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第2章 開館50年企画展「子孫永宝(しそんえいほう)−平戸藩主 松浦家と海展」(解説)
1. 平戸藩主 松浦(まつら)家
 江戸時代、平戸藩6万石余りを治めた平戸藩主松浦家は、その出自が平安時代までさかのぼる大変古い歴史があります。平家が滅亡した壇ノ浦合戦では、水軍を率い平家方として参戦し、鎌倉時代の蒙古襲来において防戦に参戦した史料があります。
 ところで、江戸時代の平戸藩領とは平戸島をはじめとして、おおよそ現在の佐世保市から北松浦半島、壱岐市、五島列島の一部をふくむ範囲です。鎌倉・南北朝時代における松浦家は、平戸島北部と五島の小値賀(おじか)等を領する「海の武士団」松浦党(まつらとう)の一氏にすぎませんでしたが、室町時代の1400年代前半ごろより松浦党内部において勢力を伸ばし戦国大名となりました。これだけ勢力を伸張させることができた背景には、海外交易による経済的発展と鉄砲等の武器輸入が考えられています。
 天正15年(1587)、豊臣秀吉の九州平定時に、当時の領主松浦鎮信(しげのぶ)(法印:1549-1614)がその領地を認められました。松浦家は文禄・慶長の役(壬辰・丁酉の倭乱)では、小西行長率いる第1軍として朝鮮半島に渡海し足掛け7年にわたる激戦に投入されました。
 関が原の戦いにより天下人となった徳川家康により江戸幕府が開かれます。豊臣氏と関係の深かった松浦家は、その動向を疑われたようです。慶長18年(1613)には完成したばかりの居城(日の岳城:現在の平戸城同所)を松浦鎮信(法印)自ら放火し焼き払うなどしました。
 しかし、徳川綱吉が5代将軍となってから状況が変化し、平戸藩主は幕府内で厚遇されました。これは綱吉の外様大名登用する方針にのっとったものでした。将軍綱吉のもと、平戸藩4代藩主松浦鎮信(ちんしん)(天祥:1623-1703)・5代藩主松浦棟(たかし)(1646-1713)は幕府内部で登用され、特に5代藩主棟(たかし)は外様大名ではじめてとなる幕府の寺社奉行に任命されました。
 4代藩主松浦鎮信(天祥)の治世に、藩政整備が行われます。また平戸藩による新田開発により寛文4年(1664)には石局が10万9490石にのぼり、明治維新前には13万石に達していたとされます。
 9代藩主松浦静山の治世に、4代藩主松浦鎮信(天祥)以来の藩政改革が行われ、悪化しつつあった平戸藩経済を立て直すことに成功します。この時、その建て直しに多大な貢献をしたのが、近隣の海でさかんであった捕鯨業による莫大な収益でした。10代藩主松浦熈(ひろむ)は、父静山が47歳で引退したため、16歳で藩主の座につきました。ますます高まる対外危機、幕府の構造的問題などから来る平戸藩財政の立て直しに尽力しますが、十分な対応ができずに引退しました。熈は引退後、平戸に生活の基盤をおき11代藩主松浦曜(てらす)の後見をします。そして、12代藩主松浦詮(あきら)の時代に明治維新を迎えます。これは、平安時代末より当地域を治めた松浦家の歴史において大きな転換点となりました。
 
2. 平戸の海外交流・貿易
I 倭冠(わこう)
 寿永2年(1183)の史料に、平戸港に「高麗船」「宋船」が入港している記録があります。文字史料に現存する以前から、アジアの船が平戸に寄航していたことが考えられます。また、蒙古襲来以降の鎌倉時代末期から戦国時代頃まではいわゆる倭冠の根拠地の一つでした。平戸が海外にその名前が大きく知られるようになったのは、大航海時代の1500年代半頃であると考えられます。これは明(みん)(中国)を追われた海商の王直(おうちょく)が平戸に本拠を置き、いわゆる「後期倭冠」の本拠地となってからです。この王直は、1543年、種子島にポルトガル人が漂着したおり同乗していた人物です。王直は部下2000人を配下にもち、300人が乗れる大型の船を平戸にもっていたと記録されています。王直は博学でもあり、また、倭冠達の信頼も厚く調停者でもあり、当時多くの船舶が平戸を目指しました。しかし、王直は明政府の計略により1557年捕らえられ、後に処刑されました。王直亡き後も「後期倭冠」の中国系海商の頭目が平戸に本拠を置き貿易を行いました。1624年には中国福建省出身の海商鄭芝竜と平戸の女性田川マツとの間に鄭成功(ていせいこう)が誕生しています。ところが、寛永12年(1635)、江戸幕府により中国船の日本来航が長崎港に限定され平戸における東アジアとの貿易は終了することになりました。
 
