(3)網漁
多くの魚を一挙に捕らえることのできる網漁は、縄文時代以来行われてきた最も古い漁法のひとつです。その後、戦国時代末期から江戸時代初期にかけて、大阪や和歌山周辺の漁師が優れた網漁を房総に伝えました。そして、江戸時代を通して漁場や漁種に合わせて様々な網漁が行われるようになりました。さらに明治時代以降、網の材質や構造の改良が行われ網漁の近代化が図られました。
網漁を分類しますと、網を移動させて捕獲するものと、網を固定しておいて捕獲するものに大別されます。具体的には、水平に移動させる網を曳網(ひきあみ)、繰網(くりあみ)に、巻くように移動させる網をまき網に、垂直に移動させる網を敷網(しきあみ)、掩網(かぶせあみ)、抄網(すくいあみ)に、固定しておく網を刺網(さしあみ)、建網(たてあみ)に分類します。ここでは、浮世絵、絵画に描かれた網を紹介します。
○地曳網
関西の漁師が伝えた代表的な網漁が地曳網です。戦国時代末期に、衣料用の繊維として麻に替わり木綿が普及しましたが、木綿栽培に欠くことが出来なかったのがイワシを干した肥料の干鰯(ほしか)でした。干鰯を肥料として使う商品作物の木綿栽培が広がるにつれイワシの需要が急速に高まりました。この結果、主に大阪湾沿岸で干鰯生産を行っていた漁師が、関東とりわけ房総に進出し、イワシ漁のための大規模な地曳網を伝えることになりました。
地曳網は、イワシ等の魚群を網で取り囲み、網全体を曳き綱で海岸から曳いて魚群全体を捕獲するという大がかりな漁法です。大地曳と呼ばれる大型の地曳網では、網を曳く曳き綱を含めて全体が400mに達する場合もありました。
魚群の周囲に地曳網を敷設する方法には、二艘のジビキブネで魚群を取り囲むように地曳網を敷設する「両手回し」と曳き網の一端を海岸に固定し、一艘のジビキブネで魚群の周囲に地曳網を敷設する「片手回し」がありました。房総では、1700年前後の元禄時代と1800年代の文化・文政期から幕末にかけての時期がイワシの豊漁期で、地曳網による漁は活況を呈しました。
資料番号21「上総九十九里地引網大漁猟正写之図」(昇亭北寿)には、地曳船が二艘描かれ「両手回し」の様子が描かれています。また先端の袋網の目印になるミトダルが描かれています。資料番号17「上総国九十九鰛漁之図(大日本物産図絵)」(歌川広重 三代)には、捕れたイワシが砂浜に上げてあるのが分かります。九十九里の海浜で10月頃から5月頃まで漁をしたイワシは明治初期までは、干鰯(ほしか)または油を絞り魚油にしていたようです。資料番号26「海女」(鶴田吾郎1890〜1969)では、捕れたイワシをヤッサカゴで運ぶ姿が描かれています。
地引網(模型)
ヤッサカゴ
○タイ桂網
タイ桂網は、地曳網と同様関西の漁師が房州に伝えました。江戸時代前期の17世紀以来、昭和39年まで富津市萩生や金谷周辺の岩礁性の海域で行われていました。この漁法は、カツラと呼ばれる綱でタイを網に追い込みます。桂(かつら)とは長さ100m〜200m前後の木綿の綱で、40cm〜70cm間隔でブリキと呼ばれるエゾマツの木片が結びつけられています。このカツラを、二艘のブリ船(ぶね)で海中を曳き、海中で揺れるブリキに驚いたタイをマチ船(ぶね)とアミ船が張る敷き網に追い込み、追い込まれたところで網を引き揚げ捕獲しました。タイを追い込むカツラは岩に絡まないように代船(だいせん)が見守り、カツラの後ろからは動きを指示する経験豊かな指揮者が乗船する指揮船(ぶね)が続きました。
新鮮なタイを効率的に多数漁獲できたタイ桂網は、江戸時代世界一の大都市へと発展した江戸へ鮮魚を供給してきた内房漁業を象徴する漁法といえます。資料番号16「同鯛網之図(大日本物産図絵)」(歌川広重 三代)には、数艘の和船で鯛網漁を行っている様子が描かれています。
タイ桂網(模型)
○定置網
