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 夏休みを英男は毎日のように海で泳ぐ。それが、英姫(ヨンヒ)の出現でさらにはずみがついた。英男はしばしばチャムスと会った。
 さまざまなことを、母子(おやこ)は教えてくれた。済州島はそれ自体が一つの火山島で、最高峰の漢拏(ハルラ)山は冬には冠雪するという。海岸線は変化に富み、滝の流れ落ちる断崖や奇岩がある。洞窟があり、いたるところに泉が湧いている。春には桜も咲くし、花は年中咲き乱れる・・・。楽園、という言葉を英男は想起した。蜜柑が栽培され、風が強いので家には石垣がある、といえばこの岬に似ている。一行は済州島南部の星崖里(ソンクエリ)という漁村から来ているという。砂に書かれた星崖里という文字からして、さだめて美しい村と想像された。
 海女たちの声が大きいのは、潜水によって耳を悪くするからだという。まくしたてるような調子は済州島弁(チェジュマル)の特徴らしい。済州島弁(チェジュマル)では浮樽のことをタンポといい、網籠をマンシリという。磯金はピチャン。磯金(ピチャン)の根元の孔に黒い紐を通している。紐を手頸に巻きつけて潜るのだが、紐は髪の毛でできているという。
 独特の磯着はソジュンギといい、済州島のこどもはこれを普段着にし、一年中着ている。ソジュンギにはおしゃれをし、刺繍を入れることもある。英姫のソジュンギの肩紐に、黒い小さな縫い取りがあることに気づいていたが、龍の刺繍だという。英男は龍というよりタツノオトシゴに似ていると思った。
 海女のことはチャムスともヘーニョともいう。溶岩台地である島の土地は痩せているので、昔は海藻を畑の肥料とした。だから島には海女が多いのだという。これがそうだといって英姫が見せたのは、汀によく打上げられるホンダワラだった。いまは鮑や栄螺を採って収入(みいり)がよいのでそうでもないが、海女(チャムス)は古来より賤業視されていたらしい。理由を訊くと、頬を染めて「裸になるから」と答えた。朝鮮は礼を重んじる国で、人前で肌身を見せるなどもってのほかだという。磯着(ソジュンギ)を着ているのに? と訊くと、昔は裸で潜っていたのだといって、また顔を赧らめた。
 チャムスと会っていることにうしろめたい感情があった。それを英男は、会っていることを秘密にしているからだと思っていた。が、そうではなく、英姫の磯着(ソジュンギ)の下で窮屈そうにしている乳房や、鞣し革のような光沢を持つ大腿のせいだということに、このとき気づいた。頬が燃えるように熱くなったが、英男はこれを焚火のせいにした。
 
 土用波の打ち寄せるその日、英姫から波切碆の砂浜に来るよういわれていたので、約束の刻限である日没前に出向くと、浜辺に色彩が氾濫していた。色とりどりの民俗衣装(チマチョゴリ)をまとったチャムスたちである。なぜか英姫だけは白い簡単服を着ていた。
 座の中心に金(キム)親方がいた。コップを手にし、赧い顔をしている。英男は金親方の隣に座らされた。幸太が届けてくれた桑の実と、朝から一日がかりで採った木通(あけび)や野葡萄を、英男はいたしかたなく親方に渡した。英姫に渡すつもりでいたのだ。
 金親方は海坊主のような顔の、そこだけ優しそうな細い眼をさらに細め、
 「英男氏(ヨンナンシー)も、どうぞ韓酒(マッカリ)を飲みなさい」
 コップ酒を勧められた。甘酒のように白濁している。断るのも気がひけたので、飲むまねをした。一升瓶をさげた英姫が金親方にきわめて丁重に酒を勧めてから、にこにこしながら英男に、今日はお祝いの日なので朝鮮では犬の肉を食べる、と告げた。
 英男は目の前の鍋を見て、怖気(おぞけ)をふるった。
