日本財団 図書館


解説
山口幸洋
(1)漂流から帰還まで
 筒山五兵衛船の新居人が体験した遭難・漂流・帰還について、はじめにその事実の概略をまとめる。
 享保三年(一七一八)十一月、新居泉町・筒山五兵衛所有の千石船・廻船「鹿丸」が遠州今切湊を出帆。翌春まで江戸・伊豆・三河・駿河・伊豆と城米や木材などの輸送にあたる。乗組員は次の九名。
 船頭・左太夫 楫(かじ)取り・甚八(四十六歳) 水主(かこ)・仁三郎(四十歳) 同・平三郎(二十一歳)
 同・善三郎 同・喜三郎 同・八太夫 同・権五郎 炊(かしぎ)・善右衛門
 享保四年春、江戸で増水主(ましかこ)(補充乗組員)、武蔵出身の善太郎と八兵衛(奥州南部出身とも伝わる)の二名が乗り組む。同年秋、荒浜(宮城県)へ向い、御城米(幕府への納入米)を積み込んで房州銚子まで運んだ。空船で再度北上、宮古で材木を積む。ここで便乗者、伊豆松崎・岩地出身の権次郎(または権四郎)を乗せ、計十二人となる。
 宮古から気仙沼を経て、同年十一月二十六日、石巻小竹浦を出帆。三十日、九十九里浜沖にさしかかったところで難風に遭い、帆柱を切って転覆を免かれたものの漂流を始める。以後鳥島漂着まで二ヵ月の詳細は伝わっていない。
 享保五年一月二十六日、島山(鳥島)を発見、元船(本船)を寄せ、伝馬船に手道具、鍋釜などを移して上陸した。水や人家を探したが見当たらず。折からの時化(しけ)で元船、伝馬船とも破損、島に居住することになる。洞穴をねぐらとする。
 翌年冬、乗捨船(のりすてぶね)(難破船)漂着、積荷と思われる米二、三十俵を得る。俵のままとっておいたうち一俵が籾米(もみごめ)であったらしく、翌春、発芽しているのを見つけ、以後これを蒔いて収穫し、病人に食べさせる。
 この後、沖合を通る船を見ることはなく、漂着船もなかった。漂着後三年間は全員生きていたが、その後十年経過するうち九名が死んだ。死亡年月日は不明。
 元文四年(一七三九)三月二十五日、八戸から房総への途次、房総沖で遭難した江戸堀江町宮本善八船(船頭富蔵以下水主とも十七名)が漂着。甚八・仁三郎・平三郎の三人は宮本船乗組員と遭遇した。島離脱を話し合い、宮本船の伝馬船を修理する。同年四月二十七日、順風を得て出帆。計二十人が乗り込み江戸をめざす。翌日、島山(青ヶ島)を見る。五月一日、八丈島三根(みつね)に上陸。島人・役人らの介抱を受ける。五月十六日、新居宿へ三人帰還の第一報。五月十七日、八丈流人赦免の御用船に便乗して江戸へ向かう。途中、浦賀に十九日入港。
 八丈島役人斎藤喜六郎作成の取調書を元に、将軍上覧が行われることになった。同年六月二日、江戸城吹上御殿庭で八代将軍徳川吉宗が謁見。帰郷に際し、新居から甚八息子伝之助、仁三郎甥左五助が江戸まで出迎えた。東海道中は駕籠、舞坂から船に乗り六月二十四日、三人は新居へ帰還、町をあげて歓迎された。
 
