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富浦の昔ばなし 第二集
表紙
 太武佐不動縁起に現れる青い衣の童女がモデルとなった富浦の人形劇の竜子姫。(鈴木勇太郎氏撮影)
題字 生稲謹爾
 
ふるさとを想う心の温もり守り続けて欲しい
 富浦町の歴史が刻まれた五〇年の節目の年に、いよいよ周辺六町村の同志と共に「南房総市」を発足させ、新たな飛躍を始めます。この五〇年間に刻まれた富浦の歴史は、生稲謹爾氏が昭和五一年から月間広報誌で連載をスタートした「まちの民話」として書き綴られ、富浦町の財産を守るとともに、ふるさとの温もりを未来の子どもたちに伝えていく役割を担ってまいりました。
 このたび、NPO富浦エコミューゼ研究会が富浦を舞台にした民話集を発刊できますことは、誠に意義深く、新しいまちが誕生した後も富浦町の歴史を後世に伝えるバイブルとして、地域文化の継承に役立てられていくものと思います。
 民話は、先人が築き上げ、伝え続けてきた風土や生活文化を実に軟らかな表現で伝え、ふるさとを愛する心を根付かせる不思議な力があるように思います。
 地域文化の風化が著しく失われつつある今の時代に、このような地域の歴史や魅力を掘り起こし、磨き上げ、保存していく活動は、この土地で生まれ育った人々のふるさとを守り続けるとともに、豊かな心を持ち合わせた人づくりを担うものとして、今後も継続されることを願っております。
 そしてこの民話集が、これから誕生する南房総市の新たな地域文化の創造の糧になることを期待しております。
二〇〇六年三月 富浦町長 遠藤一郎
 
心ゆたかに生きるには
 私たちはふだん、目の前に広がる世界だけに生きていると思っています。そこでは、現実の厳しさに打ちひしがれたり、或は忙しさに追い立てられては嘆くこともしばしばで、『もう、やってられない!』などと逃げ出す人も出てくるほどです。ほんとうにこんな世界だけなのでしょうか?
 実は、もう一つのファンタジー、つまり、現実ではない幻想、或は、おとぎの国と言ってもよいかもしれません。別の世界にも同時に生きることが出来ることを忘れてしまっているのです。
 子ども達は、小さければ小さいほど、毎日の生活の中でのファンタジーの広がる世界が大きく、年令を重ねるに従って、これがだんだんと縮んでゆきます。しかし。成人だといって、明るい希望、自由な飛躍、幸せな幻、そして、たとえ実態はなくても豊かな気分・・・、これらを失ってしまってよいのでしょうか。こうなってしまっては、『心が貧しい』と言われても仕方がありません。
 現実は、ままならないことだらけです。しかし、気分を変えてファンタジーの世界へ移動すれば、そこでは、どんな冒険だって不可能はなし、すぐれた偉人の仲間入りをすることだって簡単。時には大きな失敗をすることがあっても平気、平気。何しろ実際の被害は何もないのですから。この『昔ばなし』に登場する人物画、あなたをこのすばらしい世界へ連れ出して行ってくれるのです。
 著者の生稲謹爾さんは、二〇〇〇年に『富浦昔ばなし』を刊行されました。その郷愁あふれるものがたりは、子ども達ばかりか、広く世の人びとに親しまれてきました。今回の作は、その続編で、富浦エコミューゼ研究会も、校正、その他でわずかながらお手伝いをさせて頂いたことも誇りに思っています。
 生稲さんは、この二つの世界を見事に生きてこられた方で、お話全篇が人柄が出るユーモアにあふれています。この『昔ばなし』を読み、或は語りを聞いた皆さんは、きっと、この世界が昨日よりも、もっと広く、深く、そして明るく、楽しく思えてくることでしょう。
二〇〇六年 三月
NPO 富浦エコミューゼ研究会 代表 鈴木 勇太郎
 
