潮が干いて島が浮上するまでのあいだ、女子供は家から用意して来た弁当を開き、笑いさざめきながら舌鼓をうつ。男たちはそれぞれの船の甲板から竿を出し、釣り糸を垂れるのが宮古や池間島の人々のサニツの過ごし方らしい。環礁の周りではカーエーの仲間のマーエーやエーグァー、アーガイやイラブチャーなどブダイの仲間、タマンやミーバイが面白いほど釣れるし、ヤビジが浮上して来るまでの待ち時間を釣り三昧で費やすのもサニツならではの愉しみの一つなのだそうだ。
男たちに交じって浩樹も見様見真似で釣り始めることになった。竿や餌は新栄丸の船主である池間信良が用意万端整えてくれていた。信良はいつか島の船溜まりで浩樹がヤビジのことを訊ねた漁師の次男坊だ。島へ通ううち顔馴染みになり、何度か沖釣りの取材にも同行させてもらっている。言葉遣いや所作には少々乱暴なところもあるが、気性のさっぱりした海の男だ。
気がつくと遠くに近くにこっちの船と同様、釣りに忙しむ人たちの姿が臨まれる。ウリヒャーと向こうの船でもこっちの船でも男たちの掛け声が盛んにかかった。額に大きな瘤の突き出たアオブダイやチヌマン、トカジャーが釣り手の竿を次々としなわせている。弁当を食べ終わった女たちの中にも、男に引けを取らない釣り上手が現れるところはやはり海の民である。
顔を紅潮させ、胸のふくらみをはみ出させんばかりに船上を動きまわる女たちの姿は生まれたての赤ん坊みたいにほほえましくもあれば、ぞくぞくするほどエロチックにも見える。サニツの醍醐味に人々は有頂天なのだが、愉しみはこれからがいよいよ本番らしい。
潮の干き具合を見計らって島への上陸が始まった。環礁を遠巻きにして待ち構えていた船団の舷側から、手に手に長い柄のついたトギャだの岩を起こしたり貝を剥がしたりするのに使うスキ棒を持った男たちが浅場へ向けてひらりと飛び降りる。浅場とは言っても水深はまだ充分に腰の高さまであり、上陸の時点で下半身びしょ濡れになった。浩樹が履いてきた長靴などは何の役にも立たない。
男たちの腰には竹で編んだ魚籠(ビク)や網袋が結わえつけられている。姉さんかぶりや麦わら帽子の女たちは背負い(しょい)カゴをしょって後につづく。背負いカゴの柄はクバの繊維で丈夫に編まれている。
女たちの下半身も男たち同様ずぶ濡れになったが、誰一人そんなことを気にする者はいない。どの顔もどの眼も子供に返ったような喜色にあふれ、輝いている。
女たちが腰をかがめ、澄み通った海水を手ですくって三度うやうやしく拝んだ。浩樹は脇で早速シャッターを切り、メモを取り始める。海水をすくって拝むのをミナンガパナと呼び、荒波を鎮めてくれる海の神さまへ感謝を表しているのだそうだ。ほかにも種々の厄払いの意味があるのだという。
池間島に伝わるユガタイ(民話)によると、むかし島に美しいけれど気位の高い娘がいて、殺到する貰い手をありったけ断ってばかりいた。するうち娘のからだに変化が現れ始めた。両親が不審に思って腎ねたところ、夜な夜な娘の寝間に身なりのいい男が通って来るという。両親が娘を説き伏せて気づかれぬように男の髪に針を刺させてみると、何と翌日、針に通された麻糸が海のそばの大きな洞穴に続いていた。中には怖ろしげな大蛇がとぐろを巻いていて、眼に針が刺さり、大層苦しがっていたという。それから池間島の女たちは、サニツの浜降り遊びを始める前には必ず潮水を海の神さまに捧げて身を清め、厄払いする慣しになったそうだ。
一年間、待ち続けた者らの歓声が広い環礁のあちこちに響いた。どの女もどの男たちも足元は等しくゴム草履かゴム長靴、或いは地下足袋姿である。潮水が入ろうが濡れようが一向構わずバシャバシャ歩いてゆく威勢のいい後ろ姿。一番乗りして人より良い獲物を探し当てようと駆け出す者までいる。
