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瀬戸内地区
 
倉敷市
児島競艇十六年のあらまし
 昭和二十六年の夏のこと、モーターボート競走法が出来たということで数人の者が児島半島の西端大室海水浴場に遊んで此処の浜辺にサンドラ(米俵の蓋)でも敷いて、この海水浴場の施設を利用すればわけないんだというナンセンスの話は全施協十周年記念誌に述べたから、それに続く初期の頃からのあらましを思い出のまま綴ってみた。
 終戦直後市制を施行した児島は職員の給与も払い兼ねる苦しい財政、折も折お隣の玉野市は競輪で福々であった。その貸与方を申入れたがうまくゆかず、思いきってボートに飛び乗ったというわけである。
 それから議会人と共に頻繁に上京して中央の状況を打診したが、皆目見当がつかず兎に角施行権の申請をしようと競輪の申請様式で出すことにした。その頃お隣の町から共催の強い要請があって曲折はあったが議会は一票の差で共催に決まった。当時は、ボートの前途予断を許さず、市の運命を決する大事件として議会の全員が意見を吐露した真摯な討議は今も眼底に焼きついておる。
 何しろ競走のやり方、施設の規模など全然わからず、そのうち高松海運局で説明会があって漸くその内容がつかめたわけであった。しかしそれから資金の調達と競走場の位置の選定に苦慮した。
 競走場の位置については、風向、潮流の関係を市内にある国立の海員学校及び高松、岡山の気象台に調査を願い、西海岸は駄目だということがわかった。と同時に公営競技の性格と観客の吸引の便宜から瀬戸内海随一の展望台鷲羽山麓の現在の場所より無しと決まった。
 まだ残暑の厳しい九月の初め運輸省船舶局の関連工業課の舟艇班長と、全モ連に関係ある某氏が来市され、当時既に出来ておった岡山県の競走会の役員の方々等五名のひとと現在の競走場のすぐ上の琴海荘(現在新常盤の一部)の離れの四畳半で真っ青な瀬戸の海を眺めながら協議した。競走場の位置についてはこの眼の下に見える海岸にしたいと申述べ多少の異論もあったが現在のところに立地したわけである。
 翌昭和二十七年四月選挙中施行権の認可があった事を知った。そこで新しい議会と共に積極的に準備を進め、津、びわ湖、大阪あど池などの視察もした。そして開催を十月末と決定したが競走会との折衝やら、その他諸般の事情のため競走場建設の工事は九月五日頃から海面の埋立から始めざるを得なかった。時恰も西日本特有の台風の時期であったが、此の年は台風らしきものもなく工事は順調に進んだ。天佑加護を今も感謝しておる次第である。然し、六十日ばかりでの完成は不可能であり、工期を延長して漸く周年レースの記念日となっておる十一月二十二日初開催となった。何分突貫工事のことで浚渫土はドロドロで更に山土を撒くやらアスを敷くやら、通路にはムシロの上にバタを並べるやら、てんやわんや、舟券売場は木造の仮小屋・スタンドといえば土盛して材木でどうやら階段をつけたもの、それでも関係者一同大きな期待をもってその日を迎えたものである。
 開催日の前日模擬レースを行なうことになり多数の来賓と市内各界の人々を招いて花々しく幕を開けたのである。翌日愈々初レース豪快な爆音と白波を蹴たててのレースに観客は歓声をあげたのであった。当時運輸省からも又全モ連からも、こんな所で果してこの事業が成長するであろうかと非常にひ弱い嬰児の誕生と心配をいただき何かと御配慮を煩わしたものである。果して初開催は一日二百万円そこそこで、その後も開催すれば一日百万円程度の欠損である。夜も眠れない日が続いた。景色が佳いので弁当持ちでほんとうにレジャーに来られる人も可成あったのも此の頃である。
 翌昭和二十八年正月レースには売上げ五百万円台に上り二月の田舎の旧正月レース又好成績を得て三月末決算には特別の便宜を得た金融機関に五千五百万円の融資のうち千五百万円の返済をしてほっとしたものである。
 爾来ここに十有六年紆余曲折の思い出は尽きない。項目だけ並べてみた、初期の頃の競走会との交付金の率又経費の負担区分の問題等のトラブル或は其頃その道で渡世をしている人達とのいきさつ、暴漢の暴行、市内の一部の公営競技に対する批判、運営問題について自治法第百十条の調査権の発動等々苦難とこれを切りひらいてきた喜びと思い出は綿々たるものがある。
 ともあれ競艇界今日の隆盛を見るにつけ当時思いもしなかった問題が発生しておるが、初期の頃の熱意と努力をもって茨の道を更に乗り越えて、真に健全な大衆娯楽としてレジャーを楽しんで貰えるものにしたいと思う矣。


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