神(かみ)や仏(ほとけ)や信仰(しんこう)の話(はなし)
深名・山岸の出羽三山碑
 
火伏せ(ひぶせ)の愛宕様(あたごさま)
 お正月(しょうがつ)はどこの神社(じんじゃ)も初詣で(はつもうで)の善男善女(ぜんなんぜんにょ)で賑わい(にぎわい)ます。家内安全(かないあんぜん)、商売繁盛(しょうばいはんじょう)など願い事(ねがいごと)は人(ひと)さまざまですが、過ぎた(すぎた)年(とし)の無事(ぶじ)を感謝(かんしゃ)し、新た(あらた)に迎える(むかえる)年(とし)の幸せ(しあわせ)を神(かみ)に祈る(いのる)事(こと)は、たいへん結構(けっこう)な習わし(ならわし)だと思い(おもい)ます。
 記念(きねん)すべき西暦(せいれき)二千年(にせんねん)に当たる(あたる)今年(ことし)(平成十二年(へいせいじゅうにねん))も初詣で(はつもうで)に町一番(まちいちばん)の賑わい(にぎわい)を見せた(みせた)原(はら)の愛宕様(あたごさま)(創建(そうけん)・元亀三年(げんきさんねん)〈一五七二〉)のお話(はなし)をします。
 祭神(さいじん)は香具土命(かぐつちのみこと)と申し上げる(もうしあげる)霊験(れいけん)あらたかな火伏せ(ひぶせ)の神(かみ)で、白馬(はくば)に乗った(のった)勝軍地蔵(しょうぐんじぞう)のお姿(すがた)をしており、不思議(ふしぎ)な伝説(でんせつ)を持ち(もち)ます。原(はら)の集落(しゅうらく)に火災(かさい)が起き(おき)ますと、神官(しんかん)や氏子(うじこ)の目(め)には映り(うつり)ませんが、御霊(みたま)をお祀り(まつり)してある本殿(ほんでん)の扉(とびら)が開く(ひらく)と、続いて(つづいて)神馬(しんめ)の駆け出す(かけだす)音(おと)が聞える(きこえる)と言う(いう)のです。きっと香具土命(かぐつちのみこと)が氏子(うじこ)たちを救おう(すくおう)と社(やしろ)からお出まし(おでまし)になるのでしょうね。
 なお、愛宕様(あたごさま)には創建(そうけん)された当時(とうじ)、白馬(はくば)が神馬(しんめ)として飼われて(かわれて)いましたが、その白馬(はくば)は火災(かさい)を予知(よち)する霊力(れいりょく)を持って(もって)いて、集落(しゅうらく)に火災(かさい)が起き(おき)ますと、修験者(しゅげんじゃ)・正善院(しょうぜんいん)を乗せ(のせ)、鎮火(ちんか)のため社(やしろ)から駆け出た(かけでた)そうです。その白馬(はくば)の毛(け)が社(やしろ)の誰(だれ)も分からぬ(わからぬ)所(ところ)にお祀り(まつり)されているそうですが、不思議(ふしぎ)な事(こと)に今(いま)でも少し(すこし)ずつ伸び続け(のびつづけ)ているというのです。
 
