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鈴木家(すずきけ)の火戻し(ひもどし)の術(じゅつ)
 昔(むかし)は、焚き火(たきび)をしたときや、煮え(にえ)たぎった鍋(なべ)や鉄瓶(てつびん)などを引っ繰り返した(ひっくりかえした)ときなど、火傷(やけど)をすることが多かった(おおかった)ですね。今(いま)なら急いで(いそいで)病院(びょういん)へということになりますが、昔(むかし)は、そんなとき、『火戻し(ひもどし)の術(じゅつ)』のできる人(ひと)の家(いえ)へ駆け込んだ(かけこんだ)のです。
 火戻し(ひもどし)の術(じゅつ)のできる人(ひと)というのは、八束地区(やつかちく)では、集落毎(しゅうらくごと)に一人(ひとり)ぐらいしかいなかったのですが、その人(ひと)の持つ(もつ)能力(のうりょく)は大きく(おおきく)、不思議(ふしぎ)な呪文(じゅもん)を口(くち)の中(なか)で唱え(となえ)ながら、患部(かんぶ)に水(みず)を振り掛け(ふりかけ)ますと、たちまち火傷(やけど)の熱さ(あつさ)と痛み(いたみ)が消え(きえ)、しかも治った(なおった)後(あと)の皮膚(ひふ)には、ひっつりが残らず(のこらず)、きれいに治った(なおった)のです。
 青木(あおき)の鈴木(すずき)いそさん(屋号(やごう)・儀兵衛(ぎへえ)。一九八六年(ねん)歿(ぼつ)・享年(きょうねん)九十二歳(きゅうじゅうにさい))も、火戻し(ひもどし)の術(じゅつ)を行った(おこなった)一人(ひとり)で、多く(おおく)の人(ひと)を助け(たすけ)ましたが、その秘術(ひじゅつ)は残念(ざんねん)ながら後人(こうじん)に伝え(つたえ)ませんでした。
 秘術(ひじゅつ)と言われる(いわれる)ものは、同じ(おなじ)家(いえ)に住んで(すんで)いるからといって、誰(だれ)でも伝授(でんじゅ)できる訳(わけ)ではなく、また、他人(たにん)が、秘術(ひじゅつ)を行って(おこなって)いる人(ひと)のうわべの作法(さほう)を真似(まね)ても効果(こうか)を現す(あらわす)ことはできないものですが、鈴木(すずき)いそさんが密か(ひそか)に口(くち)の中(なか)で唱えた(となえた)呪文(じゅもん)を、幸(さいわい)にも孫(まご)の鈴木義彦(すずきよしひこ)さんが聞き覚えて(ききおぼえて)いましたので、民俗資料(みんぞくしりょう)になればと、記述(きじゅつ)させて貰い(もらい)ました。
 
 
田嶋家(たじまけ)の火戻し(ひもどし)の術(じゅつ)
 むかし八束(やつか)に、不思議(ふしぎ)な『火戻し(ひもどし)の術(じゅつ)(火傷(やけど)の呪い(まじない))』を行う(おこなう)家(いえ)が何軒(なんけん)かありました。
 しかし、その呪文(じゅもん)や作法(さほう)は、後継者(こうけいしゃ)に口伝(くでん)で授けて(さずけて)いたものでしたから、今(いま)では殆ど(ほとんど)消滅(しょうめつ)してしまいましたが、珍しく(めずらしく)、深名(ふかな)一五七一の田嶋家(たじまけ)に、「やけどふまじない家傳(かでん)」という呪文(じゅもん)を記した(しるした)文書(もんじょ)が残って(のこって)おりますので、貴重(きちょう)な民俗資料(みんぞくしりょう)と考え(かんがえ)公開(こうかい)して貰い(もらい)ました。
 
