レクリエーション・センター 平和島競艇
昭和三二年度において施設会社は、同地内二万平方米の埋立第二期工事と併設して、地下一、〇〇〇米から湧出す温泉のさく泉に成功し、ここに温泉会館を建設して、遊園地、植物園等を開設、従来の競艇場名(大森)を平和島競艇場と改名し、同時に施設会社名も株式会社平和嶋と変更した。
この年、周年記念以外の特別競走として、都営時代に第一回を開催したが、当市営に移って初めての、第三回関東地区選手権競走を、桜花の季節である四月に開催し、年度当初より競艇事業は好調なスタートを切ると共に、青葉の頃には温泉会館が開場し、都民の憩いの場としての、レクリエーション・センターが平和島の一画を築き、これを転機として周辺は急激に活況を呈し、家族そろって楽しめるレクリエーション・センターとして、競艇と温泉のタイアップによる健康的な宣伝も行届き、折柄の余暇時代のブームに乗り、売上げは急激に上昇し競艇事業の前途に、ようやく曙光が見えてきた。
新しい競技方法の改善研究
昭和三三年度当初、スターティング・フロート(同時発走機)KK社長より、都営時代に一度テストしたことがあったが、その節は競技規則に該当しなかったため、競走の実施はできなかったが、本年七月一日より規則の改正で、この発走機で競技ができるようになったので、是非、地元である平和島で、採用してもらいたいという申し出があった。
これを採用した場合、フライング、出遅れの返還は皆無となるが、但しフライングスタートの妙味がなくなるのではないかということについて、枠順は抽せんでとるので、インコーナーの上手な選手でも最外枠に回る場合もあり、それにより追込み等の、レース展開も起こり、かえって面白味があるということであり、ファンはスタートに不安がないので安心して舟券が買えるという利点を力説されたが当時は予算等の問題もあり実現されなかったが、現今、スタート事故は、選手諸君の練達はあってか、なお跡をたたない状態で、その間、幾度かの競技規則の改正により、現行一秒への短縮は、競走の根本問題である、スタート事故防止対策が、ますます荷重化されてきたとき、当時の同時発艇機は現在では、完全に話題から立ち消えになってしまった!!
また今一つの課題として、三競走場のオーナー対抗レースの実施について、当時としては一部に隘路もあったが、一応三競走場とも賛成意見がでたままで、これまた実現を見るまでに至らなかった。しかし今日では三施設会社とも当時とは比べものにならないほど充実しておるので、オーナー賞金を適切に処理すれば実現できる可能性をもっておる!!
以上、二つの問題は当時、未解決のまま、立ち消えになってしまったが、進歩的な運営方法として、現在でも業界発展のため、研究すべき要素を充分もっているのではないだろうか?
また、この年の九月、相模湖モーターボート競走施行組合長、同組合会議長の連名で、府中市が施行している平和島競艇場の利用について、文書をもって申請があった。
この頃に至り競艇事業は、順調な伸展を示し、わずかではあるが、関東にも競艇の固定ファンがつくようになり、他種競技との競合があっても、売上の最低水準が固定し、地についた運営をみるようになった。
開催の自粛と騒音防止対策研究会の成果
昭和三四年度は事業の進展にともない、この年に初めて三大特別レース(現在は鳳凰賞競走が含まれ四大レースとなる)の一つである第五回全国地区対抗競走を招致し、五月のゴールデン・ウィークに開催し、売上げおよび入場者ともに新記録を樹立し、平和島競艇の基盤を築くことに成功した。
この年、当市が施行して以来、最大の事故が八月二一日(第八回第二節第四日第三レース)一般競走、軽ラン戦において発生し、人身事故として関係者をして驚愕(がく)させたが、幸い敏速な措置によって大事に至らず、事故を最少限に防ぐことができた。
レースはスタートより第一旋回点を優位に占位せんと一団となっておるにもかかわらず、両側よりやや斜航気味に航走し、約七五米付近において接触しながら接戦状態となり、鈴木選手は、最インコースより斜航が目立ち、梯団の直前に出たときは、すでに艇は不安定状態で、艇首を左に振りながら、半転覆の状態に至り、その直後に後続艇が激突し、転覆落水した鈴木選手は、後続艇が乗り越えた際、スクリューで左背胸部挫創同肺挫創の重傷を負った。しかし救助艇員の迅速果敢な救助により、レースが一周される時には、既に負傷者をピットに輸送し、医務員は敏速適切なる措置を講じ、選手の一命を取止めることができた。その責任感の旺盛にして重責を完うした献身的行動は、永く範とすべきものとして、救助艇員富永、宮内両名と医務員山中医師を表彰した。
