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関東興業株式会社
 江戸川区の昔日は、東京都内まれに見るデルタ地帯であり、過去数回となく風水害のため大なる損害をこうむり、この復旧について貧弱な財政では何等なすことが出来ず都財政に依存する実情にあった。
 昭和二十五年十月九日都内で戦後初の日米親善モーターボート競走が、江戸川区の中川放水路において行なわれ多数の観衆が動員された。
 これを契機として、江戸川区の発展に河川を利用する事が注目され、その一環としてモーターボート競走が取り上げられ、この実現のため区の総力を挙げて招致運動を展開することに決した。
 昭和二十六年三月十八日の区議会全員協議会において、区議会議員全員が招致委員となり、うち十五名の特別委員による自動艇競技場招致実行委員会を設置し、当時第十国会に上程されていたモーターボート競走法の成立に対し強力な推進運動を行なった。
 モーターボート競走法が昭和二十六年六月十八日成立公布されるや、江戸川区は招致のため積極的な運動を都議会に対し展開し、江戸川区長、江戸川区議会自動艇競技場招致実行委員長等は、昭和二十八年五月十二日に都知事、都議会議長、財務委員長、各派幹事長、各派政務調査会長にあてて江戸川区にモーターボート競走場設置に関する請願並びにモーターボート競走実施に関する請願を行なうと共に各関係への陳情を行なった。
 これと時を同じくして隣接葛飾区においても、競走場設置の請願がなされ競願となった。そのため江戸川区では、社団法人日本河川協会に委託し、モーターボート競走場の設置に関する治水上の諸問題について支障のない旨の裏付設計書を作成し、関係先に提出した。漸くにして、都議会財務委員に依る現地視察が昭和二十八年十月に行なわれ、十一月三十日の都議会本会議に於いて請願の採択を見るに至った。
 一方モーターボート競走法の公布に依り、全国各地に競走場が相次いで創設され、これにならい当江戸川競艇場の設置計画が渡邊儀重氏を中心として研究された。この結果採算上の諸点より多角的な調査を行ない、競走場建設を目指し東京都競艇施設株式会社設立に乗り出すこととなった。
 昭和二十九年三月二十日第一回発起人会が開かれ、江戸川区と東京都競艇施設株式会社の両者で締結されるモーターボート競走場建設に関連する契約書及び覚書等を承認した。同年三月二十五日第二回発起人会を開き、定款の認証及び株式関係の決議が行なわれ、続いて四月十六日、第三回発起人会では、株式引受状況並びに払込期日及び創立総会期日が決議された。
 かくして関東興業株式会社の前身としての東京都競艇施設株式会社は、昭和二十九年四月二十六日創立総会において資本金三千五百万円をもって設立された。
 会社設立と共に、競走場建設のために中川放水路を競走水面として使用することと諸施設建設用地確保の基本的了解を得て、『モーターボート競走場設置事前審査申請書』を昭和二十九年五月一日付をもって、社団法人全国モーターボート競走会連合会に提出した。これにもとづき、社団法人東京都モーターボート競走会より競走水面としての中川放水路は、競走法に基づくモーターボート競走の実施に適して居る旨の意見書が出された。
 一方、当社は競走水面である中川放水路一帯の共同漁業権及び単独漁業権を有する権利者に、江戸川区の発展のためにモーターボート競走場の設置について協力を求めこの賛成が得られた。又モーターボート競走場設置予定地が河川及びその附近地であるため、堤塘敷水面の占用及び工作物の設置更に河川附近地内の地形変更工作物設置等の許可を必要とし、昭和二十九年六月十四日付をもって江戸川区は、東京都知事へ許可願を提出した。
 東京都建設局に於いてこの許可願出事項については、治水上及び水防上の利用面より支障を来たさないとの見解をもって、六月十八日付建設省関東地方建設局に意見照会がなされた結果、異存ない旨の回答があった、又関東海運局東京支局においても、モーターボート競走場設置事前審査申請に依り河川水面、堤防河川沿道路の占用、附近地地形変更等の許可申請の取扱について、八月三日付をもって東京都知事に意見伺いがなされた。
 かくして許可願出事項は、関係方面への意見照会を終え八月六日東京都知事の正式許可が下附せられると共に、関東海運局東京支局に対し許可した旨の回答が出された。
 過る五月一日付モーターボート競走場設置事前申請書の提出以来、着々具体的建設計画が進められ認可を待つ状態であったところ、昭和二十九年十一月二十九日運輸省船舶局長より社団法人全国モーターボート競走会連合会会長のもとへ、モーターボート競走場の建設について異存なき旨の回答が発せられ、同時に自治庁財政部長のもとへ、中川放水路にモーターボート競走場を建設する申請を認める旨の通知がなされた。
 待望の認可は、昭和二十九年十一月二十九日付舶工第二四八号をもって運輸省の正式認可が下された旨、十一月三十日社団法人全国モーターボート競走会連合会より受理しいよいよ施設建設へと踏み出す事となった。
 先ず、競走場建設用地の賃貸借契約が昭和二十九年十二月一日に締結され、更に共同漁業権並びに単独漁業権については、向う十年間の漁業権補償契約が締結された。
 ここに建設用地の確保並びに漁業権及び堤塘敷水面占用等の諸問題も整い、十二月八日、東京都知事より正式に江戸川モーターボート競走場使用承認の通知を受理した。
