海洋文学賞部門佳作受賞作品
『人魚のいた夏』
宇神 幸男(うがみ・ゆきお)
本名=神應幸男。一九五二年愛媛県生まれ。宇和島市役所勤務。
一九九〇年、「神宿る手」(講談社)でデビュー。一九九七年、七冊目の著書を最後に断筆。二〇〇三年、創作を再開。二〇〇四年、第一〇回鳥羽市マリン文学賞入選。
一
海が夏の色に変わってきた・・・、窓の向こうの伊予灘を見ながら英男は思った。新学期の席替えで窓際の席にきまったのは幸運だった。串小学校の校舎は、岬の狭隘な段丘にへばりついた集落のいちばん高いところに、狭い校庭を擁して建てられている。だから、海は茫々と俯瞰される。
陽光が波間に砕け、その銀色の反射は、獲れたての太刀魚を想わせる。白銀に輝く海上に、一本釣り漁の漁船が点々と見える。黒潮に乗って回遊する鱸(すずき)、鯵(あじ)、伊佐木などを釣っているのである。
手前の入江にも小舟が何艘も浮かんでいる。楫子(かじこ)があわただしく命綱を引き上げると、舟縁(ふなべり)に白い帽子の頭が浮上する。分銅海士(ぶんどうあまし)が鮑(あわび)採りをしているのだ。舟は竈(くど)で割木を焚べ(くべ)、淡い煙をあげている。暖を取る海士は、焚火の前で石像のように動かない。
汀(なぎさ)に近い海上にはいくつもの樽が波間に揺れ、樽の傍らに樽海士(たるあまし)が浮いてくる。海士は獲物を樽に吊り下げた網籠におさめると、樽の上に腹這いになり、しばらく休んでから、また海中に身を投じる。潜る時間は分銅海士より短く、およそ一分余り。
「田中、どこを見とるんだ!」
叱声が飛んできたので、英男は我に帰った。担任教師の顔に怒気はなかった。
「黒板の詩を読んでみろ」
眩しい海を眺めていたので、眼がくらんで黒板の文字が読めない。目を凝らすと、長い詩が黒板いっぱいに書いてある。
「打ち煙る浪のしぶきをよそにして貝殻は眠る」
英男は音読をはじめた。担任の小島先生は、岬の中ほどにある伊方村出身の詩人高橋新吉に傾倒している。同郷の大先輩でもあるからだ。六年生になった新学期早々、「るす」という詩をクラス全員が暗誦させられた。わずか三行の詩だが、灯台守の息子の幸太だけは憶えることができなかった。
幸太は隣の席で居眠りしている。起こしてやろうと思って、
「貝殻よ海辺の虹よ美しい夢を見つづけるがよい」
声をいちだんと張り上げて朗読を終えた。幸太は顔を上げ、きょろきょろとあたりを見まわし、手の甲で口の涎(よだれ)をぬぐう。周囲に笑いが起こった。教師は幸太が居眠りしてもめったに注意しない。夜遅くまで働いていることを知っているからだ。串のこどもたちの大半はそうである。だが、居眠りするのは幸太くらいのものだ。
田中英男は駐在所巡査の子である。巡査は村では名士で、村人からは「先生」と尊称される。英男は自分が教師から贔屓されていると、うすうす気づいていた。そういうことでは、藤井良平も同類だと思う。良平は三崎中学の校長の息子で、勉強もよくできた。幸太は勉強はさっぱり、家で教科書を開くことがないのだから、それも無理からぬところだ。
授業が終わると、英男は幸太を海に誘った。
海へは傾斜地を降りなければならない。斜面のほとんどは段々畑だ。かつては橙(だいだい)とよばれる夏柑も栽培されたが、戦争が始まると芋と麦にかわった。戦後四年、ぼつぼつ夏柑も見られるようになったが、まずは杉の防風林を植林しなければならない。だから、斜面がいちめん蜜柑畑になるのはまだまだ先のことだ。
畑の石垣の石は、浜から担ぎ上げたものである。半島の地質はほとんどが緑泥結晶片岩からなり、この、いわゆる青石は、防風・防潮の石垣や道路などに用いられる。冬は北風が強く、夏は南からの突風や台風の襲来がある。石なくして岬の生活はありえなかった。
段々畑を一段ずつ跳び降りてゆけば、あっというまに浜にたどり着く。だが、見つかれば鍬で打たれるから、二人は二尺幅の迂遠な小道をたどった。
黍(きび)や野菜を植えた狭小な畑まで来ると、下は浜の集落である。石垣塀に囲まれた軒の低い家ばかりで、ギシという三尺幅の石段の小道が網の目のように民家をつないでいる。
岬の民家は藩政時代から十五坪と決められていたので、どの家も小さい。風害に備え、屋根にもたくさんの石を載せている。母屋のすぐ隣が便所で、家によっては便所の隣に牛駄屋を構えている。
