■管弦楽(かんげんがく) 東京交響楽団(とうきょうこうきょうがくだん)
1946年(ねん)に創立(そうりつ)された日本(にっぽん)を代表(だいひょう)するオーケストラ。長年(ながねん)にわたる優れた(すぐれた)音楽活動(おんがくかつどう)にたいして、毎日音楽賞(まいにちおんがくしょう)や文部大臣賞(もんぶだいじんしょう)、音楽の友社賞(おんがくのともしゃしょう)、京都音楽賞(きょうとおんがくしょう)、毎日芸術賞(まいにちげいじゅつしょう)、モービル音楽賞(おんがくしょう)、サントリー音楽賞(おんがくしょう)など数々(かずかず)の賞(しょう)を受賞(じゅしょう)。また、フランス・オーヴィディス社(しゃ)からCDが全世界発売(ぜんせかいはつばい)されるなど、海外(かいがい)での評価(ひょうか)も高い(たかい)。1978年(ねん)からこどもたちに音楽(おんがく)の楽しさ(たのしさ)、すばらしさを知って(しって)もらうことを目指して(めざして)『少年少女(しょうねんしょうじょ)のための春休み(はるやすみ)/夏休み(なつやすみ)コンサート』『オーケストラ名曲館(めいきょくかん)』『名曲(めいきょく)の旅(たび)』を開き(ひらき)、多く(おおく)のこどもたちと交流(こうりゅう)してきた。
コンサートマスター
大谷康子
グレブ・ニキティン
アシスタント・コンサートマスター
田尻 順
廣岡克隆
第1ヴァイオリン
石沢美都
大和田ルース
小川敦子
加藤幸子
木村正貴
小林亮子
立岡百合恵
日野 奏
藤原 真
堀内幸子
宮本 睦
吉川万理
第2ヴァイオリン
板垣琢哉○
清水泰明○
坂井みどり○
阿部真弓
上原末莉
内田史子
小川さえ子
塩谷しずか
野村真澄
宮原祐子
渡辺裕子
ヴィオラ
西村眞紀○
武生直子○
安藤史子
大野順二
加護谷直美
小西応興■
中山 智
永井聖乃
松崎里絵
森みさ子
山廣みほ
チェロ
ベアンテ・ボーマン○
音川健二○
大塚正昭
アデル・亜貴子・カーンス
川井真由美
黄原亮司
謝名元民
鷹栖光昭
馬場隆弘
コントラバス
笠原勝二○
渡辺哲郎○
加藤信吾○
小林照雄
菅野明彦
久松ちず
フルート
相澤政宏○
甲藤さち○
高野成之
中川 愛
オーボエ
杉浦直基○
池田 肇○
篠崎 隆
福井貴子
クラリネット
十亀正司○
エマニュエル・ヌヴー○
小林利彰
ファゴット
大埜展男○
福井 蔵○
内田秋雄
千村雅信
ホルン
竹村淳司○
ジョナサン・ハミル○
甲田幹雄○
大和田浩明
阪本正彦
曽根敦子
トランペット
アントニオ・マルティ○
大隅雅人
野沢岳史
前田健一郎
トロンボーン
荻野 昇○
若狭和良○
上原規照
宮本直樹
テューバ
渡辺 功○
ティンパニ&パーカッション
奥田昌史○
新澤義美○
天野佳和
塚田吉幸■
栄誉団員
岩澤康裕
○ 首席奏者
■ インスペクター
永久名誉指揮者
アルヴィド・ヤンソンス
上田 仁
遠山信二
桂冠指揮者
秋山和慶
音楽監督
ユベール・スダーン
常任指揮者
大友直人
正指揮者
飯森範親
有田 栄(ありた さかえ)(音楽学(おんがくがく))
チャイコフスキー作曲(さっきょく) 交響曲(こうきょうきょく)第(だい)6番(ばん) ロ短調(たんちょう)『悲愴(ひそう)』第(だい)2楽章(がくしょう)
オペラやバレエの作曲家(さっきょくか)として有名(ゆうめい)なピョートル・チャイコフスキー(1840-93)は、ロシアの人々(ひとびと)に最も(もっとも)愛されて(あいされて)いる作曲家(さっきょくか)です。チャイコフスキーは、10歳(さい)の時(とき)にはじめて劇場(げきじょう)でオペラを見て(みて)感激(かんげき)し、「ぼくも音楽家(おんがくか)になろう」と決心(けっしん)したのだそうです。けれどもチャイコフスキーの家(いえ)はけっして裕福(ゆうふく)ではなかったので、彼(かれ)は家族(かぞく)の生活(せいかつ)をささえるために、まずペテルブルクの法律(ほうりつ)の学校(がっこう)に行き(いき)、卒業(そつぎょう)してすぐ役所(やくしょ)で働き(はたらき)はじめました。それでもどうしても夢(ゆめ)があきらめられず20歳(さい)の時(とき)、ついに音楽学校(おんがくがっこう)に入って(はいって)本格的(ほんかくてき)な音楽(おんがく)の勉強(べんきょう)をはじめたのでした。
