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 宮古支局は平良港の近くにある赤瓦屋根の民家だ。ブーゲンビレアの紅い花房が鬱蒼と垂れかかる玄関先に待っていたトモミから、浩樹はその日の連絡事項を聞き置き、何よりも先に採れたてのヤビジの幸で空腹を満たすことにした。
 網袋の中から次々と取り出される砂や藻が付着したままのシャコ貝に、トモミはびっくりして膝を泳がせかけている。というのも繁華な街なかで育ったトモミには当然の如く潮干狩りの経験とてなく、波型の口が食いつかんばかりに裂けたシャコ貝など眼にするのも初めてなのである。
 包丁で蝶番をこじ開けたとたん、トモミが「何よ、コレ」と金切り声を上げてその場から飛びのいた。それくらいに人を驚かせる奇抜な色とかたちの洪水であり、氾濫だったのだが、それにも増して貝の中身が異様なのだ。ぬめぬめして得体が知れない。青紫だの雲母色だの黒真珠の色だのがごちゃごちゃに交ざり合い、絡み合って極北のオーロラみたいに発光し、うごめいている眺めもショッキングだが、光りぬめる女陰のようなびらびらが顔を覗かせた時のトモミの仰天ぶりと言ったらなかった。腰を思いきり引いて、しきりに気味悪いよ、気味悪いよを連発する。眉をひそめて浩樹の肩に隠れた。
 外形からは窺い知れない中身のどろどろしたかんじに、触ってみるのさえ躊躇い(ためらい)を覚えるらしいのである。捌き終えた浩樹が酢じょうゆを垂らした小皿につけて食べると、思ったとおりの美味であった。採れたての新鮮さは格別で、初めのうち要らないよ、食べないよと手を振って嫌がっていたトモミがシャコ貝を一切れ口にしたとたん、眉をひらいた。
 「姿かたちはずいぶんとグロテスクだけれど、味はなかなかのものね」
 意外そうな顔をして言う。
 最初はあまりにも強烈過ぎる磯の匂いに鼻を摘まんばかりにして口に入れていたのが、やがて首をかしげながらも不思議な面持ちになった。歯ごたえの良さには大いに納得するものがあるらしく、最後にはウンウン頷いている。それから後、食べる機会が少しずつ増えるにつれてシャコ貝がトモミの何よりの好物になろうとは、本人ばかりでなく浩樹とてもその場では到底思い及ばぬことであった。
 「相手さんはヤビジに行ってないんだからさ、うちだけなんだから、せいぜいでっかく載せて下さいよ」と地方部長に掛け合ってはおいたものの、浩樹の書いた記事と写真が那覇の本社に届いたとたん社会面トップを飾ったのには正直、驚いた。たまたま目玉ニュースがなかったからかどうなのか、殺人事件や米軍基地関係の犯罪に、事故の記事がぎっしりと目白押しになっている筈の社会面のど真ん中に、四段抜きで一面干上がったヤビジの写真がでかでかと掲載されていたのだ。
 「おいおい、トモミ、ちょっとこっちへ来てみろっ」
 浩樹は自分の声がうわずるのがわかった。
 トモミが棟つづきの台所から手を拭きながら来る。午前九時、那覇を飛び立った一番機が宮古空港に着陸して、新聞が機内から下ろされると販売店主の車が配達前の新聞束を満載したまま支局へ直行して来る。
 いつもの朝の風景である。浩樹は受け取った朝刊からまず真っ先に社会面を、それから地方版の一部が掲載されている第二社会面をひらいて見る。支局に来てからはそんなやり方がすっかり習い性にもなっていた。ライバル紙の支局に何か抜け駆け記事を書かれていないかといういつもの警戒心が、常に心のどこかに働いているからである。その浩樹の眼に思いがけぬ大見出しが飛び込んで来た。
 <幻の大陸・ヤビジ>と太字で書かれた白抜きの見出しの脇に、<サニツに沸く人々>の八文字が躍っている。