 競走場建設の第一歩として関係者多数列席のもとに、十二月十五日厳かに地鎮祭が挙行された。当初建設用地一帯は、泥沼地であったため埋立工事より着手し、約五、〇〇〇坪の埋立は秋島建設により、昼夜兼行の突貫作業をもって国会図書館跡の土が運びこまれ、深夜に及ぶトラックの轟音はしばしば近隣住民の苦情を招いた。この大埋立工事は昭和三十年四月に完了し、鎌田守逸氏の設計に基づき五月一日から株式会社中野組に依って建築に着手することとなった。
 この工事は江戸川競艇初開催の時期を急ぐべく昼夜兼行の突貫工事をもって施工され、六月中旬には、ほぼ完成の域に達しモーターボート競走場の登録認可も七月二十七日に下附せられた。
 ここにモーターボート競走開催の準備も整のい、いよいよ八月八日東京都との『江戸川競艇場賃貸借契約書』及び江戸川競艇開催に附帯する『特別契約』の締結を見るに至った。中川放水路におけるモーターボートレース開催の夢は、立案計画以来関係各位の絶大なる御支援御尽力によりようやくにして実現した。
 八月十一日修祓式及び開場式は多数の関係者、来賓、御歴々の参集をいただき挙行され、翌八月十二日待望の第一レースが万感交々のうちに、爆音高らかに水しぶきをあげ出走し、関係者一同その雄姿を見守り誠に感無量であった。
 然し八月中における一日平均売上は四九三万円、九月中は四〇五万円と施行者をはじめとして採算上の諸問題を懸念し、まさに薄氷を踏む実情にあった。そのため観客誘致による売上向上に総力を挙げねばならなかった。
 然し当競走場は亀戸駅より約四・五粁新小岩駅より約三粁の交通上不利な地点であったため、都営バスをもって錦糸町駅及び新小岩駅より入場者の輸送を行なっていたが、運行回数も充分でなかったので施行者並びに当社共々増車を懇願したが、諸般の状勢より実現出来なかった。このため会社存否の重大問題をかかえ苦悩し続けて居ったところ、年あらたまった昭和三十一年一月より入場者数も漸増のきざしが見え始めた。しかし交通問題は依然解決されず入場者の苦情は募る一方であった。
 このため当社は交通局及び小田急バス等より臨時的に遊覧バスを借り受け、無料にて入場者の輸送にあたったところ好評を得、売上も向上し採算上の基礎が確立された。
 然るに陸運局より遊覧バスをもって入場者を輸送することは道路運送法に違反する旨勧告を受けたため、当社は乗合自動軍二輌を購入し亀戸駅前より江戸川競艇場間の輸送を行なったところ、能率極めて良くファン並に施行者より強い要望もあり暫時増車をはかり五台をもって運行した。ところが昭和三十六年に至り、再度、東京都陸運局より自家用乗合自動車による観客の輸送は、道路運送法に抵触するとの勧告を受けた。
 当時入場者の六割強は当社の無料バスを利用して来場して居ったため、これを中止することは競艇場の運営に及ぼす影響はもとより、多年にわたる入場者の便宜を欠き、ひいては交通上の諸問題より騒擾の因をなす事を懸念し、従来通り輸送を続けながら昭和三十六年三月二十日急遽特定旅客運送事業(無償)経営免許申請に及んだ。然しながら事態は早急に進展せず幾度となく陳情に参上し、ようやくにして昭和三十八年十二月二十七日付をもって、特定旅客自動車運送事業(無償)経営免許が下附せられ、運行区間は総武線亀戸駅前より江戸川競艇場間の路線が決定した。
 初開催当初、一喜一憂した売上も入場者輸送を積極的に行なったため売上は徐々に伸展の方向へと進み、昭和三十一年四月には全関東地区選手権大会が開催されるに至った。又八月には開設一周年記念特別レースと更に十月には開都五百年記念特別レース等相次いで記念レースを開催した。従って入場者数も日を追う毎に増え、スタンドの拡張と共にスタンド全般に亘りブロック敷にし、更に上屋拡張工事を施工し開場以来初の施設改装を行なった。
 昭和三十二年二月二十七日東京都競艇施設株式会社は関東興業株式会社と商号を変更し同年七月二十七日取締役社長に渡邊儀重氏が就任した。
 翌八月開設二周年記念を迎え売上は、一日平均一三〇〇万円を示し順調に経過したが、昭和三十三年三月十八日午前十時三十分頃モーター整備室より出火し、附近一帯火の海と化したがモルタル構造であったため火勢は外部に出ず事務室、整備員控室内部は焼失、選手控室、休憩室、賞金払渡所の一部を焼失するにとどめた。又器材関係においてはモーター六十六基、部品、工具、計器及び什器備品の大半を焼損した。然し三月十七日をもって昭和三十二年度第十二回第二節を終了し、次回開催が四月十一日からであったため整備場の復旧に全力を傾注することが出来た。早速翌三月十九日より株式会社中野組により昼夜兼行の復旧工事が施工され、更にモーター、計器及び什器備品等が発註された。受註業者は当社の罹災下の実情を察し、次回開催に支障のないよう努力し、又関係各位からは全面的な御協力を賜わりお蔭で早急に復旧し得ましたのでレース運営に何等支障なく開催出来た。
 昭和三十三年八月には競艇界最大の行事である全日本モーターボート選手権大会が開催されることとなり、八月一日より六日までの間炎天下のもとで熱戦が展開され売上は開場以来の最高を記録した。然し八月下旬及び九月には数回となく台風の洗礼を受け、施設保全のため職員全員徹夜の警戒にあたらなければならなかった。
 当時台風が襲来すると中川放水路の水位は護岸頂上近くまで増え絶えず水しぶきをあげ護岸下道路にあふれ、周囲一帯は高潮の危険にさらされる状態であった。そのため昭和三十四年九月より高潮対策の一環として、護岸嵩上げ工事が施工されることとなった。この施工は、当競走場施設への影響を及ぼす結果となり、競走水面への視界はまったく縮小され、同年十二月よりスタンドの改造を余儀なくされた。


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