響するところが少くないとあって自然難航し、開催前日夜を徹し交渉が行なわれ、明け方やっと暫定契約でレースを開催することになった。この問題で運輸省は岡山県をモデルケースとして契約の裁定基準を検討することとなったので岡山県の内容は直ちに他の競走会に影響するとあって責任も大きく、風当りも強かった。二八年五月運輸省通達による裁定基準が示され一応これによることになったが三二年三月の法改正まですっきりとしなかった。
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