幸太の家の前に来た。鍵など掛ける家はないから、幸太はすぐに暗い家の中に消えた。便所の臭気が目にしみるので、英男は外で待つ。
担い(かるい)籠(かご)を背負った老婆が、英男に一礼して通り過ぎていった。苛酷な農作業で腰はほぼ直角に曲がり、お辞儀をすると、頭は地に触れんばかりになる。駐在先生の子ということで、英男は顔を知られていた。また、串のこどもで長髪にしているのは、英男と藤井良平くらいのものだから、これも目立ったし、色が白いので一目で地元の者ではないとわかるのだった。
しばらくして出てきた幸太は、食べろ、と芋団子をさしだした。甘藷(さつまいも)の粉を水で練り、丸く、あるいは棒状にして蒸しあげたものだが、黒砂糖を餡(あん)にしたものや、砂糖で甘味をつけたものは英男の好物だった。囓ると、砂糖を入れてないらしく、少しも甘くない。英男は失望した。
磯には焚火の煙がたなびいていた。焚火の前に六尺褌(ふんどし)一丁の、級友の進吉がいた。流木の棒っきれで薪の炎をかき立てている。串の男の子たちは学校が退けると、数人が連れだって磯に潜る。これを「潜む(すむ)」というが、低学年は主に天草(てんぐさ)を、上級生は鮑や栄螺(さざえ)を採る。舟を持たないので陸づたいに磯場に行き、背負ってきた畚(もっこ)の中から割木を集め、まずは火を焚く。進吉は下級生の指導にあたっているが、中学生になれば一人前の分銅海士として潜む(すむ)ことになる。
「進吉、もう来とったんか」
幸太が声をかける。
「おお、ぐずぐずしとったら、ほかの組の者に磯を取られるけんな」
串は小集落ごとに坂組、北組、中組、下組と分かれている。各々の組の仲間と連れ立って潜む(すむ)のである。串の男は大半が海士をやっている。幸太の父親も元は腕のよい海士だったのだが、終戦の年の七月、黄金碆でグラマンF六Fヘルキャットの機銃掃射を浴びた。舟の竈(くど)で暖を採っていたところを撃たれ、海に飛び込んだが、十二・七mm機銃弾を右大腿部に受けた。
危うくヒロシマ行きになるところだった。が、弾が貫通したのが幸いし、奇跡的に治癒した。ヒロシマに行く、とはこの地では彼岸に行くこと、つまり死ぬことで、たしかに広島は瀬戸内海を隔てた対岸にある。命はとりとめたが、二度と潜む(すむ)ことはできなくなった。踏んばれないので櫓(ろ)が漕げず、一本釣りの漁もできない。
困窮ぶりを見かね、灯台の台長さんが雑役夫として雇った。だが、台長さんが自分の給料から分け与える給金では、とうてい生計は立たない。だから幸太の母親は馬車馬のように働かなければならず、その手伝いで幸太も忙しい。隣家のお宝様とよばれる肉牛の世話、養蚕農家の手伝い、畑仕事、夜の水汲み・・・。これも幸太がクラスの連中から少し馬鹿にされている原因だった。
すでに数人が、浅瀬では天草採り、深みでは鮑採りをはじめている。採った獲物は丸一組に運び、収量を記帳し、十五日勘定で代金を受け取る。それを郵便局に貯金し、学用品の購入や、修学旅行の費用にあてるのである。
薪が爆ぜて炎が熾った(おこった)。進吉は煙たそうな眼をこすると、さっと立ち、浮樽を抱えて海に向かった。眼鏡を海水に浸け、蓬(よもぎ)の葉っぱでガラスをこする。こうすると曇らないのである。
「漁港の波止(はと)のとこにでも行くか」
幸太が提案した。
漁港の石造りの岸壁は長さが五十五間もある。高さも二間強あるので、登ると眺めがよい。石垣は隙間なく組み上げられ、手がかり足がかりはわずかである。登り切ると汗をかくが、風が心地よいし、景色も一変する。
石垣の頂上部は狭いので、慎重に腰をおろす。一度、ここを走っていて、下から老人に怒鳴られた。ここでは、現役を退いた老人が網を繕ったり、海を眺めながら日がな一日よもやま話をする。年寄が怒ったのは、危ないからなのか、石垣が大切だからなのか・・・。腰をかけているくらいなら、怒られることはなかった。
「進駐軍はもう来ん(こん)がやろか。来たらええのになあ」
三年ほど前、港に鉄船に乗った米兵が来て、村の者は頭に白い粉をかけられたが、そのときチョコレートをもらったのだという。英男も同じ頃、川之石にジープでやってきた米兵から缶詰をもらった。