苦労(くろう)して音楽(おんがく)の勉強(べんきょう)をしたチャイコフスキーが、一番(いちばん)尊敬(そんけい)していた作曲家(さっきょくか)は、ベートーヴェンでした。耳(みみ)がきこえなくなるという苦しい(くるしい)病気(びょうき)をのりこえて、音楽(おんがく)を書き(かき)つづけたベートーヴェンの交響曲(こうきょうきょく)を、彼(かれ)はいつもお手本(てほん)にしていました。きいていただく『交響曲(こうきょうきょく)第(だい)6番(ばん)』は、チャイコフスキーが最後(さいご)に書いた(かいた)オーケストラ作品(さくひん)です。この曲(きょく)を演奏会(えんそうかい)で演奏(えんそう)したわずか9日後(かご)に、彼(かれ)はとつぜんこの世(よ)を去って(さって)しまいました。
ベートーヴェンと同じ(おなじ)ように、チャイコフスキーもこの曲(きょく)で、「人間(人間)」や「人生(じんせい)」を描こう(えがこう)としたのだと言われて(いわれて)います。人(ひと)の一生(いっしょう)には、希望(きぼう)に満ちた(みちた)時(とき)もあれば、失敗(しっぱい)し、希望(きぼう)を失って(うしなって)、つらく悲しい(かなしい)思い(おもい)をする時(とき)もあります。孤独(こどく)な時(とき)もあります。けれどもそれが人生(じんせい)というものなのだ――というチャイコフスキーは、自分(じぶん)の音楽(おんがく)の中(なか)でそうした思い(おもい)を表わそう(あらわそう)としています。 第(だい)2楽章(がくしょう)は、「4分(ぶん)の5拍子(びょうし)」という、とてもめずらしい拍子(ひょうし)を持って(もって)います。「愛(あい)」を表わした(あらわした)というこの曲(きょく)は、まるで夢(ゆめ)の中(なか)の舞踏会(ぶとうかい)のように、美しく(うつくしく)優雅(ゆうが)な音楽(おんがく)です。
ショスタコーヴィチ作曲(さっきょく) 交響曲(こうきょうきょく)第(だい)5番(ばん)ニ短調(たんちょう)第(だい)4楽章(がくしょう)
20世紀(せいき)のロシアを代表(だいひょう)する作曲家(さっきょくか)、ドミートリ・ショスタコーヴィチ(1906-75)は、ペテルブルク生まれ(うまれ)。彼(かれ)がこどものころ、ロシアはまだ、皇帝(こうてい)や貴族(きぞく)たちが支配(しはい)する国(くに)でした。やがて革命(かくめい)(社会(しゃかい)が大きく(おおきく)変わる(かわる)こと)が起き(おき)、ロシアは「ソビエト社会主義共和国連邦(しゃかいしゅぎきょうわこくれんぽう)(ソ連(れん))」という国(くに)になりました。この新しい国(あたらしいくに)では、王(おう)や貴族(きぞく)ではなく、農場(のうじょう)や工場(こうじょう)で働く(はたらく)ふつうの人々(ひとびと)が一番(いちばん)大切(たいせつ)だ、一番(いちばん)えらいのだとされていました。ですから、体(からだ)を動かし(うごかし)、汗(あせ)を流して(ながして)働く(はたらく)のではない芸術家(げいじゅつか)(本当(ほんとう)はそんなことはないのですが)は、なによりもまず、そうしたふつうの人々(ひとびと)のため、国(くに)のために、作品(さくひん)を作ったり(つくったり)、演奏(えんそう)したりしなければならない、というのです。一見(いっけん)、それは当たり前(あたりまえ)のことに思え(おもえ)ますよね。たくさんの人々(ひとびと)みんなのために音楽(おんがく)ができたら、どんなによいでしょう。