定置網は、水深30m〜60mの浅い沿岸で行われる建網で、道網(垣網)、運動場、箱網などを固定して仕掛けます。主に回遊魚の通り道をふさぐように道網を岸から沖に向けて設置し、その先に運動場、奥に箱網を取り付けます。通り道をふさがれた魚は道網に沿って運動場に入ります。ここから魚は外に出ることができますが、奥の箱網に入ると魚は外に出ることが出来なくなります。その魚を定期的に水揚げします。
この網の原型は、江戸時代の初期に北九州から中国地方でブリやマグロを捕るために開発されました。そして、明治時代以降、網の中に入った魚が逃げにくくする工夫が重ねられました。動力や人力で多量の魚を捕るのではなく、網に入り込んできた魚だけを捕る環境にやさしい漁法です。
資料番号15「上総国建干網之図(大日本物産図絵)」(歌川広重 三代)に見られるのは、定置網漁の一種、建干網漁(たてほしあみりょう)です。これは木更津浜での建干網ですが、網具を干潮時には干潟となり、満潮時には海水が差してくるような場所に設置します。満潮時に陸岸に近寄った魚介類は干潮時沖に退く際に網目に刺さったり屈曲部に残ったりします。澪(みお)や窪みに入った魚介類をタモで採補している様子が描かれています。この浮世絵の描かれた明治初期には、漁夫が魚を捕るためではなくお客さんを相手とした観光用の建干網が行われていたことが分かります。
定置網(模型)
タモ
釣り漁は、大規模な装置を必要とせず、様々な自然環境の漁場でも対応できるため、縄文時代以来行われてきた最も古く一般的な漁法といえます。古墳時代以降、釣り針の材質に鉄が導入されてからは、様々な形や大きさの釣り針が作りやすくなり捕獲対象とする漁種や漁場に合わせて釣り方が開発されました。その結果、古墳時代後半から奈良時代には、竿と釣り糸を使う「一本釣り」漁、釣り針や擬餌針を直接曳く「曳き釣」漁、幹縄(みきなわ)に多数の釣り糸を枝縄として付ける「延縄(はえなわ)」漁が完成していたと考えられます。そして、その漁法は、大規模化するなどの発展はあるものの、ほぼ現在まで引き継がれています。
○一本釣り漁
一本釣りは、一本の釣り糸に一本か数本の針を付けて行う釣り漁をいいます。漁師が釣り竿を使用するのは、餌を撒いたり集魚灯で魚を集めるカツオの一本釣りやサバのはね釣り程度で、通常は釣り糸を直接手で繰る手釣りが行われます。資料番号34「房州波太村」(浅井忠のスケッチ)に見られるドビンカゴは、カツオブネで使用する生き餌のイワシを生かしておくためのもので、竹で編んであります。籠に竹を渡し海に浮かべます。また資料番号13「下総銚子浦鰹釣舟之図」(昇亭北寿)に描かれているのは、江戸時代以降有名になった銚子の鰹漁です。八丁櫓(はっちょうろ)(八本の櫓)で岸から漕ぎだそうとする和船で、舵取りを入れて九人が乗り込んでいます。沖では釣り竿を使った一本釣りが見られます。この一本釣りでは、カツオのナゼガキといわれる擬餌針や、カイベラという海面をたたいて生きのいいイワシがいるようにみせかけるモウソウ竹製の道具が使われました。
○曳き釣り漁
曳き釣りは、漁船から釣り竿を使い釣り糸を伸ばし、その先端に付けた釣り針や擬餌針を曳いてマグロやカジキマグロ、カツオ、ブリ、サワラ等の回遊魚を捕獲する漁法です。擬餌針や釣り針が、水中で泳ぐ魚の水深に合わせられるように、潜行板を使用します。
○延縄漁(はえなわりょう)
長い幹縄に釣り針を付けた多数の枝縄を結びつけ、一度に多くの漁獲が得られるようにした漁法です。延縄には、マグロ等の表層の魚を対象とした「浮延縄(うきはえなわ)」と、ヒラメ、タイ、キンメダイ等を釣る「底延縄(そこはえなわ)」があります。
延縄の仕掛けを収納したのが、ナワバチと呼ばれる竹の平籠で、幹縄を籠の中に巻き枝縄の釣り針を籠の縁に回された藁の縄(エンザ)に刺して並べます。房総の延縄漁は、江戸時代中期の延享年間(1744〜48)には記録が残されており、幕末から明治時代には館山市布良を拠点として大島沖まで漁場を拡大したマグロ延縄漁へと発展しました。
ドビンカゴ
ナワバチ
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