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プログラム・ノート
有田 栄(ありた さかえ)(音楽学(おんがくがく))
■ベルリオーズ作曲(さっきょく) 序曲(じょきょく)『ローマの謝肉祭(しゃにくさい)』
 エクトル・ベルリオーズ(1803-69)は、オーケストラの歴史(れきし)にとってとても重要(じゅうよう)な作曲家(さっきょくか)です。彼(かれ)は、それまでオーケストラのなかでふだんあまり使われて(つかわれて)いなかった楽器(がっき)―たとえばハープや、イングリッシュ・ホルン、バス・クラリネットなどを入れて(いれて)、楽器(がっき)の種類(しゅるい)をふやしました。時(とき)には本物(ほんもの)の鐘(かね)も使い(つかい)ます。ちょうど絵の具(えのぐ)のパレットにたくさんの色(いろ)を置いて(おいて)絵(え)をかくように、ベルリオーズは、さまざまな楽器(がっき)の音色(ねいろ)を自由自在(じゆうじざい)に使って(つかって)、音楽(おんがく)の絵(え)を描き(えがき)ます。また彼(かれ)は、時々(ときどき)、舞台(ぶたい)の上(うえ)だけでなく、舞台(ぶたい)の裏(うら)や、会場(かいじょう)の中(なか)のあちらこちらにも演奏者(えんそうしゃ)を置く(おく)ことがあります。すると、聴いて(きいて)いる人(ひと)は、とても遠い(とおい)ところから響いて(ひびいて)くる音(おと)を想像(そうぞう)することができたり、自分(じぶん)が音(おと)にとりかこまれているような感じ(かんじ)を味わったり(あじわったり)することができます。ベルリオーズは、そうしたいろいろな工夫(くふう)をこらすことによって、物語(ものがたり)や情景(じょうけい)を、音楽(おんがく)の中(なか)で生き生き(いきいき)と描く(えがく)ことができたのです。
 きょう聴いて(きいて)いただく『ローマの謝肉祭(しゃにくさい)』は、もともとはオペラの中(なか)の一曲(いっきょく)でした。イングリッシュ・ホルンが奏でる(かなでる)優しい(やさしい)メロディーのあと、オペラの場面(ばめん)にも登場(とうじょう)する「謝肉祭(しゃにくさい)」の音楽(おんがく)が始まり(はじまり)ます。「謝肉祭(しゃにくさい)(カーニヴァル)」とは、、冬(ふゆ)の終わり(おわり)に行われる(おこなわれる)お祭り(まつり)のこと。イタリアの謝肉祭(しゃにくさい)は、昔(むかし)からとてもはなやかなことで有名(ゆうめい)で、ヴェルリオーズも実際(じっさい)にローマで見た(みた)のだそうです。音楽(おんがく)は、「サンタレッロ」という踊り(おどり)のリズムで、そのようすを描いて(えがいて)います。
 
■サティ作曲(さっきょく)(ドビュッシー編曲(へんきょく)) ジムノペディ第(だい)1番(ばん)
 エリック・サティ(1866-1925)の音楽(おんがく)をはじめて聴く(きく)と、「あれ?これ、クラッシック音楽(おんがく)?」とびっくりされるかもしれません。バッハやベートーヴェンの音楽(おんがく)とは、まったくちがう雰囲気(ふんいき)があると思い(おもい)ませんか?
 サティは、音楽(おんがく)は「とてもすわりごこちのよいイス」のようなものだ、と考えて(かんがえて)いました。つまり、そこにあるだけで、人(ひと)のくらしを豊かに(ゆたかに)して、心(こころ)にやすらぎを与える(あたえる)ようなもの。「さあ演奏会(えんそうかい)だ。静か(しずか)に、おぎょうぎよくしなければ!」と身(み)がまえて、きんちょうしてしまうようなものではなく、さりげなく流れて(ながれて)きて、私(わたし)たちをふんわりと包み(つつみ)、気分(きぶん)よくさせてくれるものだ、というのです。そんなことを考えて(かんがえて)いたサティは、人(ひと)がらも、生活(せいかつ)も、作品(さくひん)も、そのころにしてはとても変わって(かわって)いました。けれども彼(かれ)をしたって、たくさんの芸術家(げいじゅつか)たちがひっきりなしに彼(かれ)の家(いえ)に集まって(あつまって)いたといわれています。
 『ジムノペディ』は、サティがパリの有名(ゆうめい)な酒場(さかば)「黒猫(くろねこ)」でピアニストをしていたころの作品(さくひん)です。この不思議(ふしぎ)なタイトルは、昔(むかし)のギリシャの踊り(おどり)を意味(いみ)しています。サティは、何千年(なんぜんねん)も前(まえ)のギリシャの壷(つぼ)に描かれた(えがかえれた)絵(え)を見て(みて)いて、色々(いろいろ)と想像(そうぞう)をめぐらしていたのだそうです。もとはピアノの曲(きょく)ですが、親友(しんゆう)のドビュッシーが、オーケストラに編曲(へんきょく)(ちがう楽器(がっき)のために書き直す(かきなおす)こと)しました。
 