ところが、それを命令(めいれい)したスターリンという人(ひと)や、その仲間(なかま)の人(ひと)たちが考えて(かんがえて)いたのは、芸術家(げいじゅつか)たちが自由(じゆう)に活動(かつどう)できなくすることでした。芸術家(げいじゅつか)は、心(こころ)に感じる(かんじる)ままに、自由(じゆう)に物(もの)を言ったり(いったり)、表現(ひょうげん)したりする人々(ひとびと)。時(とき)には、するどい皮肉(ひにく)や、人(ひと)が秘密(ひみつ)にしておきたい真実(しんじつ)さえも、芸術(げいじゅつ)に変えて(かえて)しまいます。だれがなんと言おう(いおう)と、芸術家(げいじゅつか)は、自分(じぶん)の信じる(しんじる)道(みち)を走って行こう(はしっていこう)とします。そんな彼ら(かれら)が、芸術(げいじゅつ)の力(ちから)で自分(じぶん)を批判(ひはん)することを、スターリンたちはなにより恐れて(おそれて)いました。そこで、芸術家(げいじゅつか)たちをいつも監視(かんし)し、すこしでも言う(いう)ことを聞かな(きかな)かったり、ふざけたことを言った(いった)り、あやしいことをする者(もの)は、すぐに捕らえ(とらえ)、閉じ(とじ)こめたり、殺して(ころして)しまったりしたのです。
ショスタコーヴィチが生きて(いきて)いたのは、そういう時代(じだい)でした。そして彼自身(かれじしん)も、自分(じぶん)や家族(かぞく)の命(いのち)が危ない(あぶない)と思う(おもう)瞬間(しゅんかん)を、何度(なんど)も経験(けいけん)したのです。けれどもショスタコーヴィチは、それに負けず(まけず)いつも知恵(ちえ)をめぐらして、結局(けっきょく)は自分(じぶん)の理想(りそう)とする音楽(おんがく)を書き(かき)とおしていったのです。この交響曲(こうきょうきょく)第(だい)5番(ばん)は、そんなショスタコーヴィチのパワーを、よく表わして(あらわして)いるのではないでしょうか。
グリンカ作曲(さっきょく) オペラ『ルスランとリュドミラ』序曲(じょきょく)
ミハイル・グリンカ(1804-57)が生まれ育った(うまれそだった)のは、スモレンスクという町(まち)の近く(ちかく)の農村(のうそん)です。グリンカの父(ちち)はとてもお金持ち(おかねもち)で、そこに広い(ひろい)領地(りょうち)を持って(もって)いました。こどものころのグリンカは、ばあやが教えて(おしえて)くれるロシアの昔話(むかしばなし)や、村(むら)の農民(のうみん)たちの楽しい(たのしい)歌(うた)や踊り(おどり)が大好き(だいすき)でした。家庭教師(かていきょうし)の先生(せんせい)は、彼(かれ)が、ほかの勉強(べんきょう)を忘れて(わすれて)音楽(おんがく)にばかり夢中(むちゅう)になっている、と言って(いって)しかりましたが、グリンカはこう答えた(こたえた)そうです。「だって先生(せんせい)、音楽(おんがく)は、ぼくの魂(たましい)なんです」。やがてグリンカは、学校(がっこう)に通う(かよう)ため、ペテルブルクに引っ越し(ひっこし)ます。そしてこの町(まち)で、友人(ゆうじん)となるおおぜいの芸術家(げいじゅつか)たちと出会う(であう)のです。
グリンカはいつも、自分(じぶん)に音楽(おんがく)を教えて(おしえて)くれたロシアの人々(ひとびと)のために、自分(じぶん)にしか書けない(かけない)音楽(おんがく)を書こう(かこう)と考えて(かんがえて)いました。『ルスランとリュドミラ』は、ロシアの民話(みんわ)の物語(ものがたり)をもとにしたオペラ。この作品(さくひん)が上演(じょうえん)された時(とき)、人々(ひとびと)は、「ロシアの土(つち)から美しい(うつくしい)花(はな)が咲いた(さいた)!」とほめたたえました。――むかしロシアの王様(おうさま)には、リュドミラという美しい(うつくしい)姫(ひめ)がいました。3人(にん)の若者(わかもの)が姫(ひめ)に結婚(けっこん)を申しこみ(もうしこみ)、勇者(ゆうしゃ)ルスランが選ばれ(えらばれ)ますが、なんと結婚式(けっこんしき)の最中(さいちゅう)に、リュドミラ姫(ひめ)は悪魔(あくま)にさらわれていってしまいます。ルスランは悪魔(あくま)を追って(おって)城(しろ)に乗り込み(のりこみ)、みごと姫(ひめ)を救い出し(すくいだしいだし)ます。