 ヤビジが広く全国にその名を知られるようになったきっかけの一つをこうして浩樹がつくった。心中には今もその自負がしたたかにある。あるからこそ時折、心が疼くのだとも言えるが。そこには一種、不思議な思考のからくり仕掛けがあった。というのもお膝元である宮古島の地元二紙の記者たちがヤビジの浜降りについて殆ど報道していなかったことだ。島で生まれ、島で育った彼らにとってヤビジでの浜降りはしごく当たり前のことで、言ってみればありふれた日常の一コマに過ぎない。そんなものを前に新しい発見とか心揺さぶられる感動とかが起こるわけはなかった。新鮮さを毛ほども感じないわけだから、これを頭に持って来て季節の話題にしようという発想そのものが湧かなかった。
 サニツは宮古の人々が各地で等しく行う毎年の行事であり、そのこと自体に何の話題性もインパクトもありはしないから、どこの海浜に行っても賑やかな写真の一枚くらいは手軽に撮れる。どこの浜でも同じようなサニツ風景が撮れる以上、あんなに遠いヤビジくんだりまでわざわざ船に乗って一日がかりで取材しに出かけることなんかない。という怠け心も手伝って半ば放置していたというのが実情だろう。ヤビジでの浜降りを地元紙側が知らないわけでも何でもなかった。
 ヤビジだけを取り立てて報道する必要性を、彼らはそれまで特に感じていなかったのでもあろう。そのヤビジを初体験だった浩樹が県内紙の一つに大々的に報道した。しかも幻の大陸と命名して。
 これが衝撃波を起こした。
 次の年には本土のマスコミがヤビジ取材を目的に乗り込んで来た。大手新聞二社にテレビ局が一社。勿論、サニツの行われる旧暦三月三日を目当てに、それらのマスコミから浩樹の元へは一月近くも前から取材の協力依頼が寄せられた。
 「ヤビジというのは、あの柳田邦男の海上の道にも出て来る干瀬らしいですな、それは是非一度行ってみたいとかねがね思っておりましたよ。今度、うちの若いのをそっちへやりますから、渡船の紹介方をお願いできませんかね」とデスクらしいのが東京からわざわざ電話をかけて来た所もあれば、直接取材に来たいという本人からの問い合わせもあった。
 浩樹はもちろん次の年も、妻のトモミや浩秋を連れて潮干狩りがてら取材に行くつもりだったから、同じ日にその取材クルーを乗船させる別の船を信良の紹介で手配し、サニツの訪れるのを待った。その頃になると地元二紙もようやく眼が覚めたらしく、ヤビジにそれぞれ記者を送り込んだ。彼らにとってはそれこそ眼からウロコが落ちたおもいだったのであろう。
 <幻の大陸・ヤビジ>のネーミングもよかった。浩樹の頭から出たものが早くも浩樹の手を離れて、センセーショナルに動き始めていた。過去のスクラップブックをめくってみても、ヤビジのサニツ風景は掲載されていなかった。それらしい記録は皆無だったから、歴代支局長の誰もまだヤビジに手をつけていないことは確かなのだ。他社はともかくとして、浩樹たちのR新報内にヤビジのサニツ風景に焦点を当てた記者がいなかったということになる。ヤビジは恐らくマスコミ各社にまだ知られていない処女地でもあるのだ。
 最初の年に浩樹が野心満々、隠密行動を取ったわけも実はその辺にあった。これはイケル、これは絶対ニュースになる、と記者特有の勘が働いた結果でもあった。
 それが当たった、ズドンと的を射抜いた。