■ドビュッシー作曲(さっきょく) 交響詩(こうきょうし)『海(うみ)』から 第(だい)3曲(きょく)
 クロード・ドビュッシー(1862-1918)は、もし音楽家(おんがくか)にならなかったら、船乗り(ふなのり)になりたかったのだそうです。海(うみ)は、まるで生き物(いきもの)のように、いろいろな表情(ひょうじょう)を持って(もって)います。朝(あさ)の海(うみ)、昼(ひる)の海(うみ)、夕方(ゆうがた)の海(うみ)、そして夜(よる)の海(うみ)。嵐(あらし)の時(とき)の、とどろくような波(なみ)の音(おと)。風(かぜ)がやみ、波(なみ)が立たなく(たたなく)なる「なぎ」の瞬間(しゅんかん)の、なんともいえない静けさ(しずけさ)。金色(きんいろ)や、銀色(ぎんいろ)や、黒(くろ)や、緑(みどり)や、むらさきや、燃える(もえる)ようなだいだい色(いろ)に変化(へんか)する水(みず)の色(いろ)・・・。海(うみ)を愛する(あいする)ドビュッシーの心(こころ)の中(なか)には、そうした様々(さまざま)な海(うみ)のイメージがありました。
 お聴き(きき)いただく『海(うみ)は、その海(うみ)のイメージを、オーケストラでスケッチした絵(え)、オーケストラの言葉(ことば)でつづった詩(し)なのです。「海(うみ)の夜明け(よあけ)から真昼(まひる)まで」「波(なみ)のたわむれ」、そして「風(かぜ)と海(うみ)の対話(たいわ)」という三つ(みっつ)の部分(ぶぶん)からできていますが、きょうは、その最後(さいご)の部分(ぶぶん)を演奏(えんそう)します。この曲(きょく)が作曲(さっきょく)されたのは、1905年(ねん)の3月(がつ)。ちょうどいまから100年前(ねんまえ)のことです。最初(さいしょ)に楽譜(がくふ)が印刷(いんさつ)された時(とき)、楽譜(がくふ)の表紙(ひょうし)には、日本(にほん)の葛飾北斎(かつしかほくさい)という人(ひと)が江戸時代(えどじだい)に描いた(かいた)海(うみ)の絵(え)が使われ(つかわれ)ました。
 
「こども定期演奏会(ていきえんそうかい)2005」のテーマ曲(きょく)について
高田賢樹(たかださかき)さん(小学校(しょうがっこう)6年(ねん))
 ぼくは、3歳(さい)の時(とき)からピアノを弾いて(ひいて)います。4年生(ねんせい)の秋頃(あきごろ)から、三浦(みうら)あかね先生(せんせい)に曲(きょく)を教わり(おそわり)はじめました。作曲(さっきょく)のレッスンの時(とき)に、先生(せんせい)とピアノでおしゃべりするのが楽しい(たのしい)です。
 この曲(きょく)は、先生(せんせい)があみだくじを作り(つくり)、ぼくがあみだを引いて(ひいて)、音(おと)の順番(じゅんばん)を決め(きめ)ました。第(だい)1主題(しゅだい)のはじめの七つ(ななつ)の音(おと)です。先生(せんせい)に「序奏(じょそう)のある曲(きょく)を作って(つくって)みよう」といわれて作曲(さっきょく)しました。第(だい)2楽章(がくしょう)と第(だい)3楽章(がくしょう)も作って(つくって)、ピアノ・ソナタにしたいです。
 ぼくは詩(し)に曲(きょく)をつけるのも好き(すき)です。地球環境(ちきゅうかんきょう)を守る(まもる)ために役(やく)に立つ(たつ)音楽(おんがく)を作って(つくって)みたいと思って(おもって)います。
 ぼくの曲(きょく)がオーケストラの曲(きょく)になって、オーケストラの人達(ひとたち)に演奏(えんそう)してもらえるのが楽しみ(たのしみ)です。


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