赴任から数えて四年と半年で浩樹たちは宮古支局を去った。出発前日の午後、新栄丸の池間信良がヤビジで採って来たのだと言ってグルクンやイラブチャーを箱いっぱい持って訪れた。「こんなに沢山食べきれないよ」
浩樹が言うと潮にさらされ赤茶けた髪の漁師が、近所の土産に配ったらいいだろうと人懐こく笑った。浩樹はさすがに胸がじーんとなった。洗いざらしの作業着にちびたゴム草履をつっかけ、船から降りたまま駆けつけたというような姿には島びとの直情ぶりが骨身に滲みてかんじられる。
「また、ヤビジで釣りをやろうや、ヒロ、シャコ貝採りに帰って来いよ」
別れ際、漁師の残した潮涸れ声が忘れられない。あれ以来、宮古島を再び訪れる機会はないが、那覇の本社へ戻った後も新聞テレビを見る限りヤビジ熱はエスカレートするばかりであった。かの有名な海上の道にも登場するヤビジなのだ、日本人のルーツや稲の起源がそこにあるかも知れないという民俗学者の学説までが盛んに取り上げられ、ヤビジの宣伝に一役買い始めていた。過熱の度合いは深まり、マスコミ各社がどっと押し寄せる光景が浩樹の眼にも見えるようだ。猫も杓子も、旧暦三月のサニツの季節を待ち兼ねていたようにヤビジ一帯の海に群がる。
浩樹は本社の学芸部や整理部を渡り歩きながらもサニツの季節になると何となしそわそわした。各社各様のヤビジ報道につい眼が向き、吸い寄せられた。相変わらず幻の大陸というキャッチフレーズはどこかの社で取り上げられ、電波や活字の中で躍っていたが、それらの記事に触れる度、複雑な想いが浩樹の胸中を満たした。ヤビジ周辺が年毎に騒がしくなり出したことに対する危惧とそれに伴う罪悪感――。ヤビジをサニツに絡めて最初に世に送り出した自負は、その頃から坂を転がり暗い方へ暗い方へと屈折するようになった。
浩樹のそんな心中とは裏腹に、ついにはヤビジ熱を金儲けの具に仕立てようと目論む地元の役所や観光業者、商工会などが中心となってヤビジツアーなるものまでが出現するに至った。あとは砂糖にたかる蟻みたいなもので、ヤビジ狂想曲は輪をかけたようにひどくなるばかりである。十年も経たないうちに、ヤビジを訪れる内外からの観光客数は当初の十倍から二十倍にも膨れ上がった。一方で眉をひそめる人たちも出て来たが、浩樹自身の心は引き裂かれっ放しであった。
ヤビジツアーの始まった頃は年に二千人程度の地元観光客がつつましく訪れるだけであったのに、近年のエコツーリズムとやらまでが合わさり、ツアーを組む旅行業者が県内外に雨後の竹の子のように現れ始めた。とうとう二万人から三万もの人間がサニツ前後のヤビジに殺到する事態となった。これではもうヤビジが持たない。豊富な魚貝類も採り尽され、かけがえのないサンゴがめちゃめちゃに踏み荒らされる。魚たちが安心して産卵できなくなると危機感を募らせた池間や、伊良部島の漁師たちがやきもきし出したのも当たり前だろう。
その頃から浩樹は同じような夢を繰り返し見るようになった。夢にうなされ、襖を開けると魚たちの悲鳴のようなものが聞こえる。助けてくれ助けてくれという無数の声が浩樹の耳にはっきり聞こえる。襖の向こうには透き通るように美しい虹色のヤビジが果てしなく広がっている。奇妙だけれど、そこが夢なのだろう。
寝苦しい夜中にハッと眼を覚ますのは決まって襖の向こうにかんじられる気配のせいだ。誰かが、何かがそっと浩樹の呼吸を窺っている。襖を開けると色とりどりのサンゴが群落を成し、魚たちの数知れず泳ぐ海の底だ。眼もあやな珊瑚礁の海に浩樹は迷い込んでいる。脇を涼しげに魚たちが泳いでいた。その魚たちが毒魚みたいな陰惨な顔つきになって浩樹に噛みついて来る。鋭い歯をむき出しに、浩樹の胸と言わず出っ張った腹と言わず腕にも足にも薄くなった頭にも噛みつき、食いついて離さない。ガリガリガリガリ、凄まじい勢いで内臓までも抉り出さんばかりの食人魚たちが全身をびっしり覆う。魚たちに取り囲まれ、息もできなくなる。
おまえのせいだ、おまえが悪い、おまえがヤビジを売ったんだぞ。ヤビジを壊し自分たちを追い出したのだと呪詛の叫びを漏らす食人魚たち――。浩樹は胸苦しさのあまり汗びっしょり掻いて目覚めた。かと思うと花畑のようだった美しい珊瑚礁の海が、一変してぞっとするような死の海の表情を浮かべる。死滅したサンゴの堆積。灰色に黒ずみ、無惨に打ち砕かれた枝サンゴやテーブルサンゴの死骸がどこまでも続く海底の陰うつな光景に身震いしながら浩樹は目を覚ました。
目を覚まして慌てて隣の部屋を覗いた。食人魚たちも死んだサンゴの死骸もありはしない。暗いリビングにへたへたと座り込んで、浩樹は自分のしたことに打ちのめされていた。
そういう夢に繰り返し取り憑かれた。ヤビジは元々、池間や伊良部島の漁師たちにとって生きるに欠かせない大切な漁場であり、魂のふるさとなのだ。それを心ない観光客に踏み荒らされ、傷つけられれば自然そのものが黙っていないだろう。加えて浩樹には信良をはじめ漁師たちの暗く険しい表情が見えるようだった。
