斯様(かよう)にいたしまして、二十年、想えば永い歳月をわびしく島暮らしして参りましたが、今年の、そうでござります、時節はいつの頃とも分りませなんだが、ある日のことでござりました。私共三人のうち、甚八、仁三郎の両人は、かねてより蒔きつけて置きました稲草を見廻りに参っておりまして、私ひとり岩穴の中に居りましたところ、誰やら穴の中を覗きまして、そうして、殊の外ぎょうてんいたしましたらしく、あとも見ずに其の儘(まま)磯辺の方へ駈け下りて行きました。
後姿はまごうかたなく人間にござりました故、私もすぐさま穴からかけ出しまして、其の者の後を追い駈けながら、詞(ことば)を掛けまして、
「おぅい。おれも日本の者じゃ。遠州荒井の者じゃによって、気遣いなさるな、おぅい。こっちを向いて、物を言うてくれ。話がしたいぞ。停ってくれ」
と、大音(だいおん)に申しましたところ、其の者はやっと引き戻して参りまして、
「たしかに人間か。日本の者か」
と、うさん臭そうに、こわごわ訊ね(たずね)ました。
「日本の人間であらいでどうする? その証拠にはこの通り日本の言葉で喋っているではないか」
と、私申しますと、はじめて其の者も安堵(あんど)いたしまして、
「なるほど、そう言えば、鬼でもあるまい。しかし、びっくり桃の木山椒の木だった。ありようは、その形体じゃ」
と、笑いながら申しましたが、言われてみると、なるほど、二十年余り、乱鬢(らんひん)、長髪のままでござりまして、湯も遣うたこととてはござりませず、不断日に照らされ、おまけに、潮のため顔色は赤黒く黄色く、眼ばかりぎょろぎょろいたしておりました故、一眼鬼と見えたことでござりましょう。それに、身には鳥の毛をまとうて居りました故、一層人間とは見えなんだことでござりましょう。
さすがに私も苦笑いいたしまして、
「いかにもこれでは鬼に見えぬことはあるまい。しかし、未だおれなどは見よい方じゃ。もう二匹、もっとひどい鬼が居るぞ」
と、甚八、仁三郎をすぐさま同道して、参りまして、其の者にひきあわせますると、其の者は、
「いかにも、これはお主(ぬし)のいう通り、お主以上の鬼のようじゃ」
と、申しましてござります。
そこで、私共三人はこもごも、二十年余り前難風に逢うて、この島へ漂着いたしました仔細を物語りまして、
「したが、お主は何国の人か」
と、訊ねますると、其の者は江戸堀江町の宮本善八と申します者の持ち船に、沖船頭富蔵水主ともに十七人乗り組みまして、難風に逢い、私共同様此の島へ漂着いたし、あちこち水を探して歩いている内、私共の岩穴を見つけ、覗いたとのことにござりました故、それより同道いたしまして、磯辺へ参りますと、その者の申しましたに違わず(たがわず)、一艘の船が破船いたしておりました。
見れば、もはや随分淦がはいっておりますらしく、船の傾きますのも間もないかのように見受けました故、其の者のほか、同じく水を探すため伝馬(てんま)で上陸いたしておりました同行四五人の者に、島の様子を得と申しきかせまして、
「当島は出水はないが、天水を溜め置いているし、なお又今後溜め与える故、まず水の心配はない。食のことも、不十分ながら命を支えうる証拠には、我々永年生きながらえて来た。よって、かくなる上はみなみな船に残っている者も、伝馬で上陸し、暫らく島に暮らして、順風を待って帰国を図る方が得策だろう」
と、語りますると、みなみな異議もござりませなんだ故、伝馬に一同乗りまして本船へ赴きまして、その旨申しまして、本船に残りおりました飯米一俵のほか、諸道具を積み込みまして、十七人残らず島へ引き揚げました。勿論、伝馬は帰国に是非是非なくてかなわぬものにござりました故、まかりまちがっても吹き流されるようなことがあってはならぬ。万が一吹き流されては、帰国の望みはないものと覚悟しなくてはなるまいぞと、用心に用心して、厳重に囲うて置きましてござります。
このようにいたしまして、島には都合二十人の住人が出来ました故、十人ずつ二つの岩穴にそれぞれわかれまして、さまざま物語りに夜を明かしましたが、だんだんきけば、この者ども漂着の仔細はこのようにござりました。