いやいや、こんな広いヤビジだ。何をそんなに急く(せく)ことがある、一日ぐらいではとてもとても採りきれない量の貝がそこらじゅうにザクザクあるんだからと落ち着き払い、滅多には拝めぬ幻の島の景色を堪能しながらゆるりゆるり歩き出す者など、浮上した島の上はどこも蜂の巣をつついたような騒ぎである。
さあ、年に一度の、待ちに待ったサニツの始まりイ始まりイ。そこにもここにも宝の山ならぬ貝の山がザクザクザクザク。見つけてくれと言わんばかりに無防備に採り手の眼に飛び込んで来る。腰をかがめ、一度採り始めたら貝を拾うことほど面白いものはなかった。
とにかく夢中になって採り続けた。取材も半ばそっちのけである。船から下りる間際に信良から網袋を二つも渡され、
「あんたも貝採りやれ、写真うつしてるだけでは暇だろう」
言われたときは正直、浩樹は女子供みたいに貝採りなんかできるかと心の中で馬鹿にしかけた。それから数分経たないうちに眼を皿のようにしながら夢中になっている自分がいた。そうなるともう他人のことなど構っていられない。他人がどんな獲物を、どんな風に採っていようが関知してなどいられない。
眼をつぶっていても足元でありとあらゆる貝がここにいるぞ、ここにいるぞと囁きかけてくれるような、ヤビジは宝物のごっそり唸る海原なのだった。大人たちに船から抱き降ろされた幼い子らでも何の苦もなく獲物を見つけることができる。砂地にめり込んだり、岩蔭に隠れたりしていても海の民の血を引く子らの眼は本能的に鋭い。
手のひらに余るほどでっかいサザエやタカセ貝、角の生えたスイジ貝、夜光貝に種類豊富なタカラ貝などを難無く採ることができる。タカラ貝は多彩な紋様の甲羅が自然の妙を得て美しく、古代中国では通貨としても珍重されたらしい。ためにその貝の採れる南の海に人々は非常な憧れを抱いたそうだ。
ウニやタコを巧みに採る人。採ったその場でウニの実を潮で洗って旨そうにすする者もいる。潮が干いて生まれた透き通るラグーンの中に逃げそびれて泳いでいるイラブチャーやヒカーも網で簡単に掬うことができる。
潮に濡れそぼり、ラグーンの間を勇躍走りまわる島の子供たちの生き生きとした姿、そのはしゃぎようといったらなかった。
来年は必ずトモミと浩秋を連れてこようと浩樹は心に誓った。そうだ、きっとそうしよう、浩秋の喜ぶ顔が今から見えるようだ。
足元の貝ばかり探して歩いている間にいつの間にか、浩樹は色とりどりの枝サンゴがびっしりと生い茂る林に踏み入っていた。辺り一面ほんのりと薄化粧したようなピンク色がかったサンゴや、深紅や淡紅色、緑の濃淡など眼も覚めんばかりに鮮やかな衣装を身にまとったサンゴが織り成す幻想的な世界だ。
竜宮への入り口だよ、と言われればなるほどと頷いてしまいそうな豪奢な眺めだ。
足の裏でおっかなびっくり踏み締めるサンゴのやわらかな感触には胸が疼かないでもないのだけれど、周囲を見廻しても誰一人そんなことを気にかけている風がない。今は誰もが神々から贈られた年に一度の海の幸を手に入れることにのみ熱中しているのだ。
そこらじゅうのサンゴというサンゴが全部、見事なアートの林になっていると言ってよかった。足の裏でポキポキ折れ、崩れる繊細精巧なサンゴ細工の林の中によく肥えたウニやサザエ、珍しい紋様のタカラ貝が見つからないではなかったけれど、ここからは早く脱出せねばと焦った。
振り返ると、船団を組んでいっしょに来た船の漁師や女たちの姿がはるか後方へ豆粒みたいに退いて見える。干潮の終わるまでたったの二、三時間の猶予しかない束の間の潮干狩りだから同乗者を見失ったら事だ。いわんや乗って来た新栄丸から遠く離れ過ぎて迷ったりしようものなら、戻る時になって慌てふためくのは眼に見えている。浩樹は池間信良たちの姿を求めて踵を返した。
「ニゴー好きか?」
戻って来た浩樹の顔を見るなり信良がニヤリと笑って手招きした。
「ニゴーって?」
