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尼崎市
第一章 尼崎競艇の誕生
第一節 誕生までの経過
一 阪本元市長の着想(阪本勝著随筆集「市長の手帳から」)
 どまんなかに十万坪の大湿地帯がある都市が日本中にあるだろうか。そのあり得べからざることが事実あった。尼崎市においてである。人家の密集しているどまんなかに、しかも阪神電車の線路に沿って何十年来大湿地帯が大あぐらをかいている。丈余の葦が密生し不潔な汚水がどんよりたまりむなしく蚊の温床となってきた。ここに発生する何億の蚊群が風に吹かれて全市にちらばり、おかげで年久しく尼蚊崎の英名をとどろかしてきたのである。
 歴代の市町村長はこれを如何ともできなかった。なぜなら尼崎という平原にもっとも不足しているものは実に「土」そのものであって、昔から埋立て事業は至難のことに属していた。お隣の西宮や芦屋の山から土を運搬して来ては経費の点からとうてい算盤にあわない。といって市内の工場から出る廃物をあてにしていてはその量きわめて少なく、とても大規模な埋立てはできない。かような事情で何とかしなければならぬと知りながら永年放置せられて来たのである。市長に就任するなり一つこいつに手をつけてやろうと腹をきめた。歴代市長にできなかったことをしてやろうと野心を起した。ところがどう考えてもいい手がない。私はつくづく土というものの貴さを知った。ところがまことに不思議なめぐりあわせで私がかく苦慮をつづけているうちに国会では議員提案のモーターボート競走法が審議せられ通過は必至と見られていた。事実をいうと私は始めから湿地帯と競艇とを結びあわせて考えていたわけではない。モーターボート競走法が国会を通過して法律となったときも全然問題にしていなかった。従って競艇に関する何等の知識もなかった。ただこの法律の発案者が熱海選出の代議士で熱海の海岸と沖合はるかの初島との間のボートを走らせる構想から出発したものだと聞いていたから使用のボートは可なり大型のもので相当の波浪に堪えるものだろうと想像していた。だから西宮の香櫨園海岸を競艇場にする計画を耳にしたとき、あすこなら立派にやれるだろう、いい思いつきだと至極簡単に考えていた。ところが何かの機会に競艇用のボートは非常に小さいものでちょっとした波にもひっくりかえる、とても海で走れる代物ではないということを聞いた。だんだん調べてみるとなるほどボートはごく小さく底も浅く熱海初島間を走るなんてとんでもないことであることがわかった。
 さらに研究してみると沼か池こそ理想的であって波浪のある海や潮の干満や流れのある川尻は駄目だという見当がついてきた。してみると伊丹の昆陽池などはどうかなあ―とまでは考えたが大きな池のない尼崎で競艇をやるなどとは毛頭考えなかった。ところが着想というものは夏の大空に突然雲が湧くように人間の頭の中に忽然と出現するものである。あるとき上京して宿舎でごろりと寝ていたときあの大湿地帯を掘って大池を造りその土砂で十万坪を埋め立ててはどうだろうという考えがふと浮雲のように頭に浮んだ。みるみるうちに雲は大きくなり入道雲となり忽ちにして積乱雲に発展した。やや興奮した私は同行の商工課長松井君に私の構想を話した。市長やりましょうときた。とたんに機関車は走り出した。
二 競艇場の誘致
 昭和二十六年六月、市は戦災復興の財源を確保するためオートレース場の誘致を計画したが膨大な費用を要するので計画を断念した。明けて昭和二十七年二月兵庫県下でモーターボート競走場の誘致が話題になり兵庫県が県下の地方自治体の長を集め協議した。競艇場の誘致については西宮市が積極的に運動し、すでに運輸省に認可申請書を提出し誘致内定寸前までこぎつけていたがこの席上当時の事業課長松井唯一氏が尼崎市大庄地区に競艇場を誘致したいとはじめて立候補の意思表示を行った。そこで西宮、尼崎の競願となり県会総務委員会でもこの問題が熱心に討議されたが結論は容易には出なかった。しかし誘致については尼崎は西宮より出遅れたが人口密度が高く大都市大阪に隣接ししかも阪神電車の駅のすぐ近くに競艇場が設置できるという地の利、池であるので波浪がなく天候に左右されないという有利な条件があったので専門家筋は尼崎を希望したようである。そうこうしているさ中、松井課長はヤマト発動機(株)の某氏を介して笹川良一氏に会い競霧誘致をお願いし一度阪本元市長に会ってもらいたいと申し入れたところ氏は快く承諾しすぐさま来尼して下さった。阪本元市長と笹川良一氏は戦前から旧知の間柄であったので話はトントン拍子に進み、蚊の製造所である湿地を埋立てて競艇場とし衛生面は勿論学校アパート建設の財源としたいので是非お骨折り願いたいと懇請したところ、氏は全力を挙げて競艇場設置認可のため奔走してくれた。
第二節 開設準備
一 競艇場の建設
 笹川良一氏の積極的な協力により競艇場の誘致に成功した市はすぐさま大庄地区湿地帯開発委員会を設置し昭和二十七年四月三十日市会は大庄地区七万坪にモーターボート競走場建設を承認した。さてこれからが至難の業であった。九月初旬に第一回の競艇を開催するには三ヵ月の突貫工事を断行しなければならない。それにはどうしても二艘の砂掘り船すなわちサンドポンプ船が要る。しかも当時サンドポンプは日本で三艘しかなかった。並々ならぬ苦心の末、業者に交渉させ木曽川で稼動中の一艘をまずつかまえた。今一つは兵庫県が飾磨港の開発のために東京の某会社に注文した新造船に狙いをつけ松井課長が時の寺井兵庫県会議長に日参し又兵庫県モーターボート競走会の斡旋で貸与が決った。これで船の手配はできたがここに一つめんどうな問題が起った。市内の業者特に湿地帯近辺の土木工事を永年やっている業者は、この湿地帯の下はいちめんの“へ泥”で機械ポンプではとうていやれない。やれたとしても“へ泥”は掘りあげてから一年は待たなければその上に建物をたてることはできない。どうしても掘るというなら、すべからく十本くらいレールをひいて毎日五百人の労働者を動かし終始人力でやるべきだと体験や実例をならべ立てて、まるで土の下へ見物に行ってきたようなことを言い出した。これには市長はじめ主脳部もとまどった。そこまでいうなら本当かも知れないとも思った。しかし又あの辺は武庫川の造ったデルタ地帯だからへ泥の出るはずがない、必ず全部白砂に違いないとも考えた。数ヵ所ボーリングすればはっきりすることはわかっているがもうその時間的余裕がない。ある日の早朝市長の自宅を訪ねた業者は市長と激論のすえ言った。
「市長、首をかけますか」
「かける」
と市長はきっぱり言いきった。
「では“へ泥”がでたら市長止めるんですね」
「そうだ」
 かくして首をかけての勝負が始った。船はどんどん組み立てられて行った。まもなくポンプの動く日がやってきた。市長は市長室に待機して電話連絡を待った。
「市長、きれいな白砂です」
 事業課長の歓喜に溢れた第一声を合図に尼崎市の地図を塗りかえる大事業がスタートを切った。
(一部阪本勝著「市長の手帳」より)
 