最前も申しあげました通り、この者どもは江戸堀江町宮本善八船のものにござりまして、去る午年十二月三日朝、順風にござりました故、塩魚、乾物類その外紙、綿等を積み入れまして、船頭水主十七人乗り組みまして、江戸表を出船、翌年正月未方に南部八戸湊へ入津いたしまして、積み入れておりました代物を売り仕舞いますまで、南部に滞在いたしました。
さて南部を出船いたしまして、三月はじめ仙台で大豆、蕎麦(そば)などを買い取り積み入れまして、三月二十一日順風を待って仙台東南の浦より出船いたしましたところ、房州の崎辺へ参りました節、にわかに戌亥(いぬい)の大風が吹き出しまして、帆を下げましても、余り風が強うござりました故、平廻りもなりかねまして、かれこれ周章てて(あわてて)おります内、日暮れになりまして、ようよう風はもはや静かになりましたが、其の日に百里余も沖へ吹き流されたということにござります。
流れ流れて、三月二十六日の夜中に成りますと、またもや風が悪しくなりまして、もはや船も保ち難うござりました故、積み込んで居りました大豆、蕎麦などの俵物を、みなみな海へ投げ捨てました。する内、帆柱も吹き切れてしまいまして、十七人のものども、死する許り(ばかり)にかんねん致したとのことにござります。
やがて夜の明けました故、四方を見渡しますると、風は余程吹き止みましたが、依然島影も見当りませなんだようにござります。昨夜中に何百里吹き流されたのかも計り知れませなんだ故、流し碇(いかり)の小さい碇がございましたのを、六七十尋(ひろ)ござります綱を付けまして、海へ投げ入れ、深さを試みましたところ、底へは届きませなんだ。
船の内へおびただしく淦が入って居りました故、十七人精出して、かい干ししましたなれど、船は大分痛んでおりまして、あちこちより淦が入って来るのでござりました。けれど、それにもおそれず、十七人力を合わせまして、いよいよ精出しして、かわるがわるかい出しながら、三月二十七日、二十八日、昼夜流れ次第に流れて居りまして、あわれ何国になりとも、人の住む所へ船の流れつくようにとただ神仏を祈るばかりのようにござりました。
二十六日の風の吹き廻しにござりましたか、二十七日の夜に入りますと、また大風が吹き出しまして、船はむしょうに流れまして、二十八日の昼夜ともに風が吹きまして、二十九日の明け方に、私共の居ります島へ吹きつけられたいうことにござります・・・。
そんな仔細にござりまして、私共ははじめその日が未(ひつじ)の三月二十九日に当ります由(よし)、判明いたしまして、
「すれば、わしらは漂着以来二十一年この島に生きながらえて来た算用になる」
と、指折り数えまして、想えばそんなに歳月が経ったものかと、改めて驚きましたことにござりました。
さて、私共その二十一年間、主に大鳥を命の糧といたして参りました由、物語りますると、沖船頭の富蔵は随分物識り(ものしり)にござりまして、
「その鳥ならば、この島にだけ居る鳥ではない。南部や松前の浜辺などへ適(たま)に来ることもある鳥じゃ。わしはまえかたあの辺で一度見かけたことがある。しかし、それを食にするとは、初耳じゃ」
と、申しましたので、
「それは思い掛けぬことをきいた。して、その鳥はその辺で何と称んで(よんで)いるのか。わしらは名も知らぬこと故、大鳥と称んできたが・・・」
と、訊きますと、
「しかめと言うたようじゃ」
と、富蔵は申しました。
「なるほど、ひょんなところで一つ賢うなった」
と、それより、しかめ、しかめと称びはじめましたが、何ともしかめでは永年捕え馴れ、食い馴れて来た大鳥の気がいたしませなんだ。
「これはあくまで大鳥でなくては、かなわぬ。どうも、しかめでは味も酸っぱく落ちるようだ」
と、このように呟き(つぶやき)呟きますると、富蔵も別に異議を立てませず、
「なるほど、そう言われてみれば、しかめとは感心せぬ名じゃ。誰が付けた名か知らぬが、しかめとは下手につけたものじゃ。大方、しかめは食べられぬ鳥じゃと思うて、そんな名をつけたのじゃろ。郷に入れば郷に従えという諺(ことわざ)もある。ここは一番わしらも大鳥と称ぶことにしよう」