この問題について突発的不詳事件が予測せず発生する競走の実施に対処するため、平素の訓練はもとより、きめの細かい配慮が、いかに必要であるかを痛切に感じた。
この頃、各地で不正事件、騒擾等が発生し、これに対する世論が極めて厳しい批判をもっており、公営競技(競輪競艇、オートレース)が議員立法によって、戦後社会の悪事情のもと、戦災復興の目的で生まれたものであり、近く行なわれる法改正にあたり、この種競技の存廃問題が世論の中に叫ばれて、競輪においては廃止せよとの声が強くなり既に自粛中止後、再開された競輪は開催日程の削減と、その後に起ったたび重なる騒擾事件等により、自粛開催として宣伝等においても極端な自粛が励行されていた。
公営競技の一員として競艇界においても、三五年一月には関東海運局長より、モーターボート競走の自粛運営について示達があり、関東地区施行者の自粛に対する申し合わせが行なわれ、具体的な自粛措置として、観客に対する過剰サービスの抑制、自粛開催として煙火打上げ、宣伝カー、宣伝マッチの配付、立看板、電柱広告、ポスターの駅掛け、車内づり等を全面的に廃止することを決定した。
それ以来、ファンに親しく愛唱されていた「ドンと花火があがったら貴方行きましょう平和島!!」は、昔なつかしい思い出の歌詩となってしまった。
また、この年度の一二月には開催当初より問題になっていたモーターボートの騒音について、付近住民の声を反映し、騒音防止対策研究会が発足した。その構成は大田区と関係住民代表者、学校関係者と平和島競艇関係団体により組織され、その第一回の申し合わせにおいて、騒音測定の実施、平和島橋南側水面にボートを進入せしめないこと、直接被害のあるところを重点的に考慮すること、騒音に対し不断の関心を払い、モーターの消音等を研究すること等の四項目にわたる大綱を決定し、以後昭和三九年四月(消音モーター完成)まで八回にわたり対策研究会が行なわれた。その間において騒音防止対策上の一措置として、スタート練習を規制したが、出場選手団より前後二回にわたり次のような要望書が提出された。
騒音防止対策のため選手は、短時間のスタート練習で充分な調整と水面慣熟ができないことは、機材に対する航走上の点検が充分行なわれず、また、すり合わせ運転で必要な部品の交換も時間的な問題で見合わせる、非常に不安な状態で競走にのぞみ、その障害の中で、もちろん出場選手は全能力を傾注して、悔いのない競走を行なう覚悟で出場しているが、事故を未然に防ぐためにも、モーター装着後の結果を知るためにも、これらの条件は絶対に必要で、周囲の状況から止むなく制限されたことと思い、今更ながら世論の我々に対する厳しさを身にしみて感ずると共に、現在唯一の解決の道は機材の改良、即ち水中排気等を研究され、当レース場の立地条件に合致した消音装置の速やかに完成されんことを切望する。
という要望がなされ、競走実施の隘路を打開するためにも、消音装置の完成がすべてを解決する道であると、たゆまぬ研究が重ねられた。
当競走場は対岸に面し、一般住民及び料亭等が護岸に接して密集しており、また小学校も近接している関係上、開催当初より騒音に対する住民の関心は、最も敏感であり、騒音測定の結果は、中央値八六ホン、通過最大値九四ホンあり、規定音をはるかに上回っているため常時問題が起こり、ために付近にある小学校の窓は、騒音防止装置を行なうという状態で、競艇存続上にも、当レース場としては消音モーターを成功させなくてはならない。長年の課題となっていたが、騒音防止対策研究会が生まれてから、この問題に積極的に取組み、二ヵ年間の歳月をかけた研究努力が結実して、ついに消音モーターが完成されたことは、一競走場のみの問題ではなく、業界発展のため大きな成果であった。
これについて全国モーターボート競走会連合会長笹川良一氏より、発明考案応募作品として、ヤマト六〇消音型モーターに対する優秀賞が、当競走場整備員長屋整備長に授与された。
なお騒音防止対策研究会は、これが目的の成果を収めたが、現在でも引続き、なお一層の研究対策が続けられている。
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