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吟詠家・詩舞道家のための
日本漢詩史 第21回
文学博士 榊原静山
江戸時代の展望―(一六〇〇〜一八六七)―【その一】
徳川家康(一五四二〜一六一六)関ケ原で天下分目の大戦に勝って江戸に幕府を開き、千六百三年には征夷大将軍に任ぜられ、事実上日本を治めることになる。
徳川家康
 
 秀吉の子、秀頼は摂津、河内、和泉の三国を領土にした一大名に下って大阪城に淀君とともに住んでいたが、豊臣家復興の動きがみえたので、家康はたまたま方広寺の梵鐘の銘に、“国家安康、君臣豊楽、子孫昌”とある文字を楯に無理難題を持ちかけ、大阪方と戦いを始める。この時、兵力は大阪方が十万、徳川方は二十万といわれているが、要塞堅固な城がなかなか陥ちないので、一応和議を開いて中止する(これを大阪冬の陣という)。
 徳川方は、和議の条件として外濠を埋めることを主張して、内濠までも埋めてしまい、再び挑発して戦端を開く。有名な豊臣の家臣木村重成、後藤基次等も戦死し、大阪城は戦火に包まれ、淀君、秀頼も城と運命をともにして豊臣氏はここで全滅してしまうのである(これを大阪夏の陣という)。
 いよいよ徳川方は力を得て名実ともに天下を取り、全国を区分して関ヶ原の合戦以後、徳川方に協力をした各地の武将を外様大名とし、関ヶ原戦より以前から徳川の家臣として戦功のあった武将を譜代大名、また徳川一門の血統をひいたものを親藩大名、さらに幕府直属の旗本、御家人などの制度を作り、それぞれの大名が互いに牽制し合うように配置し、参勤交代などの制度を設けて武力を統制し、徳川二百六十年間、戦争のない時代を築いたのである。
 世の中で家康のことを、狸おやじなどと悪口をいう人もあるが、戦国の武将として、代々の欠点を知りつくした、最も利巧な将軍である。世の人が、
 
“鳴かなくば殺してしまえ
    ほととぎす”(信長)
“鳴かなくば鳴かしてみよう
    ほととぎす”(秀吉)
“鳴かなくば鳴くまで待とう
    ほととぎす”(家康)
 
 こんなふうに三人が俳句を作るであろうと、信長、秀吉、家康の性格をもじっているように、待ちに待って天下を取った家康が“東照神君”といわれるように、徳川三百年の主座についたのである。
 江戸時代は政体にあまり大きな変化はないので、ここではこの期間におきた注目すべき事件とか、漢詩に関係のある事柄を中心に述べておこう。
 ところで江戸城であるが、この城は江戸幕府ができてから初めて築城されたのではなく、千四百五十七年(長禄元年)室町の末期に上杉定政の家老であった太田道灌が築いたものである。
 
太田道灌
 
太田道灌 道灌は本名を持資といい、兵法に秀で禅宗を信仰し、出家して法名を道灌といったもので、若い時に狩に出て雨にあい一軒のあばら家で簑を借りようとしたら、一人の小女が出てきて、山吹の花を差し出した、この意味は、
 
“七重八重
花は咲けども山吹の
実の一つだに なきぞかなしき”
 
という昔の古歌があるのを小女は知っていて、自分の家は貧しくて簑がないと断るために山吹の花を差し出したのであったが、道灌はこの時、歌道の素養がなく、戸惑ってしまったという逸話はあまりにも有名である。以来、道灌は和歌や文学に志し、“砕玉類題”という歌集を残すほどになったといわれている。遠山雲如が“題道灌借簑図”という詩を作っているが、これは後に解説する。
 そして、こののちに江戸城は徳川家によって、諸大名から人夫を徴用して、大規模な城塞として画期的に補強改築されたものである。
 


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