 
岡本(おかもと)の厳島神社(いつくしまじんじゃ)
 岡本地区(おかもとちく)・九(きゅう)〜十番組(じゅうばんぐみ)の守護神(しゅごしん)、厳島神社(いつくしまじんじゃ)の祭典(さいてん)が、今年(ことし)(平成十五年(へいせいじゅうごねん))も縁日(えんにち)の四月十四日(しがつじゅうよっか)の夕刻(ゆうこく)、田代宮司(たしろぐうじ)と氏子(うじこ)によって行われ(おこなわれ)ました。
 小さな(ちいさな)社(やしろ)ですが、海(うみ)で暮らす(くらす)岡本(おかもと)の人(ひと)びとは、昔(むかし)から縁日(えんにち)になりますと、祭神(さいじん)の弁財天(べんざいてん)に航海(こうかい)の安全(あんぜん)と豊漁(ほうりょう)を願って(ねがって)、幟(のぼり)や御神灯(ごしんとう)を吊るした(つるした)丁(ちょう)またぎを神前(しんぜん)へ立て(たて)、盛大(せいだい)に祭典(さいてん)(弁天講(べんてんこう))を続けて(つづけて)来た(きた)のです。
 岡本(おかもと)の厳島神社(いつくしまじんじゃ)の創建(そうけん)された年代(ねんだい)は不明(ふめい)ですが、地元(じもと)の言い伝え(いいつたえ)では、広島県宮島(ひろしまけんみやじま)の末社(まっしゃ)としてお祀り(まつり)し、御霊代(みたましろ)の弁財天像(べんざいてんぞう)は、滋賀県琵琶湖(しがけんびわこ)の弁財天本社(べんざいてんほんしゃ)・竹生島神社(ちくぶじまじんじゃ)から、勧請(かんじょう)したとされています。
 弁財天(べんざいてん)は古代(こだい)インドの河(かわ)の神(かみ)で、後(のち)に学問芸術(がくもんげいじゅつ)を守護(しゅご)した美しい(うつくしい)女神(めがみ)ですが、我が国(わがくに)では福徳賦与(ふくとくふよ)の神(かみ)にもなりましたので、七福神(しちふくじん)の一つ(ひとつ)として信仰(しんこう)されるようになりました。
 御利益(ごりやく)のある神(かみ)ですから全国(ぜんこく)にたくさんお祀り(まつり)されていますが、安芸(あき)(広島県(ひろしまけん))の宮島(みやじま)。大和(やまと)(奈良県(ならけん))の天の川(あまのがわ)。近江(おうみ)(滋賀県(しがけん))の竹生島(ちくぶじま)。相模(さがみ)(神奈川県(かながわけん))の江の島(えのしま)。陸前(りくぜん)(宮城県(みやぎけん))の金華山(きんかざん)の弁財天(べんざいてん)が有名(ゆうめい)で、日本五大弁財天(にほんごだいべんざいてん)と呼ばれて(よばれて)います。
 弁財天(べんざいてん)の像(ぞう)と言えば(いえば)、東洋(とうよう)の弦楽器(げんがっき)である琵琶(びわ)をひいているお姿(すがた)を想像(そうぞう)してしまいますが、岡本(おかもと)の厳島神社(いつくしまじんじゃ)の弁財天像(べんざいてんぞう)は琵琶(びわ)ではなく、左手(ひだりて)に宝珠(ほうしゅ)、右手(みぎて)に福徳(ふくとく)を開く(ひらく)鍵(かぎ)をお持ち(おもち)になっています。
 
祭り(まつり)の砂垢離(すなごり)
 神社(じんじゃ)のお祭り(まつり)になりますと、賑やか(にぎやか)に御輿(みこし)や屋台(やたい)が出ます(でます)が、それに携わる(たずさわる)人(ひと)たちは、自分(じぶん)たちの集落(しゅうらく)をお守り(まもり)下さって(くださって)いる氏神様(うじがみさま)のお祭り(まつり)が無事(ぶじ)に行われる(おこなわれる)よう、先ず(まず)穢(けがれ)を祓う(はらう)儀式(ぎしき)を行い(おこない)ます。
 たとえば、神主(かんぬし)さんに御祓(おはらい)をしていただくとか、清め(きよめ)の盃(さかずき)を交す(かわす)事(こと)などもその一つ(ひとつ)ですが、岡本(おかもと)の稲荷神社(いなりじんじゃ)(祭神(さいじん)・蒼稲魂命(うかのみたまのみこと))の御輿(みこし)を担ぐ(かつぐ)青年(せいねん)たちは、昔(むかし)から本祭り(ほんまつり)の日(ひ)に、「砂垢離(すなごり)」を行って(おこなって)います。
 稲荷神社(いなりじんじゃ)の本祭り(ほんまつり)は七月二十五日(しちがつにじゅうごにち)ですが、その日(ひ)、青年(せいねん)たちは裸足(はだし)になって、朝日(あさひ)の上る(あがる)前(まえ)から浜(はま)に下り(おり)ますと、清浄(せいじょう)な真砂(まさご)(打ち寄せた(うちよせた)波(なみ)が引いた(ひいた)直後(ちょくご)に現れる(あらわれる)砂(すな))を。掌(てのひら)に掬い上げて(すくいあげて)稲荷神社(いなりじんじゃ)へ運び(はこび)、灯籠(とうろう)や御輿(みこし)の御仮屋(おかりや)(渡御(とぎょ)した御輿(みこし)が仮(かり)にとどまる所(ところ))の土台(どだい)へ供える(そなえる)のです。それを三回(さんかい)繰り返し(くりかえし)ます。
 時代(じだい)の流れ(ながれ)と共(とも)に、いろいろな習慣(しゅうかん)が消えて(きえて)いる中(なか)、岡本(おかもと)の青年(せいねん)たちの間(あいだ)に、今(いま)もお祭り(まつり)の時(とき)の砂垢離(すなごり)が続いて(つづいて)いるのは、本当(ほんとう)にすばらしいことです。海岸沿い(かいがんぞい)にある集落特有(しゅうらくとくゆう)の貴重(きちょう)な民俗(みんぞく)ですから、長く(ながく)守って(まもって)もらいたいですね。
 