ヤビジに生きる漁師たち一人一人にとって、そこは先祖の代から寄り添い続けた神聖な場所ではないか。ヤビジ一帯の広大な珊瑚礁は魚たちにとっての大切な揺りかごなのだから、暮らしの上でも第一番に守らなければならない筈のものだ。その礁が見る影もなく失われてしまえば、採っても採っても湧いて来た魚たちが育たなくなる。ヤビジの資源が枯渇してしまえば漁民への打撃は大きく、当然、暮らしが成り立たなくなる。
学芸部のデスクとなった浩樹はサニツの季節を迎えて、新聞やテレビが我も我もとヤビジにスポットを当てるたび自虐的にならずにはいられなかった。脆い枝サンゴの上を堅い靴底でどかどかと闊歩する男や女たち、採り尽くされ剥ぎ尽くされるヤビジの生き物たち。あまりの喧噪に棲み処を追われる魚たち。目を覆うばかりのヤビジの荒廃ぶりに浩樹は苛まれた。
だがしかし、若しも俺がヤビジに脚光を当てなかったとして、代わりに誰かがいずれはヤビジに注目し、世に送り出していなかったと言い切れるだろうか。避けられない時代の趨勢が遅かれ早かれヤビジをその渦中に巻き込んでいたろうとは思うものの、かと言って全く浩樹に罪がないわけのものでもない。
信良からは年に一、二度思い出したようにして小包が届いた。ヤビジで採れたグルクンやミーバイ、カーエーなどを冷凍にして送ってくれる。武骨な文字の短い手紙が添えてあって、息子が高校へ進学したとか、娘に好きな男ができて、この前いきなり家へ連れて来たからドゥマンギッタよなどと書かれていた。浩樹は思わず笑ってしまったがドゥマンギッタとは驚いた、びっくりしたのミャークグチ(宮古方言)なのである。不器用な手紙の最後には必ず、ヤビジの魚介類が年々減ってゆくことへの嘆きが訥々と語られていた。
ある年、サニツの記事を眼で追っていた浩樹はおやっと思った。のどかなサニツ風景に覆いかぶさる突如の暗雲が眼の前をよぎったように思えたからだ。このところデスクに座りっきりだとはいえ、長年の記者としての嗅覚が微かながら異変の匂いを嗅ぎ当てたらしい。宮古発の記事の内容はいつもののどかな浜降り風景とは打って変わって、サニツの最中に死人が出たことを伝えていた。
浜降りの男女でごった返すヤビジの北方に、人間の胴体を意味するドゥビジという環礁があって、そこで本土から訪れた若いカメラマンが溺死体となって発見されたという。潮が満ち始め、人々が慌ててそれぞれの船に引き返したあとに、海水の流れ込むラグーンの中にうつ伏せになって浮いている男を最後に通りかかった土地の漁師が見つけたとある。
浩樹は記事を読んですぐ、背筋がスーッと冷たくなるのを覚えた。脳の中で何かが目まぐるしく動き出し、出口を見つけようと焦っている。何なのかはわからないが、忙しく右往左往しながら答えを求めているらしい。
翌年のサニツにまたもやヤビジで死者が出たことを告げる記事を眼にしたときは、何故か動悸の高まるのを抑えられなかった。前年の事故騒ぎがあってから、サニツに訪れる観光客に対して厳重な注意がなされていたにもかかわらず同様の事故が再び起こってみると、浩樹の中でもやもやした不透明なものがムクリと頭をもたげた。
次の年のサニツに本土から来た子供が二人、貝採りに夢中の親からはぐれてラグーンの底に沈んでいるのを発見されたという記事に接した時、浩樹は以前からの暗い予感が的中しつつあるのを覚えた。これはもう偶然の事故でも何でもありはしない。戦慄が背筋を這う。長い間、多勢の心ない足に踏み荒らされ、壊され、傷ついたヤビジの珊瑚礁が踏みつけられ放題になるのをやめて、自らの手で魚湧く海を取り戻そうとしているのかも知れない。そう考えずにはいられない立て続けの事故なのである。
「ヤビジは凄いよ、あっさよぉなあ、あんまり広すぎてヤビジの全部を知ることはできないし、廻ることも一生かからんとできないからよ」誇らしげに語っていた漁師たちの顔が浩樹の脳裏に鮮やかに甦った。
池間や伊良部、平良の島びとと漁師たちだけがサニツの恵みを享受する分には、百年経っても二百年経ってもヤビジの魚介類には何の異変ももたらさないに違いない。外から土足で踏み込んで来る無神経な輩さえいなければ。
浩樹の頭いっぱいに海底から浮上したヤビジの光景がひろがった。ツアー客たちでごった返している環礁。見渡す限りの環礁の島に、満ち潮の時刻でもないのに山成す上げ潮が突如、襲いかかる不気味な光景。ツアー客たちが悲鳴を上げ、崩れ落ちる大波に呑み込まれてゆく。島が自らの意志で閉じてゆこうとしているのだろうか。立て続けの事故がその予兆のように思われてならない。
残暑の九月に信良から久々の小包が届いた。いつもの近況報告のあとに、来年のサニツからはヤビジに観光客を下ろさない決まりができるかも知れない。漁協挙げての反対運動と陳情がようやく実を結び始めたと書き添えられている。ここ数年連続して起こったヤビジでの不幸な水難事故と、信良の手紙とが浩樹の中で瞬時に繋がった。長い間、浩樹を苦しめ続けて来た胸のつかえがスーッと下りてゆくのを覚える。
次の年から人気のヤビジツアーに本当に変化が起こり始めた。ヤビジに入れる観光船の数の制限と、客を一切環礁に下ろさないことが業者間で取り決められたと新聞が報じている。浩樹は記事の内容を食い入るように読み終わって万歳を叫んだ。
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