さて、船に乗りまして、私共三人は、つくづくあたりの海をながめまして、
「お前様方が吹き流されて来なければ、この先はともあれ、まずここまでも来られなかった。お前様方は仏の手引きでござった。しかし、お前様方は何とも思わなかっただろうが、わしら三人は昨日あの島を出船の際は、苦難ながらも二十年余り住み暮らしていたことなど心残りがして、島の見える間は、何度振りかえり振りかえり、名残りを惜しんだことか。しかし、もはやその島も見えなくなり、この先何処を当てに流れて行くのかと想えば、ほんに心細いことじゃ」
と、愚痴っぽく申しますと、堀江町の面々は、
「なるほど、永年命ながらえていたところ故、無理もない。しかし、きのうより是(これ)まで恙なく来たことは、いうも愚か、仏の加護じゃ。この上は、いよいよ仏の加護にすがり、帰国できることは疑いない。左様になげくものではない。はや日も余程上り、海上もしずかに、風も申し分のない順風ではないか」
と、みなみな慰め、力づけてくれましてござります。
そして、風の間に間に海上を走り乗ります内、丁度無人島を出船いたしまして三日三夜、忘れもいたしませぬ当元文四年未(ひつじ)の五月朔日(ついたち)の夜明け頃でござりました。あっと一人が声を立てました故、何ごとならんと遥か海の彼方を見渡しますると、かすかに煙を立てて居りますのは、あわれ人の住む島らしくござりました。
嬉し泪ながらに乗りつけ、我先にと駈け上がりますると、島人が怪しんでみなみな寄って参りました。見れば、日本人にござりました故、二十人の者はいずれも泣きましてござります。泣きましたのは、二十人の者ばかりではござりませなんだ。他の十七人は知らず、私共三人はさきにも申し上げました通り、鬼にもまごう風体でござりました故、島の子供どもも、怖れてわっと許りに泣きましたかに、記憶いたして居ります。
暫らくは口も利けませず、ただもう泣き泣き泣いております内、お役人方が来られまして、それより御代官斎藤喜六郎様の御吟味をうけましてござります。申しおくれましたが、この島は八丈島のよしに承りましてござります。
それより御江戸表へは、特別の御船に御乗せ下さいまして、ありがたき仕合せにござりました。また、私共只今は鬼の面体(めんてい)もいたして居りませぬは、八丈島御役人方の御情けをもちまして髪月代(さかやき)の儀をお許し下されましたためにござります。なおありがたきことには、時々衣類など下し置かれました故、御覧の通り、さっぱりいたして居る次第にござります。
無人島を出船の節、積み入れた鍋釜、籾米、外に大鳥の毛皮などいかが致したとの御尋ねでござりまするか。はい。無人島におきまして永年遣うて参りました鍋釜は、八丈島着船まではござりましたが、八丈島へ着きました節、余りに悦びまして、我先にと駈け上がりました故、鍋釜ともみじんに踏みくだきましてござります。また、大鳥の毛皮は、何分小船に二十人も乗りまして、その上帆の上げ下げなど致しまして、殊の外狭うござりました故、鳥の皮も邪魔になりましたままに、無人島出船の翌日にござりましたか、流れ着きました小島へ捨て置きましてござります。
島で作り取りました籾二斗ほどは、八丈島御役人中の内、当分御預かり置き下さるよう、御用船御出船の節、私共へ御断りござりました故、八丈島にござります。なお、二斗ばかりと申し上げましたが、計り見いたしませなんだ故、その程はしかとは存じ上げませず、相済まぬことにござります。
無人島より八丈島まで、凡そ何程あったかとの御尋ねでござりまするか。無人島より八丈島までの海上は、何分どことも知れず走りましたこと故、計りがたうはござりまするなれど、三日三夜の間でござりますれば、大概に見積りまして、凡そ海上七八百里ほどもござりましたかに存じ上げます。
八丈島へ着船いたした節、どのような気がいたしたか、との御尋ねでござりまするか。はい。何分とも夢のようにござりました。はい。その外に何ごとを思うたかとの御尋ねでござりまするか。私ごとにわたりまして、恐縮にござりまするが、やはりお政のことを頭に泛べ(うかべ)ましてござります。お政の鼻の横のほくろも想い出しましてござります。ここに控えております甚八、仁三郎の両人など、もはや女房の名さえ忘却いたして居りますような態(てい)たらくでござりまするが、私それとは大違いにござりまして、二十一年前のことどもも、手にとるように記憶いたしております。それ故、私最前より申し述べました段々、一つのこらず真実のことにござりまして、私申し述べましたことと、私共いたして参りましたことと、何ひとつ相違ござりません。はい。
吟味が済むと、三人の漂民は御暇を賜わって、雉子橋(きじばし)の外にある御厩(おうまや)の宿に引き下った。暫らくして、再び召し出されて、八丈島の役人に預けてあるという無人島で作った籾米を、公儀に差し出すようにとの、お達しをうけた。なお、