 
長泉寺(ちょうせんじ)の稚児行列(ちごぎょうれつ)
 平成十二年(へいせいじゅうにねん)(二〇〇〇)の正月六日(しょうがつむいか)、原岡(はらおか)の深広山(しんこうさん)・長泉寺(ちょうせんじ)の大黒天祭(だいこくてんさい)に、華やか(はなやか)な稚児行列(ちごぎょうれつ)がありました。
 戦国時代(せんごくじだい)、里見家(さとみけ)から拝領(はいりょう)した木彫大黒天(もくちょうだいこくてん)像(ぞう)をお祀り(まつり)する、大黒殿(だいこくでん)の新築落慶(しんちくらっけい)を記念(きねん)して行われた(おこなわれた)もので、住職(じゅうしょく)や檀家(だんか)を先導(せんどう)に、美装(びそう)した三十六名(さんじゅうろくめい)の稚児(ちご)が母親(ははおや)などに手(て)を引かれ(ひかれ)、国道沿い(こくどうぞい)の商店街(しょうてんがい)をしゃなりしゃなりと歩いた(あるいた)のです。
 原岡(はらおか)での稚児行列(ちごぎょうれつ)は、金地山(こんじさん)・西方寺(さいほうじ)の本堂落慶式(ほんどうらっけいしき)があった昭和四十八年(しょうわよんじゅうはちねん)(一九七三)以来(いらい)、二十七年(にじゅうななねん)ぶりですから、一目(ひとめ)見よう(みよう)とする大勢(おおぜい)の人(ひと)で賑わい(にぎわい)ました。コースは西方寺(さいほうじ)の時(とき)、同じ(おなじ)浄土宗(じょうどしゅう)の関係(かんけい)から長泉寺(ちょうせんじ)よりスタートして西方寺(さいほうじ)に向かい(むかい)ましたので、今度(こんど)はその時(とき)の返礼(へんれい)の形(かたち)を取り(とり)、西方寺(さいほうじ)から長泉寺(ちょうせんじ)へ向かって(むかって)の行列(ぎょうれつ)でした。
 稚児行列(ちごぎょうれつ)は神社(じんじゃ)や寺院(じいん)の祭礼(さいれい)とか法会(ほうえ)に、きらびやかな冠(かんむり)や衣装(いしょう)を身(み)にまとった、男女児童(だんじょじどう)の行列(ぎょうれつ)を言い(いい)ますが、多く(おおく)の費用(ひよう)を必要(ひつよう)としますので、どこの社寺(しゃじ)でも百年(ひゃくねん)に一回(いっかい)あるか無い(ない)かです。安房全域(あわぜんいき)でもめったに行われ(おこなわれ)ません。ですから、長泉寺(ちょうせんじ)の稚児行列(ちごぎょうれつ)に参加(さんか)できた児童(じどう)はたいへんな幸せ者(しあわせもの)です。仏(ほとけ)の加護(かご)によって、すばらしい人生(じんせい)を送る(おくる)事(こと)ができるでしょう。
 