さて、二十人の者は只今申し上げました大鳥や魚、磯草などを捕えて食べながら、互いに助命いたして居りまして、日々日和(ひより)を待っております内、江戸の者ども漂着いたしましたのは、三月二十九日のよしにござりましたが、四月二十七日の明け方になりますと、やっと順風に見えましたので、まずさきに島へ引き揚げて置きましたてんまを、みなみなで磯辺の方へ持ち出しまして、帆道具や、さきに申しました一俵の飯米に、私共島で作って置きました籾米二斗ばかりござりましたのを積み入れました。また、二十一年遣うて参りました鍋釜も入れました。その外、身にまとうて居りました大鳥の毛もはぎ取りまして、皮二枚でござりましたのと一緒に入れました。これらは、もしいずれも恙なく(つつがなく)日本へ帰国出来た暁には、咄(はなし)の種と存じまして、積み入れましたのでござります。
なお、丹誠につくって参りました稲草は、あるいは誰かまたこの島へ漂着した節、それを観て私共同様籾をつくるよすがともなろうかと存じまして、名残りの養いを存分に掛けましてござります。
そして、早や出船の用意も整いましたところ、沖船頭富蔵ほか二三人の年嵩(としかさ)の者が、分別顔に申しますことには、
「まこと今日の風は順風ではあるが、さて何れ(いずれ)を当てに乗り出したものか。勿論、此の島の暖かな様子を見れば、どうやら南へ寄った島と見えた。故に、日の出のつもりを考えて、北東へと乗り出すのがよろしかろう」
と、いうことでした故、そのように帆を上げますると、何分小船の事にござりました故、矢よりも早く走るような心地がいたしましたが、見渡せど見渡せど、何も見えませず、ただ海まんまんと見渡すばかりでござりました。
その内に日も暮れて来まして、だんだん暗く、方角も分らぬようになりましたので、暗(やみ)のせいもござりまして、余り心細くなりました故、
「いっそ夜の内は帆をおろし、夜明けにまた帆をあげてはどんなものか」
と、一人が申しますと、また、誰ともなく一人が答えまするには、
「たとい夜の内帆を上げず、流れ次第にしていたところで、中々思うところに行きつくものではあるまい。ここは運を天に任せて夜中も帆をこのままにして置こう」
と、これも尤(もっと)至極でござりました故、二十人の内船霊(ふなだま)の祓い(はらい)の詞(ことば)を知っておりますものは、これを一心に唱えまして、その外の者はあるいは観音経、またはさんげさんげ六根しょうじょう、石尊(せきそん)不動、あるいは六字の名号(みょうごう)やら題目など、おもいおもいに大音に夜もすがら申して居りましたところ、夜中風も申し分なく、船はたるみのう走りましてござります。
夜の短い時分でござりました故、程なく東の方と見えますあたりが、だんだん白み、ほのぼの明けわたっで参りましたところ、一つの小島へ流れ寄りました。
そこで、もしや人の住む島ではなかろうかと、胸を躍らせまして、岩に船を繋ぎまして、いずれも上陸いたしまして、ここかしこ見廻りましたところ、人も見えませなんだ。島の大きさは凡そ(およそ)間数(けんすう)に見積りまして、ようよう五六十間四方もござりましたか、水辺の方には、太いかやの類などの草もござりました。また、島の上の方は大方岩でござりまして、その間々に土気がござりますのか、御当地の大草、又はわらとの草の葉のようなものが、所々生えておりました。その外には何も見えませず、人の臭いもいたしませなんだ故、再び船を繋いで置きましたところに戻りまして、乗船いたしました。
なお、その節、この島で中のくぼんで居ります丸い岩と枯草を拾いとりまして、昨日元の島で焚き入れました食事も、もはや食べつくしてしまいました故、この岩に枯草を入れまして、それで飯を焚きまして、いずれも食べましてござります。
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