(2)織田作之助「漂流」について
 「漂流」は、太平洋戦争前の大衆雑誌「読物と講談」(発行年月不詳)に原題「無人島物語」として書かれ、未だ大戦初期の昭和十七年十月、大阪・輝文館から、単行本『漂流』で刊行された。日本はまだ紙の余裕があって、戦争と無関係の雑誌や本の発行が可能だったのである。当時新居町の中で、これを読んだ人もあって、昭和四十五年、新居町教育委員会発行の『文芸あらい』創刊号に応募した中に、「私のすきな織田作之助先生の『漂流』を参考にして私風に作った」と断る、少しだけ変えたような作品が掲載されている。編集委員は、原作もこの事件も知らなかったのかも知れない。私も、「夫婦善哉」や、戦後の新聞連載小説の、作之助の全く別のイメージから、関心がなかった。それは、例えば『織田作之助名作全集』(全十五巻・現代社)にも含まれていない。本書に再録したのは、あまり知られていない織田作の作品の紹介を兼ねて、この作品の主題となっている、これまた新居の人が忘れかけている江戸時代の驚異の事件を知って頂くためにこの上ないと思うからである。
 それにしても織田作之助がこのような題材を取った動機は何だったろうか。その間太平洋戦争が済んだ三十年以上あとの昭和四十七年、同四十九年になって、その昔、南洋で長期孤独の生活をして、この甚八、仁三郎、平三郎と同じように、奇跡的に帰還した、グアム島の横井伍長、ルバング島の小野田少尉のような人が出るとは、思いもしなかったであろう。執筆時期から見て、戦争末期日本の窮乏生活を想定したわけでもないと思う。
 ところで、終戦後何年かを経て帰還した旧日本兵には、我が新居町にも同じような人が一人あった。それは新居町の同じく源太山町出身で池田泰平(やすへい)さん(現在町内上田町在住)で、氏は昭和二十年、ソロモン諸島付近でアメリカ潜水艦により乗艦が撃沈され、五十人中十数人が泳いでガダルカナル島近くの島に上陸(数名死亡)、山中の洞窟で九人がヘビや野豚を捕食するなどして生き延びた。昭和二十四年現地人に救出されて帰還(掛川市の人と二人)新居へ帰って自分の墓標を担いでいる写真が中日新聞に載ったことがある。
 織田にはもう一つ、日本海からカムチャツカ半島に漂着し、ロシアの皇帝に会った日本人を扱った「異郷」という小説がある。モデルは伊勢白子村の大黒屋光太夫で、それが大阪の商人デンベとなっているが、全くの創作だという。それと比べると、「漂流」は八〇パーセント以上忠実な実話で、実質ノンフィクション・ストーリーだった【註1】。この享保・元文の遠州新居の三人の事をどこで聞いたのだろうか。織田は昭和十二年直木賞を受賞した井伏鱒二の伝記小説、「ジョン万次郎漂流記」の刺激を受けたのだと言われる(『織田作之助文芸事典』)が、明治二十六年(一八九三)には石井研堂『日本漂流譚』第二輯に「遠州船無人島物語」があったので、それなどを見ていると思われる。しかし執筆の動機には井伏、織田両人ともに、大正末から昭和初期にかけて日本で定着した、ロビンソン・クルーソー物語(日本では最初一九一七=大正六年発売)の影響は否めないだろう。年代がそれを物語っている。
 小説は、冒頭、江戸城での平三郎口上から始まっているが、それは元文四年の江戸城吹上御庭での取り調べ書(「資料」参照)を典拠としている。私は、新居の平三郎達については初め、プロの作家によって小説化されると良いなと考えていたが、既に織田作之助によって見事に試みられていたのだと知って意外だった。だがそれは開戦直後だったため時機を失していたのである。本書でこの作品の再録により、あらためて江戸時代新居人の世界稀の記録―絶海の孤島鳥島でのサバイバル―を、不撓不屈の精神で乗り越えた人々の助け合いの物語として、広く長く伝えたい。
【註1】小説においては甚八、平三郎が故郷の妻を思うところがあるが、事実(帰郷してからの取り調べ)では、甚八に妻子があっても、平三郎には妻子がなかったことが述べられているから、そこらが違うわけである。
 
(3)ロビンソン・クルーソーとの違い
 あまりにも有名なロビンソン・クルーソーの物語は、一八世紀の大英帝国絶頂期の人気作家ダニエル・デフォー(一六六〇?〜一七三一)の原題『ヨークの水夫、ロビンソン・クルーソーの生涯と驚くべき冒険』(一七一九出版。ヨークはイギリス北東部の地名)で、実在のモデルが存在する小説(創作)であった。それが世界的な名声を得るにつれて、題名、内容とも、各種アレンジを生んで、児童書を始め、日本だけでも無数の出版物が出された。私なども昭和初期の「少年倶楽部」の連載・南洋一郎(みなみよういちろう)「緑の無人島」を、古い本で読んだ覚えがある。その他類書、文学研究書無数が流布し、「絶海の孤島漂着の生活」は世界的な関心を呼んだ。日本で特に有名になったのは、日本が太平洋に面した海洋国だったからである。しかし、実は偶然にも全くの同時期、正しくはその頃(一七一九〜一七三九)に、同じようなことが、遠い東洋の日本にもあって、小説や芝居で江戸中の大評判となった事件があったのである。それが織田作之助によって書かれた「漂流」である。今、実話・新居の三人は忘れかけられているが、基本的に作り話のR・クルーソーの話に比べると、こちらは、はるかに感動的で純粋である。
 クルーソーのモデルは、スコットランドの船員、アンドリュー・セルカーク(一六七六〜一七二一)で、船員は船員でも海賊船の乗組員つまり海賊だった。仲間の喧嘩から無人島に置き去りされて、四年四ヶ月を経て救出された(一七一〇年頃?)が、その後各地で行った経験談報告会(当時の海賊船はイギリスでは調達船といい、英国の国策で容認されていたので英雄視された)をデフォーがヒントにしたと言われている。島は無人島と言っても、カリブ海のトリニダード諸島の内の一つでオリノコ川河口から一キロ足らずの沖合いの島に過ぎなかった(今、ロビンソンクルーソー島という名の島は南米チリの沖合七〇〇キロの島であるが、クルーソーとは関係なく、観光のため名付けられた)。また、漂流年月もR・クルーソーの二十八年二ヶ月は創作でしかない。この物語が世界的ベストセラーとなった背景には、当時絶頂期にあった大英帝国がある。小説の「絶海の孤島」体験の出発点からして、「コロンブスのように余人の及ばぬ発見、冒険をして名声を上げる」という、名誉心、功名心から始まったもので、動機が不純である。島の蛮人(原住民)一人を部下(奴隷)とする主人公が、蛮人達と戦争までするなど、第一、二次大戦前の古い大英帝国的な発想で、現代の常識では許されないことである。大戦後、アフリカや東南アジア各国の独立や人権意識発達と共に、R・クルーソー物語が、子供の物語世界からも影を潜めた。織田の小説は、始めからそのような視点はなく、基本的には平和な話だったから、ドラマ性のテレビ向きには地味、それで今目、忘れられているような感じである。
 私は郷土の地元人間として、おおぜいの人達にこの話を知って欲しいと思っている。


前ページ 目次へ 次ページ





日本財団図書館は、日本財団が運営しています。

  • 日本財団 THE NIPPON FOUNDATION