豊岡(とよおか)の祭り(まつり)屋台(やたい)
 豊岡(とよおか)の大宮八幡神社(おおみやはちまんじんじゃ)の祭り(まつり)屋台(やたい)は、鯛(たい)と、珍しい(めずらしい)枇杷(びわ)の彫り物(ほりもの)で飾られて(かざられて)います。
 枇杷(びわ)の彫り物(ほりもの)を珍しい(めずらしい)と言った(いった)のは、めったに無い(ない)からですが、その訳(わけ)は、昔(むかし)から「枇杷(びわ)を屋敷(やしき)に植える(うえる)と病人(びょうにん)が絶えない(たえない)。」「枇杷(びわ)の木(き)から落ちる(おちる)と早死(はやじに)にする。」「枇杷(びわ)で作った(つくった)木刀(ぼくとう)で打たれる(うたれる)と、そこが腐る(くさる)。」などの俗信(ぞくしん)があったため、縁起(えんぎ)の悪い(わるい)植物(しょくぶつ)とされ、彫り物(ほりもの)の対象(たいしょう)にならなかったからです。
 しかし豊岡(とよおか)の人(ひと)たちは、そんな俗信(ぞくしん)をはね除け(のけ)、自分(じぶん)たち地域(ちいき)の、農業(のうぎょう)は枇杷栽培(びわさいばい)、漁業(ぎょぎょう)は鯛漁(たいりょう)が発展(はってん)の元(もと)だと考え(かんがえ)、屋台(やたい)を作る(つくる)とき彫り物(ほりもの)にそれを選んだ(えらんだ)のです。日本(にっぽん)が大東亜戦争(だいとうあせんそう)に負けて(まけて)間(ま)も無い(ない)頃(ころ)の話(はなし)ですが、豊岡(とよおか)の人(ひと)たちの心意気(こころいき)は大した(たいした)ものだったですね。
 普通(ふつう)の屋台(やたい)の彫り物(ほりもの)は、「昇り竜(のぼりりゅう)・下り竜(くだりりゅう)・鯉(こい)の滝登り(たきのぼり)・鶴(つる)・亀(かめ)・三蓋松(さんがいまつ)・能(のう)の翁(おきな)・二十四孝(にじゅうしこう)」などに決って(きまって)いますので、製作(せいさく)を頼まれた(たのまれた)千倉(ちくら)の彫り物師(ほりものし)は驚いた(おどろいた)そうですが、豊岡(とよおか)の望み(のぞみ)通り(どおり)、「大鯛二匹(おおだいにひき)を天秤棒(てんびんぼう)で担ぐ(かつぐ)恵比寿(えびす)・総生り(ふさなり)の枇杷(びわ)に囲まれた(かこまれた)大黒天(だいこくてん)や弁財天(べんざいてん)」など、日本(にっぽん)に一台(いちだい)しかないと思われる(おもわれる)、枇杷(びわ)の彫り物屋台(ほりものやたい)を作り上げて(つくりあげて)くれました。
大宮八幡神社(おおみやはちまんじんじゃ)の来歴(らいれき)
 大宮八幡神社(おおみやはちまんじんじゃ)(豊岡(とよおか)・宮ノ台(みやのだい))の創建(そうけん)は古く(ふるく)、後鳥羽天皇(ごとばてんのう)の元暦元年(げんりゃくがんねん)(一一八四)八月十五日(はちがつじゅうごにち)と言われ(いわれ)、祭神(さいじん)は誉田別命(ほんだわけのみこと)です。戦国時代(せんごくじだい)には大宮明神(おおみやみょうじん)と呼ばれ(よばれ)、里見義康(さとみよしやす)・忠義(ただよし)から岡本村(おかもとむら)で五石(ごこく)の社領(しゃりょう)が寄進(きしん)されました。祭礼(さいれい)は七月二十四(しちがつにじゅうよん)・二十五日(にじゅうごにち)で、集落(しゅうらく)を屋台(やたい)が賑わせ(にぎわせ)ます。
 
 
正覚寺本尊(しょうがくじほんぞん)の彩色木牌(さいしきもくはい)
 平安時代(へいあんじだい)の寛弘三年(かんこうさんねん)(一〇〇六)に創建(そうけん)されたという、豊岡(とよおか)の仏法山正覚寺(ぶっぽうさんしょうがくじ)に、本尊正観世音菩薩像(ほんぞんしょうかんぜおんぼさつぞう)の修理(しゅうり)を記述(きじゅつ)した木牌(もくはい)が保管(ほかん)されています。
 百年(ひゃくねん)を遙か(はるか)に過ぎた(すぎた)木牌(もくはい)ですから、虫食い(むしくい)がひどく、消滅寸前(しょうめつすんぜん)になっていますが、判読(はんどく)しますと、正覚寺(しょうがくじ)の住職(じゅうしょく)や檀徒(だんと)たちが行基菩薩(ぎょうきぼさつ)のお作り(つくり)になった尊像(そんぞう)を、破損(はそん)の度(たび)に修理(しゅうり)し、幸福(こうふく)と御利益(ごりやく)を願った(ねがった)事(こと)が分かり(わかり)ます。
 富浦町内(とみうらちょうない)の寺院(じいん)は、火災(かさい)や関東大震災(かんとうだいしんさい)などの大被害(だいひがい)を受けた(うけた)寺院(じいん)ばかりで、古い(ふるい)史料(しりょう)が多く(おおく)残って(のこって)いませんから、正覚寺(しょうがくじ)のそれは貴重(きちょう)なものと言え(いえ)ます。後世(こうせい)に伝える(つたえる)一助(いちじょ)になればと、原文(げんぶん)のままを書き写し(かきうつし)ました。
 
