序
本報告書は、社団法人日本船長協会に設置された「便宜置籍船における海事保安事件の処理と問題点」調査研究委員会による研究成果を取り纏めたものである。周知のとおり、日本商船隊の船腹量全体に対する便宜置籍船の割合は過半をはるかに超えており、わが国の外航海運業は便宜置籍船の利用なしには成立しない。このような状況にあって、従来から、主に海運政策上の問題として便宜置籍の功罪が議論されてきた。しかしながら、運航の現場を預かる船長にとって、政策論のみならず、便宜置籍船の実態に対応するための方法論も等しく重要性を持つことは疑いない。本委員会は、後者の視点に立って、便宜置籍船に内在する諸問題を調査研究することを目的とした。
便宜置籍船における海事保安事件と言えば、タジマ号事件が想起されよう。この事件において便宜置籍が抱える問題の一端が顕在化した。すなわち、公海上で発生した殺人事件に関して、本船の船長は、わが国の内水にありながら、約1か月にわたって被疑者を船内に拘禁しなければならなかった。そして、その抜本的な解決のために刑法が改正されたことは記憶に新しい。本委員会はこの先例に学びつつ、具体的な事案における行動指針として、船長のための対処ガイドラインを策定することを試みた。しかし、このようなアプローチは先例に乏しく、委員会における議論が、実体的な内容と方法論との間を漂泊することもあった。その結果として、本報告書もあるいは二兎を得ない中途半端な内容にとどまっているのではないかと危惧している。さらなる前進のために、忌憚のないご批判ご叱正をお願いしたい。
ともあれ、本報告書が些かでもわが国の外航海運業の発展に貢献し、また便宜置籍船の指揮をとる船長各位のために役立つことができれば望外の幸せである。
平成18年3月 委員を代表して 相原 隆
本編
日本の外航海運会社が運航する船舶の主体は、今や便宜置籍船となっており、国連海洋法条約では、第94条に旗国の義務として、「1. いずれの国も、自国を旗国とする船籍に対し、行政上、技術上及び社会上の事項について有効に管轄権を行使し、及び有効に規制を行う。・・・」とある。
本来、旗国の責任義務で適切に対処されるべき海事保安事件が発生した場合に、便宜置籍船に乗り組む船長は、船籍国のとる対応、支援、保護等について、現状では、非常に不安を抱いている。
その例として、TAJIMA号事件(船内殺人事件)のような海事保安事件は、典型的なものとしてみることができる。
便宜置籍船において種々の海事保安事件が発生した場合、船長としてどの様に対処すべきか未だ確たる指針がない現状で、かつ、船舶の運航形態が多様化している今日、便宜置籍船に内在する問題を調査研究することは重要課題である。
従って、当調査研究期間を平成17年4月から平成19年3月までの2年間と計画し、本年度平成18年3月までは、便宜置籍船における海事保安事件を船内殺人・傷害事件に絞り、当事件事例の調査研究を行い、船長が取るべき処置に関する基本指針の作成を目的とする。
タジマ号事件を筆頭として、各状況に応じた船内殺人事件の事例について、その概要及び処理、問題点を研究する。
委員会を構成する委員により、事例研究すると共に、現状の問題点を洗い出すように自由意見を交換する勉強会形式で審議検討する。
便宜置籍船における海事保安事件の処理と問題点調査研究委員会(船内殺人・傷害事件編)と命名する。
下記委員名簿のとおり、学識経験者及び海事関係者を委員とし、国土交通省及び海洋政策研究財団の担当者がオブザーバーとして、総計11名の構成とした。
第1回委員会を7月19日、第2回委員会を11月16日、そして最終委員会である第3回委員会は2月21日に開催した。
表1.5.1 委員名簿
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氏名 |
所属 |
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委員長 |
相原 隆 |
関西学院大学 法学部教授 |
委員 |
廣瀬 肇 |
呉大学 社会情報学部教授 |
委員 |
根本 到 |
神戸大学 海事科学部助教授 |
委員 |
寺島 紘士 |
(財)海洋政策研究財団 常務理事 |
委員 |
井沢 文明 |
UK P&I クラブ 日本支店 取締役 |
委員 |
(前任者) |
松重 太朗 |
日本郵船(株)安全環境グループ危機管理チーム |
(後任者) |
進藤 航 |
同 |
委員 |
林 昌徳 |
(株)商船三井 船舶部 海務・安全グループマネージャー |
委員 |
門野 英二 |
川崎汽船(株) 安全運航グループ安全運航チーム長 |
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オブザーバー |
九鬼 令和 |
国土交通省 海事局 外航課 国際第一係長 |
オブザーバー |
(前任者) |
吉田 晶子 |
国土交通省 海事局 船員政策課 国際企画室長 |
〃 |
(後任者) |
鈴木 史朗 |
同 |
オブザーバー |
田中祐美子 |
(財)海洋政策研究財団 政策研究グループ 研究員 |
