漂流
織田作之助
(復刻)
漂流した十二人のうち、最後まで生き残ったのは僅か三人であった。楫(かじ)取りの甚八(じんぱち)に、水主(かこ)の仁三郎(にさぶろう)と平三郎(へいざぶろう)である。
右の三人は、生国はいずれも遠州荒井村。代々禅宗を宗旨としていた旨、口上書の写しに見えている。筒山五兵衛(つつやまごへえ)の持船で生れ故郷の荒井を船出したのは、享保(きょうほう)亥(い)年の秋の頃であった。当時甚八は四十六歳、仁三郎は四十歳の、いずれも男盛りであったが、漂流の後八丈島へ無事に帰って来たのは二十一年振りの元文(げんぶん)未(ひつじ)年であったというからには、もう甚八は六十を七つも過ぎ、また仁三郎も本卦(ほんけ)の六十一歳、それぞれ年相応に耄碌(もうろく)して記憶も覚束なく、耳も聾(ろう)していたので、江戸城内吹上上覧所で御取調べがあった時、満足に応答も出来ず、故に主として若い平三郎が代って口上することにした。平三郎は漂流当時二十一歳、戻って来たのは四十二歳、記憶もたしかで、無論耳も良く聴え、口調も甚だ明快であった。
以下は平三郎が述べた口上である。
平三郎にござります。
はい。算用見積りますれば、当年とって四十二歳に相成ります。御覧の通り、面やつれは致しておりますが、四十二歳でござります。
御覧の通り、眼も落ち窪んでおります。頬骨も立っております。皺(しわ)も寄っております。眉毛も白うなっておりますが、これは永年の憂き暮らしのせいにござります。まだ私若うござりまする証拠には、この通り歯は全部櫛の目のように生え揃うております。いや、見苦しく歯などむき出しまして、なんともひつれ致しました。
ありていに申し上げますると、私いまだ身体も気も若うござります。記憶(おぼえ)もたしかにござります。ちょっとも耄碌はいたしおりません。私十八歳で娶りましたが、はい、お政と申す女めにござります。お政十六にござりました。鼻の横にちいさいちいさいほくろござりまして、これは人様には見えず、私ひとり見つけ出しまして、お政たいへんそのことを気に病みましたかのようにござります。ほんにちいさいほくろにござりまして、ちょっと見には雀斑(そばかす)のように見えました故、なにも大騒ぎに、お前は鼻の横にほくろがあって見苦しいなど、申すほどのこともござりませなんだ。想えば、お政に気の毒いたしました。はい。
そんな些細なことも記憶いたしております。それほど、私物おぼえはしっかりしております。なにもかもちゃんと記憶しております故、私吹き流されました一部始終、甚八、仁三郎にかわって口上仕り(つかまつり)ます。何なりとおきき下さりませ。
はいはい。ここに下田御番所御切手所持いたして居ります通り、私共は遠州荒井筒山五兵衛船に乗り込みましたに紛れござりません。船頭左太夫(さだゆう)、水主共九人で乗り出しまして、江戸表にて増水主(ましかこ)二人頼みまして、以上十一人乗り組みになりまして、享保四亥年秋の頃でござりましたか、仙台荒浜で御城米積み請けまして、上乗一人乗りまして、船頭以下都合十二人の乗り組みになりまして、荒浜を出船いたしまして、段々走り申しましたところ、順風たいへん悪くなりました故、銚子口へ入津いたしまして、同所でお役人方御指図をもちまして、御米払いいたしました。右御役人でござりますが、御尋ねにござりますなれど、私共はとんと御名失念いたしました。恐縮にござります。
それより空船にて中南部へのうんちん木積み請けまして、同所を出船いたしまして、仙台小竹浦へ入船いたしまして、同年十一月二十六日、同所を出船いたしました。はい。はい。十一月二十六日に紛れござりません。
段々走り、房州九十九里(浜)へ罷り(まかり)越しましたところ、晦日(みそか)のことでござりました。大西風(にし)に逢いまして、たいへん沖に吹き出されました。次第に浪風強うなりまして、中々船も保ちにくうござりました故、これでは中々たまるまいと、帆柱を捨て、十二人の者共、元結(もとゆい)を払い、龍神に祈誓を掛けましたが、浪風はますますひたとはげしく、一日一夜流されましてござります。船の流れますことは矢よりも早うござりました。
其の節はいずれも船の内に膝を突き立てて坐っておりましたが、流れるに任せて倒れました故みなみなうつ臥しに打ちふしておりました。海上は真暗で何も見えませなんだ。海坊主も見えませなんだ。私うつ臥しに打ちふして、瞼にお政の顔をうかべまして、落涙いたしました。
夜も明け方に成り、風も少々ずつ止みました故、いずれも起き上り、四方を見渡しましたところ、海まんまんとして、どこにとて眼の当てもござりませなんだ。それより日の出に成りまして、あたりはだんだんに明るく成りましたので、ようようと東西南北も相知れるようになりました。
そこでみなみな寄り合いまして、半日一夜の空腹をなんとかして満たしたものかと、談合いたしましたが、何やかや大方のものは、前日の難風最中に海へ流し捨てまして、僅かに飯米は七八俵も船底にござりましたなれど、のみ水はみな揺りこぼれまして皆目ござりませなんだ故、ほとほと思案に困りまして、醜悪な話にござります。皆腹をきゅうきゅう鳴らして居りましたところ、船頭左太夫の申しますことには、
「先ずなま米をかみ、潮でのんどをしめすことにしよう」
荷物を担ぎ無人島に上陸する新居船漂民
(絵・寺崎廣業 石井研堂『日本漂流譚』より)