 
正覚寺(しょうがくじ)の震災記録(しんさいきろく)
 豊岡(とよおか)の正覚寺(しょうがくじ)から関東大震災(かんとうだいしんさい)の様子(ようす)を記した(しるした)杉(すぎ)の板(いた)(頭部山形(とうぶやまがた)、縦六十センチ(たてろくじゅっセンチ)・横二十センチ(よこにじゅっセンチ)が発見(はっけん)されました。
 灯明(とうみょう)の煙(けむり)で全面(ぜんめん)黒く(くろく)染まって(そまって)いますので、判読(はんどく)に苦労(くろう)しますが、当時(とうじ)の被害(ひがい)や復興状況(ふっこうじょうきょう)がわかる貴重(きちょう)な史料(しりょう)です。平成十四年(へいせいじゅうよねん)(二〇〇二)正月(しょうがつ)に、町公民館(まちこうみんかん)で開催(かいさい)された「第四十回(だいよんじゅっかい)さざ波(なみ)フェステバルとみうら」の、文化財展(ぶんかざいてん)に展示(てんじ)しましたので原文(げんぶん)のままを書き写し(かきうつし)ました。正覚寺(しょうがくじ)の住職(じゅうしょく)や檀家惣代(だんかそうだい)の震災(しんさい)に対する(たいする)驚き(おどろき)や苦悩(くのう)も読み(よみ)とってください。
 
(拡大画面:102KB)
 
 
石小浦(いしごうら)の金毘羅様(こんぴらさま)
 金毘羅様(こんぴらさま)は、航海(こうかい)の安全(あんぜん)を守る(まもる)神様(かみさま)ですから、海(うみ)に近い(ちかい)集落(しゅうらく)には必ず(かならず)お祀り(まつり)されています。
 金毘羅様(こんぴらさま)とは、どんな神(かみ)なのかと言い(いい)ますと、元(もと)は、インドのガンジス河(がわ)に棲む(すむ)鰐(わに)(クンピーラ)が神格化(しんかくか)して、仏法(ぶっぽう)の守護神(しゅごしん)になったといわれておるのですが・・・。
 しかし、房州(ぼうしゅう)では昔(むかし)から金毘羅様(こんぴらさま)の正体(しょうたい)は鰐(わに)でなく、甲殻(こうかく)が一丈(いちじょう)(約(やく)三(さん)メートル)余り(あまり)もある大きな(おおきな)蟹(かに)だと言い(いい)、信者(しんじゃ)が海難(かいなん)に遭い(あい)そうになりますと、助けて(たすけて)くれると信じられて(しんじられて)いるのです。
 なぜ神(かみ)の正体(しょうたい)に変化(へんか)があったのか分かり(わかり)ませんが、金毘羅様(こんぴらさま)の正体(しょうたい)が本当(ほんとう)に蟹(かに)なら、南無谷石小浦(なむやいしごうら)の、天栄丸(てんえいまる)という漁船(ぎょせん)を所有(しょゆう)する石井家(いしいけ)の、江戸時代(えどじだい)の人(ひと)が、四国(しこく)・讃岐(さぬき)(香川県(かがわけん))の金毘羅大権現(こんぴらだいごんげん)(今(いま)の金毘羅宮(こんぷらぐう))の分霊(ぶんれい)を、海沿い(うみぞい)に横穴(よこあな)を掘って(ほって)お祀り(まつり)した金毘羅様(こんぴらさま)が、一番(いちばん)理想的(りそうてき)な祀り方(まつりかた)をしてあったと言え(いえ)ます。
 大正十二年(たいしょうじゅうにねん)(一九二二)の地震(じしん)により、陸地(りくち)が隆起(りゅうき)するまでは、金毘羅様(こんぴらさま)の横穴(よこあな)には何時(いつ)も波(なみ)が打ち寄せ(うちよせ)、まるで大きな(おおきな)蟹(かに)の棲み処(すみか)のようだったと、語り継がれて(かたりつがれて)いるからです。
 なお、石小浦(いしごうら)の金毘羅様(こんぴらさま)のお籠り(こもり)は、「正(しょう)・五(ご)・九(く)」、つまり正月(しょうがつ)と五月(ごがつ)と九月(くがつ)の十日(とおか)に行われ(おこなわれ)ます。
 


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