II ヨーロッパ諸国(ポルトガル・オランダ・イギリス)と平戸の交易
ポルトガル
 王直の手引きによりポルトガル船がはじめて平戸に入港したのは天文19年(1550)の、ドワルテ・ダ・ガマの船でした。当時の領主松浦隆信(道可:1529-1599)は中国貿易(倭冠の活動)の経験により、大いにこれを歓迎し、貿易と深く結びついたキリスト教の布教も認めました。宣教師フランシスコ・ザビエルの平戸布教もこのときです。1553年以降は、毎年1隻から2隻のポルトガル船が平戸に来航し、1557年からはポルトガル政府の官許船が来航するようになりました。これにより平戸には京都・堺などの商人があつまり「西の都」と呼ばれるほどになりました。しかし、松浦隆信(道可)はかならずしもキリスト教に好意をいだいていなかったため、複雑な関係がでてきました。1561年には言葉が通じないことが原因で、ポルトガル人船員10数名が殺害される事件が発生しました(宮の前事件)。その結果ポルトガル船は、松浦家と対立関係にあった大村領に入港地を移します。これはやがて長崎港開港へとつながりました。
 
オランダ
 慶長14年(1609)、オランダ東インド会社の2隻(パイレン号・フリフェーン号)がマレー半島のパタニ経由で、平戸港に入港しました。このオランダ船平戸入港には、慶長10年(1605)、平戸藩初代藩主松浦鎮信(法印:1549-1614)が新造した朱印船に、1600年、豊後に漂着したリーフデ号船長J・クワーケルナークを便乗させ、パタニのオランダ商館に送還したことによると考えられます。松浦鎮信(法印)の配慮は結果的に、平戸にオランダ商館を開設させることになりました。平戸に開設されたオランダ商館でしたが、特に最初の約10年間余りは、オランダ東インド会社がアジア各地に開いた商館や要塞に武器・食料品等を積み出し、軍事的補給基地としての役割をもっていました。しかし、1628年、台湾に渡航していた日本朱印船との抗争から、平戸オランダ商館は幕府により閉鎖を命じられます。以後、1632年まで閉鎖が解かれることはありませんでした。この平戸オランダ商館閉鎖期間中は、江戸幕府内部でもオランダ人を弁護する要人はほとんどおらず、平戸藩主とその姻戚関係にある幕閣のみが貿易再開に向けて水面下で働きかけを行いました。寛永9年(1632)、台湾における抗争事件の当事者を、オランダ東インド会社が幕府に人質として差し出したことにより事態は好転し、貿易が再開されることとなりました。この後、平戸オランダ商館の取引額は増加の一途をたどり、アジア諸地域のオランダ商館の販売利益の70%以上まで占めるようになりました。このように華々しい時期を迎えた平戸オランダ商館でしたが、江戸幕府の貿易統制(「鎖国」)は確実に進行しつつありました。
 そして、寛永14年(1637)、島原半島で勃発した島原の乱は幕府に決定的な影響をあたえました。島原の乱は幕府に「キリスト教徒による一揆」と捉えられ、長崎に来航してくるポルトガルとの国交断絶を決定させることとなったのです。これは寛永16年(1639)のことです。ポルトガルと敵対関係にあったオランダ人は、この報に喜びますが、寛永17年(1640)、平戸において幕府により突然のオランダ商館倉庫破壊を命じられました。そして翌年には、ポルトガル人が強制的に居住させられ、オランダ人が「国立の監獄」と表現した長崎の出島に移転することを命じられ、平戸オランダ商館はその役割を終えました。
 
イギリス
 慶長18年(1613)、イギリス船クローブ号が平戸港に入港しました。この船はジョン・セーリスを司令官としイギリス国王の書簡を携えていました。徳川家康の外交顧問でもあったウィリアム・アダムズ(三浦按針)が、同国人でもあったため平戸にはいりセーリスと共に徳川家康のもとに向かいました。そして家康から通商の許可が下され、イギリスと日本との間に国交が開かれることになりました。ウィリアム・アダムズは浦賀にイギリス商館を開設することを望みましたが、セーリスは協議した結果、平戸にイギリス商館を開設することとしました。こうして、オランダ商館とともにイギリス商館が平戸に開設されることとなりました。イギリス商館は「チャイナ・キャプテン」として日本における華僑社会のリーダーであった李旦(りたん)の持ち家を借用し、業務を開始しました。セーリスはクローブ号に乗船して来航したリチャード・コックスを平戸イギリス商館長に任命しました。コックスは江戸・駿府・京都・堺・大坂・長崎に商館員を派遣し業務にあたらせ、アダムズをタイに派遣するなどして貿易拡大をはかりました。しかし、平戸イギリス商館が取り扱う貨物は西洋より輸入されたものが多く比較的高価なのに対し、オランダ商館は東南アジアより諸国の仲買品を入れ薄利多売をはかり、やがて幕府より平戸のみでの商館活動を強いられるなどしたため、平戸イギリス商館は元和9年(1623)、閉鎖されるにいたりました。わずか10年間の平戸イギリス商館開設でしたが、この間の記録(『イギリス商館長日記』など)が現存しており、当時の貴重な記録を今に伝えています。


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