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3. 「鎖国」と平戸藩
 寛永16年(1639)8月、ポルトガルとの断行を決意した江戸幕府は、長崎でポルトガル人追放および来航の禁止を、ポルトガル人に命令しました。この法令の伝達のみでは十分でないことを理解していた幕府は、九州の大名に長崎と九州西岸防備の体制を整えました。これは平戸藩も同様で、この防備体制を担う藩の一つとなりました。ポルトガル人が日本追放を告げられた翌年(寛永17年)、ポルトガル人使節一行が貿易再開を求めて長崎に入港しました。この時の使節74人中、キリシタンではない水夫13名以外は幕府の命により処刑されました。幕府は、助命した13名に処刑の様子を見届けさせ、本国に報告するように申し渡してジャンク船(中国船)でマカオに出港させました。
 このような状況の中(寛永17年)、大目付、井上政重(まさしげ)が平戸を訪れました。そして平戸オランダ商館の破壊を突然命じました。当時の平戸オランダ商館長フランソア・カロンは日本語と慣習に通じていたため、反論せず井上政重の命令を受けました。この平戸オランダ商館破壊命令は、当時の3代将軍徳川家光による直接の命令でした。また、もしこの命にカロンが反論を述べた場合、カロンをその場で殺害し、平戸オランダ商館は熊本・島原・柳川諸藩により攻撃が加えられることとなっていました。しかし、カロンの日本社会・文化の理解により最悪の事態は避けられたのです。また、このカロンの対応に感動した井上政重は、その後オランダ人のために便宜をはかるようになります。
 寛永18年(1641)、オランダ商館を長崎出島に移転するよう幕府より命令されました。すでに寛永12年(1635)に平戸をはじめとする各地の港に自由に出入りしていたジャンク船(特に華僑による民間貿易船)は、長崎入港を限定する命令が出されていました。これにより、古くからの海外貿易港平戸は、大きくその性格を転換することとなりました。
 当時の平戸藩主松浦鎮信(天祥:1623-1703)は、正保4年(1647)に長崎聞役(ききやく)(長崎警備における諸藩との調整役)を置き、承応3年(1654)には平戸藩の負担で長崎港周囲に台場(砲台)を建設するなどしました。また、元禄元年(1688)には、それまで長崎に散宿雑居状態にあった中国商人達を一箇所に集住させるため幕府より「唐人屋敷」の設置を、長崎奉行・島原藩主とともに命じられました。
 
4. 平戸近海の捕鯨と益冨(ますとみ)組
 寛永元年(1624)、平戸オランダ商館が開設されていた時から、すでに平戸近海では鯨漁が行われていたようです。これには鯨漁の先進地熊野灘から紀州(和歌山県)の捕鯨家の進出が関係していました。これは平戸藩近海を含めて、唐津・大村・五島藩等の近海も同様で、西海捕鯨といわれます。寛永年間、紀州の捕鯨家進出は平戸の商人達を刺激し、平戸商人による捕鯨家がでてきました。初の平戸商人の捕鯨家として、平野屋作兵衛が見出されます〔この作兵衛は平戸オランダ商館の記録にも登場し、当時の豪商ともいえる存在ですが、寛永19年(1642)、松浦鎮信(天祥)の治世に家臣の騒動に連座し、一族とともに上意討ちにあい殺害されました〕。平野屋作兵衛以降も平戸に捕鯨家が籍をおき、元禄年間にはいるころにそれまでの捕鯨業(突取捕鯨(つきとりほげい):鯨を追跡しながら多くの銛(もり)を打ち込み、鯨を仕留める方法)が衰退しました。