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事務局 |
森本 靖之 |
(社)日本船長協会 会長 |
赤塚 宏一 |
(社)日本船長協会 副会長 |
江本 博一 |
(社)日本船長協会 常務理事 |
福留 聖司 |
(株)エム・オー・マリンコンサルティング 研究員 |
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2章 TAJIMA号事件及び他の海事保安事件(殺人・傷害)の概要等
事件が発生したTAJIMA号の要目は、以下の通りである。
・船籍:パナマ共和国
・用途:油タンカー
・所有者:日本郵船の海外子会社
・船舶管理者:共栄タンカー
・総トン数:148,330トン
・載貨重量:265,500トン
平成14年4月7日08:15分頃、パナマ船籍タンカーTAJIMA号を実用傭船運航する共栄タンカーから第十一管区海上保安本部へ、「ペルシャ湾から姫路港へ向け航行中、台湾の東方公海上において、深夜当直中の日本人二等航海士が行方不明」との連絡があった。
行方不明捜索中の同船より、翌8日16:30分頃になって、「行方不明者と相直のフィリピン人甲板手の証言によると、他のフィリピン人乗組員二名によって殺害された可能性が大きく、船長権限で両名の身柄を拘束したが抵抗が予想されるので海上保安官の執行援助を願いたい」との要請があった。
本事件は公海上における外国船船内での事件であり、当時の日本国内の刑法でも消極的属人主義を採用していなかったので、日本に刑事裁判管轄権はなく、事後、旗国のパナマ政府の「共助要請」を睨んだ国際捜査共助事件として執り扱われた。
なお、「国際捜査共助等に関する法律」において、「共助」とは「外国の要請により、当該外国の刑事事件の捜査に必要な証拠の提供(受刑者証人移送を含む。)をすること」、「共助犯罪」とは「要請国からの共助の要請において捜査の対象とされている犯罪」とそれぞれ定義されている。
日本政府にパナマ政府よりなされた「捜査共助要請」に係わる「共助犯罪事実」は2.1.3のとおりである。
共助犯罪被疑者甲は、TAJIMA号に甲板手として、共助犯罪被疑者乙は、右同船に操機手として乗り組んでいた。
平成14年4月7日午前3時過ぎ頃、右同船の事務室内において被疑者両名は、来室した同船2等航海士S(日本人、当時52才)から、被疑者乙による船舶電話の不正使用を日本語で「キャプテンに言う。ばか、だめ」等の叱責を浴びせられたことに端を発し、同室から船橋海図室に立ち去った同人を追って同日午前3時30分頃、同海図室に至った。
当時海図室にいた同人から蔑んだ目で「(電話の)鍵は何処だ」と言われ、不正使用の疑いを掛けられたと感じた被疑者甲が、酒の勢いも手伝って、とっさに暴行を決意、同日午前3時30分頃北緯23度11.6分、東経122度02分(台湾東方沖公海上)付近海上を航行中の右同船船橋内の海図室において、手に持った松葉杖で2回殴打し、その後、被疑者甲の呼ぶ声に呼応した被疑者乙が続いて手拳で数回殴打して転倒させた。
さらに被疑者乙は殺意をもって、同人の襟首をつかみ同船船橋右舷ウイング先端付近まで運んだとき、同ウイングにいた被疑者甲に対し、「海に投げ込むのを手伝え」と言ったところ、甲がそれに呼応して同ウイング先端まで行き、乙が両腕を同人の脇の下にいれた状態、被疑者甲が同人の足首を持った状態で持ち上げ、同ウイング舷縁上越しに同人を下方約26.03mの海面に放り投げ殺害した。
以下に犯罪の重要事実を要約する。
・犯罪被疑者:フィリピ人乗組員2名
・被害者:日本人二等航海士
・事件発生現場:台湾の東方公海上の便宜置籍船上において
・犯罪事実:容疑者が殺意を持って松葉杖及び手拳で被害者を殴打し、26.03m下の海面に落とし込んだ。
この事件は公海上の便宜置籍船で発生した事件ではあるが、被害者が日本人であるにもかかわらず、船内犯罪における刑事裁判管轄権の関係からわが国による捜査権の行使は困難であり、かつ船舶の旗国も事件解決に積極的なうごきをみせなかった。
そのため、わが国内水にいながら、民間人であるTAJIMA号船長ら自身によって、約1ヶ月間被疑者を拘束するという異常な事態となった。ここで、この事件の処理における疑問点、問題点を以下に整理する。
疑問点:
・行方不明は明確な事実だが、乗組員の供述のみによって殺人の可能性あると判断した船長の援助要請に、司法警察権及び行政警察権の援助執行ができる法的根拠
・船長の船内警察権の法的根拠
・国際法及び刑法による法理構成上の裁判管轄権
・パナマ国の船員法の存在及び内容
・FOC船に乗り組む船員の船内規律等の法的根拠等
・船舶管理会社の責務である船員管理において、船員の規律違反における取り扱い等に関する実質的な法的手段の検討について
問題点:
・4月7日から19日までは一応順調に手続きが進められているが、5月15日に仮拘禁許可状が執行されるまでの間、船長は船長権限に基づく船内警察権により、被疑者を船内拘禁した。この間、わが国内水にいながら約1ヶ月にわたり、殺人事件の被疑者を民間人が拘禁しなければならなかった。
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