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吟剣詩舞だより
心豊流青森支部 創立二十周年記念大会
平成十六年十月二十三日
ラ・プラス青森大宴会場
 
 長年の懸案であった支部二十周年記念大会は昨年十月二十三日、県内諸流派宗家、会長先生を初めとし文化団体、他町内県外に住む仲間の方々等多くの御来場を頂き、盛会裡に幕を降ろすことが出来ました。
 
「五条橋」(松口月城作)連吟する桂心豊宗家(右)と奥崎秀豊(左)の両名
 
 これは偏に皆様方のご温情の賜物と宗家と共に、しばし感涙に浸ったのでございました。
 開演は先ず華道吟から始めました舞台の両側に華道教室の私の生徒方が花を活けて、馥郁とした菊の香りに秋の風情を漂わせた舞台では、会員吟詠から始まり、ご来賓の吟詠や剣詩舞に依って華やかに盛り上げていただいた中で、私は宗家と五条橋(松口月城作)の連吟を以て、最後を務めさせていただいたことは終生忘れることの出来ない想い出となりました。
 私が心豊流宗家にご師事を致しましたのは、五十歳の時でございましたが六十歳の発会から二十年は、あっと云う間の歳月でした。詩吟にご縁を得た事は私にとって、心身共に大きな飛躍であったと感謝いたしております。この素晴らしい日本の伝統文化を、後世に伝えて行かなければならない、その使命感に少年たちの指導に力を尽くしながら、この後も限りある日々を大切に、精進を重ねて斯道の発展にお役に立てたら有り難いと思っております。
 いつまでも心に残るあの日の感動を想い起こしながらペンを執りました。
(青森市吟剣詩舞道総連盟理事長・心豊流吟剣詩舞昭延会青森支部支部長 奥崎秀豊)
 
第十二回大会記念 桃山流みやこ舞
「美と感動の舞」
平成十六年十二月二十五日
鎌倉芸術館小ホール
 
 街がクリスマスの飾りで美しく装われそして、二〇〇四年があと数日で終わろうとしている十二月二十五日、古都鎌倉芸術館小ホールに於いて、桃山流みやこ舞の記念大会が開催されました。当会は創立二十二年を迎え、伝統ある詩舞に情熱を燃やし続けていられる家元桃山玉涛先生のもと、本部と九州福岡支部の会員達が、日々練習に励んでおります。
 さて大会は「松竹梅・越天楽」の雅楽をとりいれた優雅な舞から始まり、家元の舞「名槍日本号」で締めくくられました。その間を、日本吟剣詩舞振興会、神奈川県吟剣詩舞道総連盟、横浜市吟剣詩舞道連盟、全国朗吟文化協会、テイチク吟詠協会、鎌倉市詩吟詩舞連盟の諸先生方とその会員の皆様に吟と舞を披露戴きました。特に企画番組「美と感動の舞」は日頃の練習の成果を十二分に発揮でき満足感で一杯でした。
 
桃山玉涛家元より、青少年育成基金を受け取る矢萩保三財団事務局長
 
 また、式典の中で「青少年育成基金」の贈呈式をさせていただき、家元より財団事務局長・矢萩保三先生に手渡されました。多くの先生方のご協力をいただきまして、この大会を成功裡に終了することができました。会員一同、この佳き日の感激を糧に、さらに精進することを誓いあって散会となりました。
(広報部 草薙)
 
表紙説明◎名詩の周辺
焦心録後に題す 獄中の作―高杉晋作
山口・下関、萩市
 高杉晋作は幕末の志士で名は春風(はるかぜ)、通称は晋作、また東一、和助とも名乗っていました。号は東行、変名を谷梅之助、または谷潜蔵ともいい、いかにも波欄万丈の彼らしくさまざまな名が残っています。
 天保十年八月二十日、長州萩藩の上士(大組士)高杉小忠太の長男として生まれ、初め藩校明倫館に学びましたが、その学風にあきたらず、安政四年(一八五七)に吉田松陰の松下村塾にはいり、久坂玄瑞とともに双壁と称されました。のち、江戸の昌平黌に学び、また佐久間象山・横井小楠などの諸名士と交わって知見を広めて帰り、万延元年明倫館舎長に就任。翌文久元年、世子定広の小姓として江戸に従っています。
 この時、藩は朝廷と幕府に建言して、公武合体を図ろうとしていましたが、晋作はこれを愚策として、その提唱者である長井雅楽を斬り藩論の刷新をめざしますが、桂小五郎(木戸孝允)の言を入れ、中止しました。
 翌年上海に航し、海外の実情を視察して帰朝しましたが、この時の見聞が晋作の目を世界に広げ、日本の近代化と海外大国の侵略への備えの必要性を感じさせたようです。その後、江戸高輪の英国公使館の焼討ちを実行、故郷萩に閉居しますが、長州の外国艦船打払い、その報復としての米仏軍艦の馬関砲撃が起こり、晋作は藩侯の命により奇兵隊を組織してその警備と事後処理にあたります。
 この奇兵隊は晋作により献策されたものでしたが、その組織は後の明治政府の軍隊にも通ずるもので、武士だけでなく、農民、町人を含めて構成された斬新なものでした。
 その後、京都に政変があり、藩主も勅命により勘当、晋作は京阪の地に出奔し、藩の意に反したかどで召還され、萩の野山獄に下されます。標題の『獄中の作』はこの野山の獄中で作られたものです(写真参照)。
 
 
 
晋作や松陰が入牢した野山獄跡。現在は碑が建っているのみ。野山獄は武士用で、この向かい側に町人や農民用の岩倉獄があった
 
 長州はその後、蛤御門(禁門)の変で破れ、外国の軍艦も前年の報復のために馬関に迫り、藩はこの窮地を脱するため、晋作を釈放します。晋作は東奔西走、藩内を討幕でまとめ、薩長連携を実現、幕府にも休戦の議を提出させます。
 しかし、その超人的な活躍により健康を害し、慶応三年四月十四日、王政復古の夢をいだきつつ、二十九歳で没しました。
 『焦心録後に題す』は、国が危急存亡のとき、志のある者は身分を問わず、心を一にして事に対処すべきである、と説いた「焦心録」を書いた後に作られたものです。
 
【高杉普作像・日和山公園】JR下関駅からバス2分「細江町」下車、徒歩8分。
【功山寺】バス停「城下町長府」下車、徒歩10分。
【高杉晋作誕生の地】JR山陰本線東萩駅から西へ徒歩30分。市内の名所を廻る「まぁーるバス」を利用すると便利。貸自転車もある。


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