そこで、私どもそのようにいたしまして、やっと空腹をこらえこらえいたしまして、さて、あわれ人の家のある島でもないものかと、流れ流れながら四方に心をつけて見張っておりましたところ、船の流れ行きます向こうの方に、雲ぎれのようなものが幽か(かすか)に見えました。気のせいでござりまするか、どうやら島山と覚しゅうござりました。雲とは思えませなんだ。なんとしても島山のようでござりました。口々に、
「島じゃ。島じゃ」
命に掛けても、島じゃと申しました。
船の流れ行く方向にござりました故、だんだん近寄ることは必定(ひつじょう)じゃ。とみなみな悦びまして胸をわくわくさせながら、三時(みとき)ほども流れて行きますと、その島の近辺に近寄ることが出来まして、みなみな泪の顔をそむけもせず、
「嬉しいぞ。嬉しいぞ」
と、言い合ったことでござりました。ところが、だんだん近寄るにしたがいまして、本船は岩に当り、浪に打たれ、大方破船いたしまして、夥しく(おびただしく)淦(あか)がはいりまして、おまけにその辺は遠浅の故にござりましたか、一向に動きませなんだ故船底にござりましたてんまを取り出しまして、まず十二人の内五六人も乗り移り、はい、私もその一人にござりました。――竹などは本船にござりました故、それでてんまを漕ぎまして、その島へ上陸いたしました。
そして、五六人で手わけいたしまして、眼を皿にして、水の在所(ありか)はどこじゃ、人の家は見当たらぬかと一心に探しましたが、一時(とき)、二時、到頭水も人家も見つからず、精のない顔で、てんまの傍へ戻って参りまして、半分泣きまして、又々てんまに乗りまして、船足も重く本船へ戻りまして、これこれじゃと、仔細を語っております内、本船もあちこち大分くずれかかりして、破船に間もござりませなんだから、船頭左太夫の申しますことには、
「折角当てにして来た島じゃが、水も人の家もないとあっては、上陸してみたところで、何の益もない。わしはむさい話だが、夢の中で屁を踏んだような、虚ろな気持がして、がっかりした。が、そうは言うてもおられん。この船は追付け破船じゃ。いま半時も保つ(もつ)まい。そうと決まれば、ここはあくまで急いで上陸することじゃ。いっそそれに越した法はあるまい」
言うている内にも、淦がだんだん増して来て、船も大分傾いたと見えました故、手道具や何やかや残っておりました品々を、てんまへ積み込みまして、十二人の者が乗り移りまして、島へ運び上げましたところ、はや其の日も夕方に及びまして、日が傾きまして、七ッ頃と見えました。
そこで、何はともあれ今夜の寝所を見つけねばと、いずれも手わけいたしまして、島の内じゅう見廻りまして、せめてしかるべき木かげなどを尋ねましたが、更にござりませななんだ。
「おうい、見っかった(めっかった)か」
「おうい、見っからん。われの方は見っかったか」
などと言い合っておりますと、むやみに悲しゅうなって参りまして、しまいには、
「この分なら、今夜は馬のように立ちながら眠ることじゃ」
「いやそう悲しむことはない。野良犬のようにそこらで横になって、眠ればとて、いっそ古里の夢が見られまいでもない」
こんな風に声ひそびそと、何ともはや浮かぬ心地でござりましたが、する内、山の中程と覚しいところに、大きな岩穴が見つかりました。また、それより二十間ほど離れたところに、又々一所同じような岩穴がござりました。
天にも登る気持で、はじめの穴の中へ這うてはいりまして、見積りましたところ、二間四方もあるかに存ぜられました。今一つ岩穴の方は、それより少々狭うござりました。はい。どちらも立居など自由に出来るかと見えました。また、以前にもこの島へ吹き流されて来た者があって、ここを仮の住居といたしましたらしい証拠には、少々窪んでおりますところの砂を掘り出して見ますと、下に炭のようなものが見えました。
これはと思い、みなみな暫くその炭のようなものに手を触れたり、鼻をすり寄せて嗅いだりしまして、まぎれもない炭だと、手を見せ合い、鼻の頭の黒いのを、笑い合ったりしました。そして其処(そこ)を又掘りくぼめ、釜などを掛けて焚立所にすることに決めまして、其の穴の中へ、さきに申しました飯米の残りや道具などを運んで居ります内、はや日も暮れてしまいました故、その二つの穴へ六人ずつわかれましたが、其の夜は中々眠る心地もござりませず、夜中同音に念仏など申しておりましたところ、夜が明けました。早々にてんまを繋いで置きましたところへ参り見ましたところ、其の夜も風が余程強く吹きまして、浪の音も殊の外(ことのほか)聞こえたくらいでござりました故、本船もてんまもろともに破船いたして居りました。
かくなる上は、是非もござりませなんだ故、その島に滞在いたしました。もっとも、磯草・魚鳥などはござりましたからこれを食べて居りましたが、飲水は一滴もござりませず、海しおは誠ににがしおでござりました故、一口もたべにくうござりました。それで、昨日本船より持って参りました道具のうち、打桶や小桶を岩山のくぼみに置きまして、天水を溜めて、助命いたしました。其の後、大きな材木が流れ着きましたので、取り上げて、それを釘をもちまして桶のように掘りまして、これへも雨水を溜め囲いまして、飲水にいたしました。
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