 
明治十四年(めいじじゅうよねん)(一八八一)八月十四日(はちがつじゅうよっか)
父八百藏(ちちやおぞう)(明治十五年歿(めいじじゅうごねんぼつ))より儀八(ぎはち)(明治四十二年歿(めいじよんじゅうにねんぼつ))に傳ひ(つたひ)、虎松(とらまつ)(昭和十一年歿(しょうわじゅういちねんぼつ))に傳う(つたう)。『深名(ふかな)・田嶋家文書(たじまけもんじょ)』
 
 田嶋家(たじまけ)の火戻し(ひもどし)の術(じゅつ)は、父子相伝(ふしそうでん)の秘術(ひじゅつ)ですから、他人(たにん)が真似ても(まねても)全く(まったく)効果(こうか)は現れません(あらわれません)が、作法(さほう)は次(つぎ)の通り(とおり)です。
 燈明(とうみょう)と線香(せんこう)を焚いた(たいた)神前(しんぜん)に、塩(しお)と米(こめ)を供えて(そなえて)三拝(さんぱい)し、呪文(じゅもん)を口中(こうちゅう)で唱え(となえ)ながら、水差(みずさし)に挿した(さした)笹(ささ)の葉(は)で、清浄(せいじょう)な井戸水(いどみず)を火傷(やけど)の患部(かんぶ)に振り掛け(ふりかけ)ます。
 田嶋家(たじまけ)に、どうして火戻し(ひもどし)の術(じゅつ)が伝わった(つたわった)かの訳(わけ)は、同家(どうけ)の文書類(もんじょるい)から判かる(わかる)のですが、現在(げんざい)の当主(とうしゅ)・田嶋行成(たじまゆきなり)さんより四代前(よんだいまえ)の八百藏(やおぞう)さんが、富士(ふじ)を信仰(しんこう)する神道丸山教(しんとうまるやまきょう)の行者(ぎょうじゃ)だったことによります。八百藏(やおぞう)さんは、何回(なんかい)となく富士(ふじ)に登り(のぼり)、厳しい(きびしい)修行(しゅぎょう)を重ね(かさね)会得(えとく)したのです。以来(いらい)、田嶋家代々(たじまけだいだい)の当主(とうしゅ)が秘術(ひじゅつ)を継ぎ(つぎ)、それを昭和(しょうわ)の終り(おわり)まで行い(おこない)ました。
 
 
夜道安全(よみちあんぜん)の呪文(じゅもん)
 明治(めいじ)の頃(ころ)(一八六八〜一九一二)までは、今(いま)のように電気(でんき)の外灯(がいとう)がありませんから、夜道(よみち)は提灯(ちょうちん)を持って(もって)歩いた(あるいた)のですが、提灯(ちょうちん)に立てる(たてる)ローソクの代金(だいきん)が高かった(たかかった)ので、使う(つかう)のがもったいないと、農村(のうそん)の人(ひと)たちは月明かり(つきあかり)を頼り(たより)に歩く(あるく)こともしました。
 しかし、今(いま)では家(いえ)が建ち並び(たちならび)、賑やか(にぎやか)になっている村(むら)や町(まち)でも、その頃(ころ)は家(いえ)の数(かず)が少なく(すくなく)、道路(どうろ)も狭く(せまく)、更に(さらに)それを覆う(おおう)ように大樹(たいじゅ)が生えて(はえて)いる淋しい(さみしい)場所(ばしょ)が、たくさんありましたから、恐ろしい(おそろしい)追剥(おいはぎ)が出たり(でたり)、人(ひと)を化かす(ばかす)狐(きつね)や狸(たぬき)が出たり(でたり)したのです。そのような場所(ばしょ)を通る(とおる)ときは、安全(あんぜん)に歩ける(あるける)ようにと、何度(なんど)も呪文(じゅもん)を繰返し(くりかえし)唱え(となえ)ながら、急いで(いそいで)歩いた(あるいた)のです。
 
 
 呪文(じゅもん)の最後(さいご)、けんけんとは、狐(きつね)の鳴き声(なきごえ)のことです。つまり、狐(きつね)は出て(でて)こないようにと言って(いって)いるのです。
 


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