「もう来んと思う」
頭上に鳶(とんび)の声がした。空を仰ぐ。黒い鳥影が上空に止ったかと思うと、さっと下降する。海上を帆翔し、黄金碆の方へと飛び去った。
「英ちゃん、チャムスが来とるがよ!」
幸太が指さす方向は黄金碆のうんと手前、童女碆とよばれる小さな磯である。白い胴衣をまとった大勢の人間が浅瀬のところで潜んでいる。浜の岩陰に焚火が三つ焚かれ、暖を採っている者もいる。遠目ではあるが、いずれも女と見えた。男なら褌一つの裸だからである。岬に女の海士はいない。英男は強い興味にかられた。
「チャムス?」
「朝鮮から出稼ぎに来る海女(あま)のことや。毎年夏になると、済州島から来るがよ。戦争前から来よる(きよる)らしいぜ。下組の岡本さんの倉庫、あそこで暮らしとる」
浜がいちめん赤い花畑のようになっている。嵩(かさ)を減らすため、天草を天日干し(てんぴぼし)ているのである。海女は二十人近くいる。風に乗って、何か喋りあっている声が聞えてくる。耳障りな響きで、罵り合っているようにも聞える。が、しきりに笑い声がまじるので、喧嘩をしているのではないようだ。
「俺(おら)、お蚕(かいこ)さまがあるけん、去ぬる(いぬる)で」
幸太の母は養蚕農家に雇われて、昼のうちに桑の葉を摘み、水を打つ。その葉を刻んで蚕に与え、尻替えという排泄物の掃除をするのが、日々の幸太の仕事だった。その間、母親は夕餉の支度や家事に追われる。晩飯が終わると、幸太は一斗缶を前後にぶら下げた担い(にない)棒を担ぎ、共同井戸に向かう。雨が少なく、川らしい川もないこの土地では、飲料水は雨水を濾過した天水か、わずかな地下水にたよるほかない。水汲みは大切な仕事であり、しかも重労働だった。
「あした、また遊ぼう」
石垣を伝い降りる幸太の、傷痕(びす)だらけの坊主頭に声をかけた。
チャムスを去年は見た記憶がない。それが不可解だ。英男がこの地に転校してきたのは去年、それまでは半島の付け根にある川之石の駐在所にいた。付け根の村から突端の三崎村へ転勤したのである。岬十三里といい、伊方村出身の詩人が「象の鼻のように細長い」といったこの佐田岬半島の、端から端へ移動したわけで、新しい土地や学校生活になじめないことも多く、日々緊張していた。そのせいだろうか。
童女碆のチャムスに心残りがあったが、一人で近くまで行く気にはなれなかった。
帰途、ふたたび段々畑を登る。登りはきつい。しかも、南斜面の段々畑は太陽熱を石が吸収しているから、ひどく暑い。どっと汗が噴いてくる。ときどき、足を止めて息をつがなければならない。見上げると、天空を巨大な石の壁が蔽い、ふりむけば、服下に紺碧の海がある。そうして何度目かに足を止めたとき、上から人が降りてくるのを英男は認めた。担い(かるい)籠(かご)を背負った老婆でも、担い棒で肥桶(こえたご)をかついだ老爺でもない、空から舞い降りてきたのは一人の少女だった。
白い胴衣、頭も白い布で覆い、水中眼鏡を額に上げている。チャムスである。なぜか左手にも水中眼鏡を持っていた。英男は金縛りにでもあったように立ち尽くした。離合の際はどちらかが石垣にへばりついて、相手を通さなければならない。登りが優先だが、荷の軽い者が譲るきまりでもある。英男が譲るかたちになったのは、少女の降りてくるのを呆然と待ったからである。
村の女は人前でも平気で半裸になる。老婆の垂れて皺だらけの胸乳や、乳呑児に乳を与える女の、静脈(あおすじ)を立てて破裂しそうな乳房など、日常的に目にする。だが、英男はどぎまぎした。左肩にかける一本の肩紐がついた、襦袢と猿股を一体にしたような木綿の磯着は、少女の肌に密着し、呼吸のたびに盛り上がる胸や、締まった腹部の形をはっきりと見せていたからである。
少女は二、三歩前で歩みを止めると、一礼し、石垣に躰をすりつけるようにして歩み過ぎていった。このとき、少女の肌の冷気と、熱い息を感じたように英男は思った。少女はふりかえると、「カムサハムニダ。・・・ありかとこさいます」と微笑した。英男は声もなく、棒のように突っ立っていた。
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