 発行部数一万部に満つか満たないかの地元二紙に比べて、県内全域に広範囲な読者層を持つ浩樹たちのR新報は発行部数二十万部を誇る。県紙としての機能と影響力が絶大なのだ。その点、ライバル紙と共に宮古、八重山両先島の地元メディアからは中央紙とも言うべき威厳を持って受け入れられていた。実際、彼らは浩樹たちの新聞を讀売、毎日、朝日などの大手全国紙と同列に並べて論じていたし、それが日々の当たり前の光景でもあった。
 同様の意識は読者の間にも広く行きわたっていて、浩樹たちが書くと書かないとでは報道の持つ重みそのものに極端な開きがあった。
 その絶大な影響力に比べて、本社が離島支局に与えていた待遇はかなりお粗末なものであった。浩樹が家族を連れて初めて宮古空港に降り立ったのは夏真っ盛りの七月。黙って立っていても、額や脇の下からじくじくと汗が滲み出て来るような強烈な熱気に島全体が沸き返っていた。
 支局の名前を告げると、タクシーの運転手は迷うことなく真っすぐに一行を目的地に連れて行ってくれたが、その玄関口に立つなり浩樹たちは唖然となった。
 ここが支局か? 赤がわら屋根のただの民家じゃないか! と思ったのは浩樹ばかりでなく妻のトモミの衝撃ははるかに大きかった。
 「何なの、これ。鉄筋コンクリートのビルでも建っているかと思ってたのに・・・」
 そう呟くなりガックリと肩を落とした。
 「じゃあ、どんな大層な支局だとでも思ったんだよ。離島の支局なんて、どこもこんなものなんだよ」
 浩樹は世間知らずな妻を諌めるように言いはしたものの、心の内では自分自身が似て遠からずの気分であった。塀伝いから門までブーゲンビレアの紅い花房に覆われた古い屋敷は、ほかにも天を突く怖ろしげなインド椰子やグアバ、クロトンなどの熱帯樹が瓦屋根を越すほど繁茂するに任せた陰鬱な家だった。
 支局の看板が樹木に半ば埋もれて判別しにくい。これじゃあ、読者が用あって訪ねて来ても支局があるのかないのかわからないではないか、とちょっと心配になったくらいだ。
 それに加え、支局の構えそのものが島の普通の民家と毛ほども変わらないことをカルチャーショックと捉えたトモミほどではなくとも、実際の仕事をこなす上で問題にしなければならないことが多くあった。それこそファクス一つパソコン一台なかった時代のこと、写真は日に数便しかない飛行機で那覇まで送らなければならない煩わしさだったし、当然の成り行きとして緊急時には間に合わない。つまり写真なしで行くしかない。それは仕方ないとしてもまず取材用の車を会社が用意してくれなかった。ライバル紙面の支局長はマイカー持ち込みで赴任して来ているから、どこへ行くにもそれで間に合わせられるものの、浩樹はまだ車の免許そのものを持っていなかった。
 車もない上に運転もできない。バイクなら運転できたが、前任支局長から引き継いだのは錆びの浮いた中古自転車一台きりだった。それをギーコギーコと漕いで毎日取材して歩いたのだからのんびりしていたとしか言いようがない。
 役場も警察署も自転車漕いで十分内外の近さにあり、特に不自由は感じなかったものの、四年半に及ぶ支局暮らしの中で特筆すべき事件が一つだけあった。お蔭でマイカー持ち込みのライバル紙の支局長には決してできない離れ業を浩樹はやった。錆びの浮いた中古自転車が足だったればこその手柄であった。
 いや、手柄と言えるのかどうか、赴任から二年目の秋。今では全国のアスリートの中にその名を知らない者のない宮古島トライアスロン大会の主会場ともなっている東辺安名岬。その絶崖の途中に遺棄されていた男の死体をたまたま近くへ釣りに来ていた人が発見した。
 東辺安名岬殺人事件と呼ばれている。発生直後、宮古署でそのことを聞いた浩樹は早速、タクシーを呼んで市街地から十キロ以上離れた岬まで駆けつけた。
 千円札五枚をしぶしぶ浩樹に渡しながら、
