社団法人大阪府モーターボート競走会
沿革
会名 社団法人大阪府モーターボート競走会
所在地 大阪市南区長堀橋筋二丁目六番地(船舶ビル)
設立 昭和二十六年六月十九日
設立許可 昭和二十六年九月二十一日
(官文第一〇九三号)
概要
議員立法として提案されたモーターボート競走法が、難航の末やっと目的の彼岸に到達し、施行の運びに至ったのは昭和二十六年六月十八日であった。そして立案から通過まで、同法制定の推進力であった笹川良一先生は、即刻連合会の結成に着手されるとともに、社団法人大阪府モーターボート競走会の組織と、南海電鉄(株)による狭山レース場の建設にも先導役をつとめられた。
斯くて大阪府モーターボート競走会が、社団法人として正式に当時の運輸大臣山崎猛氏から認可されたのは、昭和二十六年九月二十一日であり、大阪府都市競艇組合より業務の委任を受け、狭山レース場の歴史的開場とともに、第一回モーターボート競走の業務を昭和二十七年九月五日より実施した。
また昭和二十九年十一月十一日、箕面、豊川競艇組合より業務の委任を受け今日に至っている。
しかし、競馬、競輪には馴染みがあっても新生の競艇を全く知らない人々の足は容易に狭山の方向を目指してくれず、加えて立地条件にも恵まれなかったので、開催ごとに成績不振、遂に施行者の大阪府都市競艇組合もサジを投げ出す状態で、新たに箕面町と豊川村(現箕面市)の組合組織による第二の施行者を作って(これも笹川良一先生の尽力で)漸く開催だけは持続した。
こんなことから、施行者、施設会社(南海電鉄)競走会の全関係者が狭山に絶望して現在の大阪市内住之江に移転を決めたのは昭和三十年のことであった。
その開場は昭和三十一年六月九日であったがオソマツな施設、雨天にはゴム長靴でないと歩けないような泥んこの場内には、やはりファンは寄りつかず、わずかに地の利において狭山を上まわる程度のサンタンたる成績であった。
当然競走会の運営も困難を極め、しかも狭山時代の三、〇〇〇万円の赤字をかかえ、常勤役員は無給勤務のありさまで全員四苦八苦の毎日を送らざるを得なかった。
福岡を追いこし、平和島を抜き、現在の売上げ日本一の住之江となる機運は、昭和三十八年八月一日より六日まで開催した第八回全日本選手権大会に醸成せられた。爾来今日まで連続全国王者の地位を堅持して、ダービー開催三回、鳳凰賞開催二回の燦然たる歴史を誇るに至り、今後も開催されるであろう。
この結果競走会の内容も漸次充実を告げ、海の子の集い(大阪府下養護施設児童招待)、鶴亀の集い(大阪府下施設老人招待)の二大年中行事を軸に、八都市に対する救急車の寄贈、毎年の大和川流域(住吉地区)の水難防止運動等等社会公共に対する奉仕においても輝かしい実績を示すようになった。
波起こり波消えて満十五年、尚洋々たる前路の大海をひかえ、住之江と競走会の航跡は、公営競技界に不滅の文字を刻むであろうと確信する。
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