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表紙説明◎名詩の周辺
西南の役陣中の作―佐々友房作
熊本・植木町田原坂
 作者佐々友房は熊本藩士の子として安政元年に生まれました。多感な青春時代に維新と出会い、西南の役には薩軍側につき、薩軍熊本隊の小隊長として参戦。田原坂の決戦に敗れて因われ、十年の懲役刑を受けますが、創傷治療のため帰郷し、西南戦争の薩軍方の記録として有名な『戦袍日記』を書き上げます。その後、明治二十三年、第一回衆議院議員選挙に当選、以後政治家として国粋運動推進の大きな役割を果たしました。一方、生粋の熊本人として、郷里熊本で畏敬され、地元の英才教育に尽力したことでも知られています。明治三十九年没。享年五十三歳。
 
 
 ところで、この詩は作者が明治十年(一八七七)、西南の役に敗れたとき、戦争の激しさと無惨な敗北の心境を詠じたもので、同じ作者の、壮絶な戦いを生々しく描写し、敗残の恨みを述べた詩「吉次峠の戦」を合わせて味わうことで、この詩の心をより深く理解することができます。
 西南戦争は、明治十年(一八七七)、旧薩摩藩を中心とする明治新政府への不満を持つ士族が、征韓論に敗れて下野していた西郷隆盛を擁して起こした反乱で、総動員兵力は政府軍六万六千余名、薩軍三万五千余名、戦死者は官軍六九二三名、薩軍七一八六名、殉職者二九名にのぼる近代日本最大の反乱です。そして、その最も激戦地となったのが、熊本県植木町の田原坂(たばるざか)です。薩軍に包囲された熊本城を救援する官軍にとって、田原坂だけが砲隊を進める唯一の道だったため、要塞となる坂の頂上をめぐって激戦がくりひろげられたのです。三月三日増援の政府軍は、高瀬・山鹿方面から田原坂の薩軍への攻撃を開始、以後十八日にわたる激戦のすえ、政府軍が田原坂を占領、四月十四日、熊本城に入城します。薩軍は熊本を撤退、その後各地を転戦しますが、九月二十四日、鹿児島の城山にたてこもり、西郷隆盛の自刃で、西南戦争は終結します。この反乱を最後に士族の反乱は終わり、わが国は近代化に邁進しはじめるのです。
 
田原坂近くには両軍の墓地があり、これは官軍の「七本官軍墓地」。兵士300余名が埋葬されている
 
こちらは薩軍三百十一名を埋葬した「七本柿木台場薩軍墓地」。この他にも県内には各所に西南戦争の墓地がある
 
【田原坂】熊本交通センターから王名・荒尾行きバスで約40分。バス停鈴麦下車徒歩約10分。またはJR鹿児島本線田原坂駅下車タクシーで約10分。
 
吟詠家・詩舞道家のための
日本漢詩史 第24回
文学博士 榊原静山
江戸時代の展望―(一六〇〇〜一八六七)―【その四】
 井伊直弼はたまたま大老職にあったので、慶福を後継者に決定し、開国論の巨頭として独裁政治を行ない日米修好通商条約も独断でハリスと調印したものだった。このため、京都の公卿や一橋系の大名、その他、尊王の浪士達の間に井伊大老の独断専行を非難攻撃する火の手が上りそうになったので、井伊直弼はこれを制圧した。安政の大獄がこれである。
 このため水戸の徳川斉昭をはじめ徳川慶恕、松平慶永、山内豊信、伊達宗城らの諸大名は隠居、謹慎などの処罰を申渡され、橋本左内、頼三樹三郎、梅田雲浜、吉田松陰など、公卿、藩士、幕吏、志士、婦人や幼児にいたるまで数多くの人達が処罰された。西郷隆盛や釈月性はこの検挙をのがれて帰藩し、相抱いて海に投身した話は、吟界にもよく知られている。
 このように、井伊大老の弾圧政策は、たとえ開国論が正しく、自からの命をかけた国難打開策としての信念で行なったとしても、貴重な多くの人材を失なう結果をみている。
 そればかりか弾圧を機として尊王、攘夷派の人々の憤激をますますたかめた。特に藩主以下、多くの犠牲者を出した水戸藩の有志、斎藤監物、佐野竹之助、関鉄之助ら水戸浪士十七名に、薩摩の浪士有村治左衛門を加えた十八人は、千八百六十年(万延元年)三月三日、井伊大老登城の行列を桜田門に待ちうけて直弼の首級をあげるという劇的な行動にでた。これが有名な桜田門外の変である。
 井伊大老が暗殺された後、安藤信正は老中になり、朝廷と幕府の協調をはかるために孝明天皇の妹である和宮親子内親王を十四代将軍家茂の夫人に御降嫁を願い出た。天皇は攘夷を条件として、これを許した。また薩摩の島津久光は、公武合体運動を推進するために、朝廷の力を背景に幕政の改革を行なわせるような努力をするが、大した成果が上らないうちに京都ではますます尊王倒幕の急進派が勢力を強め、長州の桂小五郎、高杉晋作、久坂玄瑞などが三条実美らの公卿と結びつき、天誅と称して幕府の役人に対抗し、倒幕運動を展開している。こうした中に花一輪、桂小五郎と勤王芸者幾松のエピソードなど、やわらかな話も残っている。
 
井伊直弼
 
 これに対して、幕府側は新選組を編成し、近藤勇を隊長として討幕の志士弾圧に躍起となる。ことに元治元年六月五日夜の、池田屋事件は有名である。
 幕府側も尊王派も、日本の世論が攘夷一色になり、外国側から攻撃をうけた場合はこれを打ち払うことを諸藩に命じ、攘夷実行の日までも決め、海防を固めたところ、ちょうど五月十日、アメリカの商船とフランス、オランダの軍艦が下関海峡を通過した。これをわが国で砲撃したので、外国の軍艦も報復のため下関砲台に砲撃をしてくるという事件がおきている。
 同じ頃、南の薩摩では、イギリスの軍艦七隻が鹿児島に来襲して薩摩藩と交戦し、市街地の大半が戦火で焼け、英国艦も大きな損害を受けて退去している。薩摩ではこの薩英戦争の経験から、あまりに違う日本と外国との近代的軍事力の相違を知り、藩の考え方を転換させて進取開国の方針に変えた。留学生をヨーロッパヘ送り、イギリスに接近して日本の軍事力を高めようと西郷隆盛、大久保利通らが開国策を支持したのもこの時期である。
 長州の人達も下関砲撃事件の体験から開国をして、富国強兵策に転向し、開国倒幕の線に向かって歩を進めるようになり、長い間意見のくい違っていた薩長は、後に坂本龍馬や中岡慎太郎らの活躍によって薩長連合の密約を結び、討幕の運動を強力に推進することになる。さらに広島藩も薩長の同盟に加わり、これら三藩の兵隊が京阪の地に集結して、大軍で討幕の実力行動をおこす。そのうえ、岩倉具視が朝廷に申し出て討幕の密勅を得たので、いよいよ幕府は窮地におち入り、将軍慶喜は政権を返上することを建白し、千八百六十七年(慶応三年)、遂に大政奉還となる。
 源頼朝の武家政治以来七百年、家康が征夷大将軍になって二百六十四年、ここにようやく武家政治は終りを告げたのである。


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