お聴き(きき)いただくのは、オペラのはじめにオーケストラだけで演奏(えんそう)される「序曲(じょきょく)」という部分(ぶぶん)。オペラの中(なか)のいろいろな場面(ばめん)の音楽(おんがく)が使われて(つかわれて)います。最初(さいしょ)の華やか(はなやか)な部分(ぶぶん)は、ルスランとリュドミラが悪魔(あくま)をたおしてめでたく結婚(けっこん)する場面(ばめん)。そのほかにも、ルスランが登場(とうじょう)する場面(ばめん)や、悪魔(あくま)が登場(とうじょう)する場面(ばめん)の音楽(おんがく)が出て(でて)きます。
リムスキー=コルサコフ作曲(さっきょく) 交響組曲(こうきょうくみきょく)『シェエラザード』第(だい)3楽章(がくしょう)「若い(わかい)王子(おうじ)と王女(おうじょ)」
ニコライ・リムスキー=コルサコフ(1844-1908)は「海(うみ)の男(おとこ)」。12歳(さい)の時(とき)、ペテルブルクにあるロシア海軍(かいぐん)の士官学校(しかんがっこう)に入学(にゅうがく)し、さまざまな訓練(くんれん)を受け(うけ)ました。船(ふね)に乗って(のって)、遠く(とおく)の海(うみ)に出かけ(でかけ)ていったこともあります。そのせいでしょうか、彼(かれ)の音楽(おんがく)には、いつも海(うみ)の香り(かおり)がするような気(き)がします。はてしない大海原(おおうなばら)のひろがり。体(からだ)の底(そこ)をつき上げる(あげる)ような波(なみ)のうねり。夜(よる)の海(うみ)の深い(ふかい)青(あお)。夜明け(よあけ)の空(そら)のあかね色(いろ)。嵐(あらし)の時(とき)の風(かぜ)のほえ声(ごえ)。そして船(ふね)が向かう(むかう)、遠い(とおい)国(くに)へのあこがれ・・・。彼(かれ)はそれを、オーケストラのさまざまな楽器(がっき)を使って(つかって)、あざやかに音(おと)に描いて(えがいて)います。
『シェエラザード』は、ロシアの古い(ふるい)民話(みんわ)をもとに、いろいろな情景(じょうけい)が音楽(おんがく)で語られて(かたられて)いく「音楽物語(おんがくものがたり)」です。――むかしロシアに、恐ろしい(おそろしい)皇帝(こうてい)がいました。皇帝(こうてい)は、つぎつぎに新しい(あたらしい)おきさきと結婚(けっこん)し、その夜(よる)のうちにおきさきを殺して(ころして)しまうのです。けれどもかしこいシェエラザードがおきさきになった時(とき)、彼女(かのじょ)は世(よ)にも不思議(ふしぎ)な物語(ものがたり)を皇帝(こうてい)に聞かせ(きかせ)たので、皇帝(こうてい)は話の続き(つづき)を知りた(しりた)くて、彼女(かのじょ)を殺せ(ころせ)なくなってしまいます。「船乗り(ふなのり)シンドバッドの冒険(ぼうけん)」や「アリババと四十人(よんじゅうにん)の盗賊(とうぞく)」。今晩(こんばん)も、あすの晩(ばん)も、その次(つぎ)の晩(ばん)も・・・。そうしているうちに、千一夜(せんいちや)がすぎ、皇帝(こうてい)は恐ろしい(おそろしい)考え(かんがえ)をすっかり忘れ(わすれ)て、シェエラザードと幸せ(しあわせ)にくらしましたとさ・・・。これは日本(にほん)でも「アラビアン・ナイト」として有名(ゆうめい)な『千夜一夜物語(せんやいちやものがたり)』。第(だい)3楽章(がくしょう)は、若い(わかい)王子(おうじ)と王女(おうじょ)の夢(ゆめ)のような物語(ものがたり)の情景(じょうけい)です。
ボロディン作曲(さっきょく) オペラ『イーゴリ公(こう)』から「だったん人(じん)の踊り(おどり)」
ペテルブルク生まれ(うまれ)のアレクサンドル・ボロディン(1833-87)も、もともとはプロの音楽家(おんがくか)ではなく、医者(いしゃ)で化学者(かがくしゃ)でした。けれども、幼い(おさない)ころから本格的(ほんかくてき)にいろいろな楽器(がっき)や作曲(さっきょく)の勉強(べんきょう)をしていた彼(かれ)は、大人(おとな)になっても、音楽(おんがく)への情熱(じょうねつ)を忘れる(わすれる)ことができませんでした。ふだんは医者(いしゃ)の仕事(しごと)や研究(けんきゅう)がいそがしくて、自由(じゆう)な時間(じかん)はほとんどありませんでしたが、わずかな時間(じかん)をみつけては、あせらずにこつこつと曲(きょく)を書き続け(かきつづけ)ました。そうして書いた(かいた)彼(かれ)の作品(さくひん)は、どれも力強い(ちからづよい)音(おと)に満ちて(みちて)いて、ロシアだけでなく外国(がいこく)の音楽家(おんがくか)たちからも、高く(たかく)評価(ひょうか)されていました。