 「犬の肉ないとき鶏てもよいてす。故郷(コヒャン)てはたいてい豚、使います。金先生様(ソンセンニム)が、鶏を用意してくたさいました。今日は金先生様の誕生日てあります。たから、みんな着飾っているのてす。これから参鶏湯(サムゲタン)の鍋、みんなして食ぺます。英男君(ヨンナンニー)もたくさん食ぺなさい。韓酒(マッカリ)も飲みますか?」
 英姫の勧めなので、コップの半分ほどを空けた。箸をつけると、参鶏湯はどこか土っぽい味がした。高麗人参が入っているので精がつくらしい。
 英男はチャムスたちから歓迎されているという自覚があったが、好意だけではない何かを感じてもいた。それは英男が巡査の子だからのようであった。家の職業を問われて答えたとき、「おお、巡査先生様」と英姫の母親は驚いた。チャムスたちの態度に卑屈なものが感じられる。われわれと会って巡査先生様に叱られないか? 会っていることを告げているのか? などと何度も訊かれ、そのたびに否定すると、全身で安堵のようすを見せた。
 この、見えない壁に隔てられているような疎外感。だが、それはチャムスに限ったことではない。串の誰もが、たとえ幸太であっても、どこか隔たりを感じさせた。しょせん自分が他所者(よそもの)であり、流れ者だからだ。ときおり年長者らしく、姉めいたふるまいを示すことはあっても、英姫だけは遠慮のない態度で接してくれた。そういえば、英姫も自分も、この地にあっては他所者なのだった。
 ひときわ高く、笑い声が響いた。英姫の白い簡単服姿が仲間内で話題になったらしい。英姫を指さして、口々に何か言い合っている。母親の説明によれば、急に背丈が伸びたので、下裳(チマ)が合わなくなったのだという。
 島に帰ったらすぐにも新調するのだといって、英姫は胸をはった。それで、またみんなが笑った。頬を上気させた英姫は、いつもより稚なく、また可愛く見えた。英男は至福を感じた。
 日輪の最後の輝きが、海に一条の黄金の帯を描いていた。風がわたり、背後の松林に松籟が立ち騒ぐ。いつしか夕凪となって、潮騒も瞑想的な響きを奏でていた。
 陽が沈み、あたりが茜色の残照に包まれる頃、鍋をつつき、韓酒を酌み交わしたチャムスたちは、誰からともなく歌い、踊りはじめた。歌いながら、手を振り、肩を押し出すようにして、体全体で拍子を取る。誰かがイヤドッサ、イヤオッサという合いの手をいれる。金親方が鍋の蓋を叩いて拍子をとる。数人がひとしきり歌い踊ると、別の何人かが立ちあがる。
 英姫が立った。細いが、きれいな声で歌う。英姫は若いだけに声も澄んでいて、所作も優美だった。宙を舞う、漁でささくれた手がことのほか優しく見えた。見惚れていると、最年長の姜(カン)さんが英男の腕を取るようにして誘う。半ばむりやりに英姫の横に立たされた。微笑した英姫の、前歯の白さが目にしみた。
 見よう見まねで踊る。初めは恥ずかしく、気が重かったが、しだいに楽しくなる。酔っているのだ、と思った。歌は櫓漕ぎ唄のようで、勇壮な調子だが、どこか哀調がある。それは、歌というものが本来持っている寂しさなのかもしれなかった。
 突然、朴(パク)さんが英男に抱きついて「哀号(アイゴ)!」と大声で喚く(わめく)。強い力で抱きすくめられ、朴さんは激しく泣き喚く。何人かが朴さんを引き離しにかかった。英姫の母が大声で語りかけた。慰めるように、叱るように繰り返すうち、朴さんは砂浜に泣き崩れた。
 英姫は母親に駆け寄って、耳元に囁いた。何か言い合っていたが、戻ってくると、英男の腕を取った。
 チャムスたちの声がしだいに遠のく。英男はまだあっけにとられていたが、英姫の説明でいくぶんかは納得できた。去年の四月三日、済州島で虐殺騒動が始まり、たくさんの島民が殺された。まるごとなくなった村もあるという。朴さんの息子も、殺戮の犠牲になったのである。なぜそのような大惨事が起きたのか、英姫の説明は要領を得なかったが、
