日本財団 図書館


府中市
府中市の沿革と競走事業推進の経緯
 府中市は大古時代より(地方制度の整備された時代から)各地方を統治する、国造りの一角として開け始め、大化の改新のときに、從来の三カ国、旡邪志(むさし)、胸刺(むなさし)、知々夫(ちちぶ)が、一ヵ国に統合されて武蔵国となり、その管轄庁(武蔵国府)が当市に置かれ一国の中心地として、鎌倉時代に至るまで繁栄を極めた。
 元弘、建武以来、当市は南は多摩川を控え鎌倉街道に当る要地であったため、しばしば兵禍に遭い、戦国時代には全く荒廃に帰したが、徳川時代に入り甲州街道の開通による、江戸より甲府への主要街道駅として、再び繁栄するところとなった。
 明治四年新政により、廃藩置県となり品川県に属し、更に神奈川県の所轄となり、明治一一年、郡区町村編成法により、大小区制が廃されて郡制となり、北多摩郡に属し、郡役所が府中宿に設置され、郡の中心地として発展した。
 明治二二年、町村制の実施により、同年五月、町制が施行され、明治二六年には東京府、神奈川県境域変更法により、三多摩が東京府に編入されて以来、大正一二年、郡制廃止により郡役所が廃止された後も、官衙公署の所在地として発展してきた。
 昭和八年、弱体財政を補うため東京競馬場を招致したがその目的である馬券買得税附加税が税法の改正で廃止となり、町財政に貢献することが出来なかった。
 昭和一〇年には法務庁用地に東洋一と伝えられた府中刑務所が設置され、高いコンクリート塀に囲まれた周辺は、日のあたらない場所として、将来の発展に暗影を投じた。
 昭和一二年の日華事変を契機として、陸軍燃料廠が設置され、戦後は米国第五空軍府中基地、航空自衛隊府中基地として現在に至っている。
 昭和二一年、行政機構の改革により、地方分権制度となり町村自治へと進展したが、広範にわたる国家施設(非課税)を抱え、町の財政は自主財源の貧困のため、自治行政が遂行できない状態に至り、後述の競走事業を推進することとなった。
 昭和二九年四月、府中町、多磨村、西府村が、町村合併促進法により大乗的見地から、卒先、都下最初の市制を実施し、弱体町村の合併で、府中市の誕生を見たが、合併後二年度にわたり赤字財政となり、その前途は多難であった。
 昭和三一年、地方財政再建促進特別措置法の公布により翌年三月第一回定例会の議決を得て、自主財政再建団体として、窮迫した財政事情の再建に努力し、日本電気、サントリービール、五藤光学等の工場誘致を実現して、既設の日本製鋼所、東京芝浦電気等と合わせ、工業都市化を推進してきた。
 昭和三九年には、第一八回オリンピック東京大会開催にともない、代々木の米軍宿舎ワシントンハイツに選手村建設のため、府中、調布、三鷹の三市にまたがる米軍接収地(旧飛行場跡)に移転し、治外法権のカントウ村が開設されたが、その施設の八〇%が府中市地域に存在するところとなった。
 以来、当市の現状は、公園墓地として広大な面積(約一三〇万平方米)を占める、都営多磨霊園あり、また古都として市の中央には、くらやみ祭として有名な大国魂神社の神域と、その参道にある馬場大門、欅(けやき)並木は天然記念物として、市のメインストリートに今なお、うっそうと生い茂っており、その他大小の神社仏閣が散在し、神社四〇社、寺院三〇寺が数えられている。
 市の南側を流れる多摩川、その沿岸には広範な地域を占める東京競馬場、多摩川競艇場等と、相対峙して北には府中刑務所、関東医療少年院等の国家施設が所在し、教育施設としては国立東京農工大学、都立高等学校三校、私立明星学苑、武蔵野学園を初め市立中学校六校、小学校一一校があり、また郡の中心地として警視庁、消防庁、東京都庁、国税庁、法務省、郵政省、電電公社等の出張所が所在している。
 これらの公共施設は、東京都の衛星都市として最も多きを数え、これがため全市の約半分に近い面積が、永久に非課税地帯となっていることは、税収の主要部門を占める固定資産税において、根本的な問題を残している。
 また近年は首都建設の外廊として都心よりの流入人口は都営住宅の膨大なる建設と合わせ、年々増加の一途を辿りその膨脹率は市制施行以来現在まで約三倍に達する状態でこれにともなう行政施策は年毎に急激に増大している。
 当市の競艇事業は長年にわたる努力が培(つちか)われ現今において実を結ぶに至り、その収益は府中市建設に欠くことのできない主要財源として、伝統ある府中市発展の原動力となっており、事業の進展には、いまなお、たゆまぬ努力が続けられている。
 
