事務局の縮小と残務処理
競艇が一時中止になると事務局を縮小せざるを得なくなり十一月末日までに各担当事務を整理して引継ぎ、モーター、ボート、備品、器具の監査を終了、塩原事務局長、村上、石川主事の三名は、残務並びに再開のため残留、塩原局長以下残留者は、俸給半減を申し出で、管理者、議員も報酬を辞退した。十二月末日全員整理退職し、宇津木主事は県営競技事務所内公営競技協議会連合会へ、千代田主事補は川口オート競走会、杉山主事補は春日部市役所と四散した。
開催休止中
オリンピックで開催休止が決定したので塩原局長(現助役)は全施協総会に出席、従来の親交を感謝し、ひと先ず退会の余儀なきに至った事情を述べたところ、総会では会費は納入しなくても在会するよう温情ある決定がなされたので塩原局長はその厚意を感謝し、従来通り会議等に出席することとした。
事務所にあっては、残留職員は場内予想業者組合、予想紙、競艇新聞社等の補償問題、ボート、モーターの処理に追われ又休止中塩原局長は組合事務のかたわら県から公営競技全般の調査研究を委嘱され県営競馬、競輪等の調査研究に当り、村上主事は県営大宮競輪場の自衛警備委員、石川主事は県営川口オートの自衛警備委員として勤務、休止期間中研修を行なうとともに競艇再開の準備並びに指定市認可継続申請の作成に努めた。
四市加入と名称の改称
オリンピックが終わって、かねて組合に加入を要望していた上尾市、与野市、草加市及び越谷市の四市が組合議会において認められたので関係各市議会の議決をお願いするとともに、十四市の指定市認可申請を取り纏め県を経て自治省に提出、三十九年十一月一日指定市の認可があり、同年十二月四日知事より組合規約の名称の変更の認可をうけ埼玉県都市競艇組合と改称した。
再開でまたまた陳情合戦
日漕の陳情
昭和三十九年十二月二十日、日本漕艇協会次長東海林武雄氏は運輸大臣松浦周太郎宛、競艇施設に対し反対陳情をした。
(前略)さて漕艇場に「競艇」を復活すべく地元競艇組合が厖大な恒久施設の建造を計画中と仄聞いたしますが、戸田漕艇場のオリンピック後の利用方については既に中央におかれて国民スポーツ振興の本義に基づき青少年はもとより、あらゆる人々のボートの練習および競技に最優先せしめる方針に決定しており、ボートに支障ない限りにおいて競艇の使用に供することを諒解しているものであります。(中略)競艇の恒久施設はこれをとりやめ、取りあえず暫定施設をもって競艇の復活をお認め下さるよう懇願申しあげる次第であります。
大石試案
日本漕艇協会が戸田コースを占有すべく、河野国務大臣体育振興特別委員長大石武一代議士、スポーツ振興議員連盟川崎秀二氏等を訪問、戸田コース国有化の運動を陳情したことから大石試案なるものが作られた。
それによると(1)戸田コースはアマチュア占有とする、(2)戸田、十市両組合の競艇は売上の良い東京にある平和島、多摩川、江戸川の内二ヵ所を選定して施行する、(3)開催施行日数は運輸省令を改正して両組合の施行日数を確保するという試案であった。しかし、これに対し埼玉県競走会は勿論、十市、戸田両組合とも猛烈に反対の意志を示し、また、東京都競走会長笹川良一氏もその実現困難なる旨を大石委員長に進言したためこの試案は立ち消えのかたちとなってしまった。
「再開近し!」を報じた新聞
三者会談(文部、日漕、県)
紛争を続けていた競艇再開問題について、一月二十二日漸く埼玉県と文部省並びに日漕との三者会談となり、埼玉県から県知事、副知事と企画部の柳専門委員が出席、文部省側から前田体育局長、荻原体育課長補佐が出席、日漕側から寺尾戸田漕艇場対策委員長、青木、海内、金子の三委員、外に伊能繁次郎氏が出席して開会された。
席上、日漕側から現在はともかく将来国有競技場としてくれとの申し出があったが、知事は「飽くまで現在の問題について解決すべきだ」との要求がとおり、
1 管理権の移管
2 国有施設の払下
3 漕艇と競艇との日程決定協議会を作ること
4 スタンド設計変更
を協議の結果
1は期限迄に文部省から埼玉県に移管する
2はオリンピックで使用したものを県に払下げる
3は漕艇、競艇の共存を認め、その使用日程については県、日漕、施行者で協議会を作り話し合いで決定する。
4は戸田組合が設計し運輸省で許可されたものを縮小する。
上のように妥協が成立し、ひと先ずホッとしたが問題はまだ残されていた。
戸田、都市、競走会の陳情
(前略)オリンピックボートコースとして戸田漕艇場が使用されることになり、県の要請にもとづき、オリンピック終了後、直ちに再開することを確約して昭和三十七年十二月二十四日競艇の施行を中止したのであります。競艇再開は知事が県会において言明した通り既定の事実であるので、関係者は昭和四十年一月再開を目途として準備を進め十市組合はその後誕生した上尾、与野、草加、越谷の四市を加え、十四市(埼玉県都市競艇組合と改称)にて施行することとし、自治省並びに運輸省の認可を得、施設者である戸田組合は施設改善委員会(運輸省内)の趣旨を体して大衆娯楽場として理想的な建築設計をしたのであります。ところが日本漕艇協会がこれに反対したため、埼玉県と、文部省、日漕との三者会談となり、その結果、アマチュア優先の原則でコースを共同使用することに意見がほぼ一致し、日漕の要望により、戸田組合は運輸省の了解を得て規模を縮小し、三月十六日開会される日漕の理事会から正式の解答をまって直ちに着工することとし、関係各市は工事完成目途を九月とし、十月再開の予定をもって昭和四十年度の予算を作成し、その財源をもって継続事業の計画をたてたのであります。
然るに、十六日の日漕理事会は従来の内諾をひるがえし競艇しめ出しの運動に乗り出し、戸田漕艇場対策特別委員会の金子春雄、海内要道、両委員、日漕理事長原三郎氏等は体育振興特別委員長大石武一氏を訪れ、また、東海林武雄日漕会長も河野一郎国務大臣と会見、「競艇場が再開されれば、コース使用はアマチュアのボートにとって大きな圧迫となるから漕艇場の国有化促進に努力してほしい」と陳情し、十七日も国会スポーツ議員連盟の川崎秀二会長に国有化促進を訴えるとの新聞発表がありました。
御承知の通り戸田漕艇場の長さは二千四百米あり、競艇はその上流最端の六百米を使用するのみで、従来日漕が二千米競技を行なう場合たとえ競艇開催中といえども両者打合せのうえ競技に差支えなきよう円満に運ばれてきたのであります。
県はこの問題について早速、文部省と交渉に入っているようですが、われわれは徒に再開が遷延されれば四十年度予算は根底からくつがえされ、尚各関係者将来の財政に大きな誤算を生じ、重大なる結果を招来することになるのであります。
以上大略これまでの経緯を申し上げましたが事情御諒承の上貴下の御尽力をもって一日も早く再開出来ますよう、ここに関係者連署をもってお願い申上げる次第であります。
昭和四十年三月二十二日
戸田競艇組合
管理者戸田市長 野口 政吉
埼玉県都市競艇組合
管理者狭山市長 石川 求助
埼玉県モーターボート競走会
会長県議会議員 染谷清四郎
衆議院議員宛(県関係)
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