競艇場ができるまでの大湿地帯
 
 昭和二十七年五月十四日工程の無事進捗を祈願して起工式を行った。工費は一億七千万円であったが当時の市の財政状態はひっ迫しており競走場建設については一般市税は使えず競走の収益から支払うということで請負業者の阪神築港にその大部分は負担してもらった。又兵庫県モーターボート競走会からも資金面ならびに資材面において協力していただいた。
 工事の途中市は競艇場設置に必要な民有地六万坪を地主十一名から坪五五〇円と耕作補償費一〇円計五六〇円で買収したがその土地を借り水田を経営していた約二十人の小作人がそれぞれの地主に対し離作補償費を要求した。これに対して地主側は土地を貸した覚えはない、みんな不法占拠だと反撃し市管理課のあっせんも空しく競艇場建設の前途に暗影を投げかけたが市の農業委員会の調停、管理課の努力で市が七五円地主が七五円を離作料として支払うことで解決した。昭和二十七年八月三十日尼崎競艇場は完成した。翌八月三十一日午前十一時から朝田神戸海運局長ほか来賓五百余名を招き盛大に竣工式を催した。
 
競艇場の起工式でクワ入れする阪本市長
 
競艇場の面積は、
敷地総面積 一二一、五二一平方米
競走水面   六五、一〇六平方米
建物敷地   五六、四一五平方米
で施設はスタンドを始めすべて木造であった。


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