大国魂神社参道の欅並木(天然記念物)
 
府中市競走事業の生いたち
 府中市の収益事業の起源は、昭和二七年に競輪の指定申請を行ない、その間、一年有余を要して、翌二八年一一月二八日付自治庁告示第三二号をもって指定された。当時は三ヵ町村の一部事務組合で京王閣競輪を六日間開催し、その収益金は七六〇万円で、府中町には二七〇万円が配分され、これが収益事業の初収入であった。
 昭和二九年四月一日(三ヵ町村合併)市制を布き、引続き競輪開催について単独施行を行なうべく推進したが、諸般の事情で前年度行なった調布と組合営で四日間、京王閣競輪を開催することになり、日程及び天候等に恵まれず、その収益は五百万円を下まわり、府中市の配分は二三三万円で、予期した成績があげられなかった。
 昭和三〇年五月、京王閣競輪開催指定について前年度に引続き、東京都知事及び東京都議会に陳情、請願を行ない同年九月通商産業大臣、自治庁長官、東京都知事に自転車競走指定市申請書を提出し、同年一一月三〇日自治庁告示第四一号で指定された。しかし自治庁は京王閣競輪場の合理的使用計画を求めており、今後は毎年再指定を繰り返すような指定は行なわない旨、厳達された。
 昭和三〇年度において、前述の競輪事業の施行と並行して、競艇事業の施行についても地元、府中競艇(現在の多摩川)の当市(当時の多磨村)設置については、隣接する中学校の移転問題等を頂点に、長期にわたる折衝の結果、競艇場設置にともなう附帯条件として、施設会社は中学校の移転に要する用地を買収し、校舎を新築して無償提供する。それによって多磨村は現校舎及び学校敷地等を無償で会社に払下げる。設置された競艇場については、施行者として使用することを承諾するという契約を締結した。
 その後、開催の施行については慎重に検討を加え、権利を留保することになった。
 その間にあって府中競艇と同時期に開催した、東京都の施行する大森競艇が成績振るわず、収益事業としての在り方として検討された結果、七月二三日の都議会財務委員会で都営の開催中止を決定された。大森競艇の施設会社である大森水上レクリエーション株式会社は、東京都に代わるべき施行者として、当市に施行してほしいと交渉があり、競艇の施行問題を検討中であった府中市としては、競輪事業の施行と合わせ競艇事業についても関心をもっていたが当時不振を極めていた競艇については事業としての見透しと、施行条件等を充分考慮して検討が加えられ、大森競艇の実態調査を行なうと共に施行については慎重を期した。
 モーターボート競走を施行することによって、確実性のある競輪事業を放棄することは危険性があったが、当時の理事者(府中市長小林茂一郎)は、モーターボート競走の指定市申請に踏み切ることに態度を決定し、同年六月の府中市議会第二回定例会に提案し議決され、翌月、市議会全員協議会において、公営事業実行特別委員会を構成、委員一〇名を選任して、当市が命運をかけた競艇事業について積極的に推進することになった。
昭和三〇年八月一一日自治庁告示第三〇号をもつて
 モーターボート競走法(昭和二六年法律二四二号)第二条第一項の規定により、モーターボート競走を行なうことのできる市を次のように指定する。
東京都 府中市
 以上競輪のような期限付でない、無期限開催が認められた。しかし条件として競輪は三〇年度以降はできなくなり当時の客観状勢としては、競輪施行についてはいずれの自治体でも、これが指定を受けるため狂奔したが、モーターボート競走については関心がなかった。
 当時、関東における競艇界は、関西に比し劣勢で、公営競技のなかで競艇の占める分野は微々たるものであったが今後は毎年指定を受けるための努力を、競艇を軌道に乗せるために行使するということで、前途に明るい希望をもって競艇事業の第一歩が力強く、府中市の歴史のなかに記されて行った。


前ページ 目次へ 次ページ





日本財団図書館は、日本財団が運営しています。

  • 日本財団 THE NIPPON FOUNDATION