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第9回海洋文学大賞受賞作品集

 事業名 海洋文学大賞の実施
 団体名 日本海事広報協会 注目度注目度5


ブイロボット登場
 「のじま」と「おじか」を動かす人と観測員合計百十人。その家族の心配や悩みも乗せて、三週間の航海を各船が年に五回ずつ繰り返す。体調不良のまま船に乗る人もいるという。それなのに何も言わない人たちをもどかしく思いながら下船後、私は機会あるごとに
 「人間をもっと大切に。国家的にも大きな損失だ。待遇と働く場の改善を」と声をあげた。
 「あの苦しみと縁の下の努力を知ってほしい」と、青臭さと僭越を承知で書き散らした。
 乗船中、山形さんは私の意図的な誘導質問を「定点船はいい方です」と笑い飛ばした。
 グチを聞きたかったのに「啓風丸や凌風丸は一度航海に出ると何十日も戻りません。年間航海日は二百日です。富士山測候所も大変だと聞いています。私が経験した無人の鳥島もすさまじかったですよ。足元の悪い、暑い島での観測機器や送信機、発電機、燃料油の陸揚げは重労働で神経も使いました。万一、壊したら何をしに島まで来たのか分かりませんしね。観測だけなら楽なもんですよ」
 「水汲みひとつ取っても、当番は急斜面を下り、全員が使う生活水を山腹の観測所まで担ぎ上げるんです。水を汲むとき、冷たい水を腹いっぱい飲み、水と水場を汚さないように使って体を拭う。そんなことが辛い水汲みの役得、楽しみの一つでした。小人数で住居や機器の補修、撤収、なんでもやりました」
 別の観測員は「私たちの苦労がなくなり、全員クビになるときが待ち遠しい。若いもんがかわいそうだ。後継者探しも大変なようだし」。その口で「でも小型船での遠洋漁業や昔の軍隊よりましか」と自分を慰める。
 気象庁観測員は三週間の海上勤務の後、資料の整理や観測機器の整備などに追われる。海上保安庁の乗組員は帰港後も緊急救難出動や訓練、船の当直、管理など厳しい勤務が続く。加えて、給料が安いので両庁とも若手がすぐに辞めてしまう。その補充もままならない。私の船でも保安庁組で急に辞めた人がいて、年配の「陸上勤務の次長さん」がピンチヒッターで乗り組んでいた。
 実情に同情する私に「合理化を推進し、関係者の労苦と悩みを軽減するため、日本海などで自動観測機器の実験を重ねているはずだ」とベテランが小声で教えてくれた。そして生まれたのが自動観測システムである。
 洋上に無人の機器を浮かべてのブイロボットが実用化され、昭和五十六年(一九八一年)、「なんてー」は廃止される。ロボットも観測は三時間ごとに行う。海が荒れると内蔵スイッチが切り替わり、一時間ごとになる。観測結果は無線信号で気象庁に自動的に送ってくる。電波事情で符号が乱れたときは、遠く離れた本庁が確からしいものに修正・判定する。だがその判定結果が正しいかどうか、私には疑問が残る。
 気象庁の人は電波の異常現象の原因とされる太陽の黒点情報に敏感だ。年賀状に今でも「今年は黒点が云々」と記されたのが届く。黒点の多少による磁気嵐は送受信の乱れにつながるとされる。私の乗った「のじま」でも電信が乱れて気象庁に届いたことがあった。「太平洋の真ん中で砂嵐はおかしい」と船に問い合わせがあり、笑い話で済んだ。「砂嵐情報」は人間がいたから確認できたのである。
 気象観測は人による目視観測が重要である。雲量、雲形の観測は写真、電波では限界がある。自動機器観測は目視、手動によるものとは差が出る観測対象もある。雨が降ったのに山中の自動観測器が野生動物に荒らされて「雨量ゼロ」なんて話を笑ってはいけない。
 だから人による観測を「続けろ」とか「止めろ」とか短絡するのではない。機械化を推進し、人間の苦労を軽減しながら、担当者の待遇、福祉厚生面での配慮を願うのだ。乗船手当や年金などで多少の配慮はされているが実態に見合ったものとはほど遠いと思う。
 世界中のデータが豊富に入り、気象衛星の利用、電算化で予報も観測態勢も向上した。巡回観測船「啓風丸」などの場合は、移動しながら水温、波浪などを船からの指示通り機械が観測をする。ジンさんが嵐の中でロープを海中に投げ、手で引き揚げた苦労は軽減された。廃油ボール採取、気球放流なども機械化され、データ整理なども楽にはなった。
 富士山測候所も最近、自動機器に観測・送信を任せ、無人になったと聞く。しかし船や高山、島などの無人・ロボット化で以前とは違った新しい仕事が増えた。機器の整備、交換、保守管理などはやはり人手に頼るしかない。その作業は以前より苦痛は減ったようだが内容は複雑、多岐にわたるらしい。
 「啓風丸」などの居住性はだいぶ快適になったというが一航海四十余日〜六十数日、年間数回の出動は昔と同じである。船の揺れも、荒れる海の歓迎も、そして長期留守家族の人数も苦労の中身も変わらないという。
 