「其方等久しく無人島にて苦難いたした段々、誠に不便(ふびん)故、一人へ三人扶持(ふち)ずつ三人へ九人扶持、其の身一生の内下し置く。生国荒井とやらへ帰国の上は、最はや渡世の儀は相止めて、一生楽に送ることにせい」
と、いうありがたい御慈悲の言葉を賜わった。三人の者は頭を上げよといわれても、暫らく頭をようあげず、はらはらと落涙していた。
いよいよ遠州荒井へ帰ることになった。船が荒井の浜に近づくと、お酒落の平三郎はしきりに鬢のそそけを撫でつけ、襟元をなおした。
転げ落ちるように、浜へかけ上がり、出迎えの人々を見渡したが、お政の姿は見えず、甚八、仁三郎の女房の姿も見えなかった。きけば、甚八、仁三郎の女房は数年前それぞれ死亡し、お政は生死不明。きけばお政は、夫平三郎をもはや亡きものと諦めてか、五年前、旅の者と出来合っていずこともわからず駈け落ちしてその後行方知れずということであった。
甚八、仁三郎の二老人はもぐもぐと泣いた。平三郎はだらんと胸をはだけ、二三日気がふれたように怒号し、それがおさまると、暫らく腑抜けていた。荒井の浜へつくまでは、どこで手に入れたか、毎日船中で鏡を覗いていたのだったが、もうそのことを知ってからは、一向に身のまわりも構わず、四十二歳の顔は一つも見せず、にわかに爺むさく老けてしまった。
三人扶持をもらうことになったから、渡世をやめても食うのには困らぬままに、平三郎はぶらぶら懐手で暮らした。その身分を羨んで、お政の後釜に坐りたい女もないわけでもなかったが、女はこりたと、平三郎は独身でくらした。
平三郎は鬱々(うつうつ)として朝夕たのしまなかった。何のために生きながらえてきたのか、何のために苦心して帰国したのか、あれほど故郷を恋い焦れていたのが自分でも不思議なくらい、精のない気持に重く沈んでいた。日が暮れるとすぐ寝て、これでは無人島での暮らしとすこしも変らぬではないかと、われながら浅ましかった。いや、無人島ではまだしも、籾米をつくるという張りはあったと、平三郎はむしろその時のことをなつかしがった途端に、ふと、無人島でして来たように僅かな土地を見つけて、そこで籾米をつくってみようかという気が起きた。
すると、平三郎は妙に元気づいて来た。平三郎はまず甚八、仁三郎を誘って、地主にかけあいすこしの土地を借り入れて耕し、籾米の種を蒔きはじめると、隠居の甚八、仁三郎もよぼよぼやって来て、肥料をかけたりなどした。そうして、黙々として立ちはたらいていると、やがて日が落ち、海上を大鳥が群れとぶように思えた。とっぷり暮れて、もはやあたりに人影も見えず、やがてとぼとぼ帰る所がしずかに暗い岩穴のような気がした。稲はつつましく成長した。
三年経つと、甚八は死んだ。仁三郎はその翌年死んだ。平三郎は六十五まで生きた。籾をつくりはじめてから死ぬまで、平三郎の口から、お政をののしる言葉は一つもきかれなかった。二十一年の無人島ぐらしで、平三郎が覚えたただ一つのことは、黙々として籾をつくること、そのことだけであったかも知れない。晩年は無人島の物語を人にきかせるのも、億劫(おっくう)がった。そしてただ一人海風に吹かれて、小さな田の中にちょぼんと鉛のように置かれていた。
■『織田作之助事典』(和泉書店・平成四年)の「漂流」解説・梗概(浦西和郎)より
享保四年、仙台荒浜を船出した十二人の船乗りは、房州九十九里あたりで大西風にみまわれ難船した。海上を漂いゆくうち船は無人島に流れ着き、十二人はその島で生活することになった。最初はみな退屈で味気ない日々を送っていたが、ある日、島の岩間に籾米の米俵が打寄せられてからは、その籾米を蒔いて育てるのを楽しみに日々送るようになった。やがて稲が実り、年々取り入れる量も増えていったが、毎日食べる分には足りず、主に魚や鳥を食べて生きていた。しかし、食物がよくないため、結局、十年のうちに、十二人中九人が病死してしまった。ある日、島に十七人の日本人が乗る船が漂着した。生き残っていた三人は、十七人の者どもと共に伝馬船に乗り込んで島をあとにし、三日三夜漂流ののち、ついに日本に帰り着く。実に二十一年振りの帰還であった。三人は、江戸城内吹上上覧所で取調べを受けたのち、一人三人扶持ずつ貰えることになり、一生食うに困らぬ暮らしができるようになった。しかし、生活のために働く必要のない日々は空しく、三人は、無人島での暮らしを懐かしみながら、米をつくって余生を送った。物語の冒頭と末尾以外はすべて生き残った三人のうちの平三郎という男が吹上上覧所で述べた口上の形で語られる。その語りの軽妙で滑稽な調子に特徴がある。この「漂流」は、中谷栄一によれば、織田作之助が愛読していた井伏鱒二の「ジョン万次郎漂流記」に刺激されて書いたものだという。
■再録では、明治二十六年の石井研堂『日本漂流譚』第二輯所載の、画家・寺崎廣業による挿絵をそのまま借用させて頂いている。それも想像図ではあるが、感じは良く分かる。これに加えて本書では河合健氏による想像の姿を掲げる。
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