「知らんのか、シャコ貝のことだよ」
「好きだよ、好物だよ、酒の肴にも旨いしね」
浩樹が応えると信良は、じゃあ、捕って来ようと顎をしゃくった。この場所から南へ二十分ほど歩けばニグービジといってシャコ貝の沢山採れる干瀬があるという。
「急がんと、潮が満ちて帰れなくなるぞ」
信良に半ば脅かされながら自分では方角もわからない環礁づたいを歩いて行った。
ニグービジにも地元の主婦らしい先客たちが数人いて、賑やかに笑いさざめきながらシャコ貝採りに興じていた。島訛りの早口で喋るから浩樹の耳では殆ど聞き分けられない。
女たちはどっと笑い交わしたかと思えば、ぶつぶつ独り言を呟きながら小腰を屈めて熱心に岩の間を覗き込む。下履きが見えようが、誰はばかることのない恰好で尻を尖らせる者。居た居たと我先に獲物に飛びつく女たちの手つきには負けそうだったが、信良にコツを教えられながら浩樹もシャコ貝を少しは採ることができた。
シャコ貝の口は波型の美しい曲線を描いている。真っ白に磨き立てられて床の間の置物になった姿などは気品高く、海底の女王の如き威厳に満ちているが、生きている貝に近づく時は細心の注意を払わなければならない。貝が砂地や岩の間に蓋を閉じておとなしく隠れていればよいが、耳まで裂けたような口元を開けている時は危ない。二十センチ三十センチのシャコ貝はざらで、大きなものになると口の端から端まで四、五十センチから一メートルにも達するお化け貝が歩いている足元にあんぐり口をひらいているのだから。気づかずに足を突っ込んだりすれば大怪我の元だ。
片腕片足を食いちぎられる虞れも充分にあるのだから用心しなければならない。幸いと言うか、残念なことにと言うか浩樹の採ったシャコ貝は全部が体長二十センチ弱の小物ばかりで、それでも腰にぶら下げた網袋がいっぱいになるのにさほど時間はかからなかった。
「そろそろ行くか」
信良に声をかけられて浩樹が顔を上げると、ニグービジの向こうから満ち潮が勢いを増しつつ押し寄せて来ている。貝採りに熱中していて全く気づかなかったが、潮がすでにさし始めている。そんな時刻になっているのだ。
眼を上げて驚いた。水平線のはるか彼方まで荘々と広がっているかに見えていた環礁が少しずつ消えている。沈下し始めているのがわかる。
南島ではよくあること、起こりがちな事故がこれなのだそうだ。貝採りに夢中になるあまり、満ち潮の時刻に気づかず溺れ死ぬ。周囲をすっかり水に取り巻かれていることに気づかないのだ。それくらいに熱中させ、虜にしてしまうものが貝採りにはある。いや、貝採りばかりでなくウニ採りにもタコ採りにも人を酔わせ、夢中にさせる何かがあって、宮古群島だけでも年に十数人がその最中に生命を落としているという。
「危ない、危ない」
浩樹は口の中でぶつぶつ呟く。
足元は早くもひたひたと流れ込んだ海水にまんべんなく浸され始めていた。ニグービジの外では満ち潮がざわざわと白波立ち、こっちの方へ流れ込もうとして盛り上がっている。轟々という潮鳴りが耳に不気味に聞こえた。急かされるように信良の後に続いて新栄丸の停泊している方角へ引き返した。先程まであんなに賑やかだった貝採りの女たちもいつの間にか辺りから姿を消していて、慌ただしい人の流れが互いに叫び交わしながらそれぞれの船の方へと急いでゆく。
帰りの船上から眺めわたすと、すっかり潮に没した大環礁地帯はもはや漁師たちが口々に言うところの大陸はおろか島の面影とてなく、何もかもが水面下に消え果てていた。夢中になって過ごした数時間がうそのように、そこにあった陸地がことごとく消滅しているのだ。
船上では採れたてのタコやウニを捌いて味見する者がいた。背負いカゴの中から不格好な頭を覗かせたタコが、甲板にくねくねと這い出す。それをキャッキャッと囃し立てながら子供たちが元へ戻す。
港まで退屈する暇もなかった。
|