 「今月の支局費がいっぺんに無くなるわよ、あと半月どうやりくりすればいいのよ」
 妻のトモミが愚痴をこぼしかけたが、聞く耳持たなかった。
 折角の記者根性に水ぶっかけるなってんだよ。全く、女は銭のこととなると細かいことをぐちぐち言うから仕事にならんぜ。特にトモミはそれがひどい。足して引いて割って掛けて、毎日毎日その繰り返しなのだが、じゃあおまえ、聞くけどなあ。財布の中身がないからって、特ダネのチャンスを逃がしてもいいのか。記者の妻たる者の心構えがそんなもんでいいって言うのか――浩樹はタクシーの後部座席にどっかと構えて見えない妻と頭の中で会話していた。
 確かにこの時の取材費は高くついて、五千円払っても往復のタクシー代に足りなかった。
 「構わんよ、兄さん、足りん分は負けとくさねえ」
 運転手ものんびりとしたものでそう言い、盛んに恐縮している浩樹に別れ際手を振って見せた。その岬からの帰り道、歩いている人を見かけた。こんな人里離れた場所を街まで何キロもてくてく歩くつもりなのか、と浩樹は首をひねった。車を停めさせて、乗らないかと声をかけたら頷いてタクシーに乗り込んで来た。
 無口な男で、話しかけても答えが殆ど返って来なかったのを覚えている。その同じ男が数日後に殺人事件の犯人として捕まった。島外に高跳びしようとしかけたところを空港で張り込んでいた刑事たちに捕縛されたのだ。留置所に入れられた顔を見て浩樹は驚いた。
 あの男ではないか。つい三日前、東辺安名岬の寂しい道をとぼとぼ歩いていたおとなしそうな男が、実は島じゅうを恐怖のどん底に陥れた事件の犯人であった。夫が遠洋漁業に出て留守中の妻と深い仲になった幼なじみの間男が、ソロモンのカツオ漁から十カ月ぶりに戻って来た夫を殺害する計画をその妻と二人で立てた。人の寄りつかない岬を死骸の捨て場所に選んではみたものの、後から後からさまざまの不安が心に兆したのであろう。辛抱できなくなり、現場に戻った。
 「おいおい、俺が取材の帰り道にあの日、東辺名岬から男を乗せたって言ったろう? そいつが殺しの犯人だったんだよ」
 署から戻った浩樹の興奮冷めやらぬ口調にトモミまでが仰天した。犯人は必ず現場に戻るという捜査上の鉄則はここでも生きていたのだ。そんなおまけまでついた支局暮らしの最後の年が明けて、やがて船乗りたちが恐れるニンガチカジマーイが吹き荒れ始めた。二月風廻り(ニンガチカジマーイ)とは彼岸の入りに当たる旧暦二月、南の海で発生しやすいつむじ風のことである。その名の通り風向きがくるくる変わりやすく、突風を伴っている。荒海をものともしないベテランの漁師たちでも眉をひそめ、沖に出るのを控える魔の風の季節なのである。
 遭難を起こしやすいニンガチカジマーイがようやく鎮まると、サニツの季節が再び巡って来た。ヤビジの取材も四年目に入ったその頃から、内外のメディアの空気も大きく様変わりし始めていた。本土マスコミが騒ぎ立てるくらいだから、地元紙の記者たちもヤビジに無関心ではいられない。ありふれた日常の一コマにしか過ぎなかったヤビジのサニツ風景に対して極めて敏感になり始めていた。その対外的なニュース性の高さに遅まきながら気づき始めたとも言えよう。
 本土からは新聞テレビに出版メディアまでが乗り込んでの報道合戦となった。それらの殆どが浩樹が最初の年に使った幻の大陸・ヤビジのネーミングを採用していたのである。カツオ節にたかる猫みたいなもので、右を向いても左を見ても幻の大陸のオンパレードなのだ。


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