オペラ『イーゴリ公(こう)』は、ボロディンが、36歳(さい)の時(とき)から20年近く(ねんちかく)もかけて書いて(かいて)いた作品(さくひん)です。残念(ざんねん)なことに、それでも彼(かれ)は最後(さいご)まで書き(かき)おえることができないまま、この世(よ)を去って(さって)しまいました。けれども一つ一つ(ひとつひとつ)の曲(きょく)がすばらしいので、未完成(みかんせい)なのにもかかわらず彼(かれ)の生きて(いきて)いた時(とき)から何度(なんど)も演奏(えんそう)されていました。これは、800年(ねん)ほど前(まえ)のロシアで、国(くに)を守る(まもる)ため、攻めて(せめて)きたポロヴェッツ人(じん)(だったん人(じん))と戦った(たたかった)英雄(えいゆう)イーゴリの物語(ものがたり)。きょう聴いて(きいて)いただくのは、敵(てき)につかまり、捕虜(ほりょ)になったイーゴリを、敵(てき)のポロヴェッツ人(じん)の大将(たいしょう)がなぐさめている場面(ばめん)です。合唱(がっしょう)は、「なつかしい歌(うた)よ、風(かぜ)のつばさに乗って(のって)ふるさとへ飛んで(とんで)ゆけ・・・」と歌います(うたいます)。
東響(とうきょう)コーラス[合唱(がっしょう)]The Tokyo Symphony Chorus
「東京交響楽団(とうきょうこうきょうがくだん)と一体(いったい)の演奏(えんそう)をし、より質(しつ)の高い(たかい)合唱(がっしょう)つきオーケストラ作品(さくひん)のコンサートを提供(ていきょう)する」ことを目的(もくてき)として、1987年(ねん)に発足(ほっそく)した東京交響楽団(とうきょうこうきょうがくだん)直属(ちょくぞく)のアマチュア合唱団(がっしょうだん)。指導陣(しきじん)には一流(いちりゅう)の合唱指導者(がっしょうしどうしゃ)や発声指導者(はっせいしどうしゃ)、伴奏(ばんそう)ピアニスト、言語指導者(げんごしどうしゃ)を招いて(まねいて)いる。入団試験(にゅうだんしけん)のほかに、公演毎(こうえんごと)に出演者(しゅつえんしゃ)を決定(けってい)するオーディションをおこなって常(つね)に演奏(えんそう)の質(しつ)を高めて(たかめて)いる。これまでにJ. S. バッハなどのバロック音楽(おんがく)からA. シェーンベルク、ストラヴィンスキー、マクミランなどの20世紀音楽(せいきおんがく)までを歌い(うたい)、大きく(おおきく)成長(せいちょう)してきている。
大谷研二(おおたにけんじ)[合唱指揮(がっしょうしき)]
武蔵野音楽大学(むさしのおんがくだいがく)、フランクフルト音楽大学(おんがくだいがく) 合唱指揮科(がっしょうしきか)を卒業(そつぎょう)。スウェーデン、ドイツ、イギリスでE. エリクソン、H. リリング、W. シェーファに師事(しじ)。武満徹(たけみつとおる)監修(かんしゅう)「Music today」、サントリー音楽財団(おんがくざいだん)「サマーフェスティバル」などの公演(こうえん)で合唱(がっしょう)、室内楽(しつないがく)を指揮(しき)し注目(ちゅうもく)を浴びる(あびる)。東京交響楽団(とうきょうこうきょうがくだん)とジョン・アダムス『エル・ニーニョ』、ゲルギエフ指揮(しき)ストラヴィンスキー『結婚(けっこん)』など大編成合唱団(だいへんせいがっしょうだん)のコーラスマスターとしての実績(じっせき)も評価(ひょうか)されている。現在(げんざい)、NHK東京放送児童合唱団(とうきょうほうそうじどうがっしょうだん)客員指揮者(きゃくいんしきしゃ)、東京混声合唱団(とうきょうこんせいがっしょうだん)指揮者(しきしゃ)、活水女子大学(かっすいじょしだいがく)音楽部学術研究所(おんがくぶがくじゅつけんきゅうじょ)教授(きょうじゅ)。
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