 「息子さんに英男氏が似ている、といって朴さん泣いたのてす」
 といわれては、英男は返す言葉もなかった。
 ふたたび陽気な歌声が聞こえてきたが、まもなくそれも潮騒にまぎれて消えた。
 
 浜づたいに歩いているうち、陸軍桟橋のところまで来ていた。英姫は額に汗の玉を結んでいる。桟橋の上に腰をおろした。ほてった頬に夜風が心地よい。
 灯台の周辺は豊予要塞といって、断崖を割りぬいた砲台跡、迷彩塗装された弾薬庫跡などがある。桟橋も要塞の遺物である。工事中に事故死した兵もいたし、戦争末期には何度も空襲を受けた。P五一ムスタングのロケット弾で灯台官舎の半分が吹っ飛んだ。幸太の父親がグラマンに機銃掃射されたのも、ここである。戦争の爪痕を残すこのあたりは、いまでもめったに人が来ない場所であった。
 そんな、堀内の受け売りである説明を、英姫は黙って聞いていたが、英男は喋るのに飽きて、桟橋の突端まで行ってみた。橋脚の喫水部分が蒼白く光っていた。小さな波が蛍光しているのである。英姫に教えようとふりむいて、英男は息をのんだ。波打ち際もまぶしいエメラルド色に輝いている。夜光虫だった。
 英姫のそばに戻り、英男は平たい石を拾って海へ投げた。石は海面を何度も跳躍し、青い燐光を点々と残しながら消える。ため息が出るほど美しかった。綺麗だといって、英姫は平たい小石を拾って英男に手渡す。二、三度海面を叩いただけで水没することもあるが、何度も跳ね、跳ねる間隔をリズミカルにつめながら遠くまで飛んでゆくと、英姫は手を叩いて喜んだ。
 波が強くなり、波打ち際の夜光虫の煌めきが、億千の星を撒き散らしたように豪奢になってきた。突然、英姫が喉の奥でくっくと笑いながら衣服を脱ぐ。脱いだものを浜菊の群生の上に投げ捨てると、万歳に似た格好で海に駆け込んだ。虚をつかれ、英男はただ立ち尽くす。
 「いっしょに泳ご」
 手招きする英姫の裸身も、星でできた羅(うすもの)をまとっているように発光している。英男は眩暈を覚えた。
 遅く帰宅して、予期したとおり父親に怒鳴られた。いくら怒声を浴びせられても気にならないのが、われながら不思議だった。英姫とのことでにわかに世界が変わったように感じられていた。海の中でどちらからともなく抱き合ったが、頬に押しつけられた乳房の感触がまだ残っている。唇が重なった。その柔らかい感触は、海月(くらげ)でも海牛(あめふらし)でもない、英姫の唇である。幸太や、進吉、藤井良平の顔が浮かんだ。あれはただ塩辛いだけだった。しかし、自分は一足先に世界の秘密を握ってしまったのだ。ただ、英姫がふいに英男をつきとばすようにして砂浜に駆け戻ると、衣服を拾い上げ、裸のまま走り去ってしまったのが、ひどく気になっていた。
 翌日も、英男はこっぴどく叱られた。チャムスたちと浜で踊っていた、と下組の区長が注進に及んだのである。桟橋でのことがバレなかったのが救いだった。英男はめげることなくチャムスの磯に出かけた。ところが、なぜか英姫が口をきいてくれない。話しかけると、逃げるように視線をそらすのである。何を怒っているのだろう、と英男は不安になった。衣服を抱え、前のめりに砂浜を走り去る英姫の、可憐なお尻が憶い出され、夜もなかなか寝つけなかった。
 だが、英姫の態度は三日と続かなかった。理由はいわなかったが、恥ずかしかったのにちがいない。朝鮮は儒教の国で、なによりも礼節を重んじ、人前で肌を見せることを恥じる、というのを英男は憶い出したのである。


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