帰港
 「陸が見えましたよ」と操舵室で陣頭指揮の福迫船長。午前三時半、朝もやの中に城ケ島のシルエットがくっきりと浮かんでいる。こざっぱりと着替えて、ニコニコした顔が両側のデッキに並ぶ。
 「やっと着きましたね」。南極往来三回という河野栄一操機長(五一)ほどのベテランでも、帰港のときはなんともいえないと言う。
 「帰港出発準備」の号令がスピーカーで流され、定点で「おじか」にバトンタッチしてから二十九時間。停船観測を続けながらの往路と比べ、帰りは追い風と黒潮の助けを借りて四時間早かった。(略)
 観測員と乗組員の願いは「もう一隻船を増やして三交替制にしてくれたら」だった。長い目で見れば、国の費用もそんなに増えないだろうという。(略)勉強できない悩み、子供の教育に手が回らない悩み、苦しみは改善されないまま二十日後にはまた定点に出て行かなければならない。ことしだけでもあと四航海ある。
 羽田沖に着いた記者は十三人の観測員とランチで下船、「のじま」に別れを告げた。大きな船でごった返す東京港。その中で「のじま」は小さく、ひっそりと浮かび、後尾甲板の日の丸とマストの海上保安庁旗は風雨でほつれていた。
(筆者が下船後書いた新聞連載用原稿から)
 
 帰港前夜、甲板の「車座の宴会」で口の悪い長谷川さんから「あんた、もう一度乗る気はあるかい」と聞かれた。返事はみんなに失礼だと思い、ニヤニヤ笑ってごまかした。乗る気は毛頭ない。金輪際乗るまいと思った。
 飲み屋でのそんな私の話に、山形さんは三十年前の長谷川さんと同じ質問をしてきた。「いま誘われたら乗りますか」
 私は近年、度重なる病で苦痛に慣れた。年齢相応に少々図太くもなっている。定年後、発展途上国ネパールに滞在した経験で不便な環境に耐える習性を身につけたと答えた。もっともこれらは「なんてー」での経験が生きたというべきかもしれないけれど。
 聞かれるままに「功成らず、名も遂げなかった会社生活」を山形さんに語った。
 「定点から帰るとすぐに東北へ転勤の話が起きた。山形さんは南でしたね。転勤は三度目なので拒否することはできたが、転勤なんかどこへ行ったって陸の上じゃないかと思い・・・。会社で理不尽なことに一度は声を上げるが闘争的な態度は止めた。他人を思いやるようになり、干渉しなくなった。子供のスパルタ式教育も止めた」例を挙げる。
 山形さんは嬉しそうに耳を傾けてくれ「あなたも立派な『定点ゴロ』ですね」と言う。「定点ゴロ」とは「観測船で苦労をしたごろつき、悪党」の意である。少々の事には動じない、気が優しくて責任感の強い気象人に対する自虐的、偽悪的な称号、代名詞である。山形さんは、定点ゴロのほかに離島などで長期観測した人を指す「島ゴロ」の名も持つ。
 無人島や定点観測船の仕事を「卒業」すると、山形さんにも和歌山、沖縄気象台などへの相次ぐ転勤が待っていた。開き直った私とは違い、「喜んで赴任した」そうだ。
 苦労を積み重ねた人柄をかわれ、退職後は気象庁定点OB会の会長を務めている。異なった海域、船、あるいは離島と、舞台も勤務もすれ違いだった定点人の結び付きは職場を退いた今でも固いらしい。
 私は思う。あのゴロの社会はネクタイこそ着けないが紳士の集団だった。弱者を蹴落とし、出世や損得だけに走りがちな殺伐とした世界とは違う。他人を押しのけて生活する人はいなかった。仕事の環境は不満だらけなはずなのに不平は言わない。縁の下の仕事に生きる人ばかりだった。
 その集団の長老、山形さんが私を「ゴロの仲間」と認めてくれたのだ。お世辞と知りながら私は嬉しく受け止めて席を立った。
 
参考資料=
昭和四十八年下船後、共同通信から出稿した筆者の書いた新聞記事


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更新日: 2019年8月10日

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