 延宝3年(1675)紀州の太地で、突取捕鯨(つきとりほげい)に網掛過程(あみかけかてい)を導入した捕鯨法(網掛突取(あみかけつきとり)捕鯨法)が創始されます。この捕鯨法は、ただ銛を打ち込んで鯨を仕留めていたのを、網に絡ませて鯨の速度を落とし、そこに銛を打ち込むものでした。この捕鯨法により、泳ぐスピードの早いザトウ鯨やナガス鯨を中心に捕獲頭数が増大しました。やがて、この網掛突取捕鯨法を大村藩と関わりの深い深澤儀太夫(ふかざわぎだゆう)が導入しました。平戸藩近海では、同様の捕鯨法で生月の益冨組と壱岐・勝本の土肥組が1700年代初頭に捕鯨に参加しました。1800年代にはいると益冨組による西海捕鯨における独占がすすみ、文政2年(1819)以降は日本最大規模の鯨組となりました。益冨組による鯨の捕獲頭数は増減がありますが、多いときで年間200頭あまりを捕獲しました。その捕鯨による収入は莫大で、平戸藩も捕鯨による恩恵を受けました。益冨組が捕鯨を開始し廃業するまでの間に平戸藩に対して収めた金額は100万両以上に及びました(納税額:約77万両、献金:約1万5千両、貸金:約22万両)。江戸時代後期の1両は、現在の物価から換算するとおよそ10万円に相当するとされています。
 
5. 松浦静山と楽歳堂(らくさいどう)文庫
 平戸藩9代藩主松浦清(まつらきよし)(静山(せいざん):1760-1841)は、歴代平戸藩主の中でも特に異彩を放つ藩主です。学芸大名としても有名ですが、静山が記した随筆『甲子夜話(かしやわ)」は、日本の随筆集の中で最も長大です。静山は、実の母が平戸藩に仕える女中であったため、幼少の頃は厚遇されることなく成長していきました。しかし、さまざまな条件が重なり静山は幸運に第9代平戸藩主となりました。静山が幼少の頃からの理解者で祖母にあたる8代藩主松浦誠信(さねのぶ)夫人(久昌(きゅうしょう)夫人)が静山の人格形成に絶大な影響をあたえました。
 16歳で平戸藩主となった松浦静山は、20歳の時に藩校維新館(いしんかん)と楽歳堂(らくさいどう)文庫を創設しました。また、同年祖父であり先代の藩主であった誠信が没すると、大規模な家臣の人事異動を行い藩政改革に乗り出します。そして、静山は学問の分野だけでなく、武術にも大変熱心に取り組みます。これらには自らの出自(幼い頃の境遇)等から、より理想的な大名を目指したのではないかと思われます。
 天明5年(1785)、静山26歳の時、それまでの楽歳堂が手狭になり新規に建て直しますが、この費用は益冨組の3代目益冨又左衛門(ますとみまたざえもん)が献金しています。また、この又左衛門は楽歳堂に所蔵されることになった高価で貴重な洋書購入にも資金を提供したと考えられています。静山と益冨組は、経済的にもまた学術的にも深い関わりをもつ関係となっていきました。
 松浦静山の収集した図書は和書・漢籍・洋書の分野にまたがり、最終的には平戸の楽歳堂に2,592部:17,592冊、江戸における平戸藩の文庫に2,270部:16,147冊を数えました。これらの図書の多くには松浦静山の手で「子孫永宝(しそんえいほう)」の印がおされています。
 松浦静山の時代は、日本国内で蘭学や博物学が非常に盛んになった時代でもあり、現代においても静山の収集したコレクションは大きな価値をもっています。
 また、静山が藩主であったときは老中松平定信による寛政の改革が行われた時期にあたります。寛政の改革は江戸時代の体制(幕藩体制)そのものに対する危機とロシアの日本接近に対応する対外危機に対応するものでした。静山は松平定信との深い親交のもと、また、平戸藩の海防を担う「家」意識のもと積極的に幕府の政治と関わります。対ロシア対策のため幕府による海外情報収集のため静山は楽歳堂に所蔵する洋書を幕府に貸し出すなどしています。
 また、静山が興した藩校維新館(いしんかん)は江戸から著名な学者などを講師として招き、また静山みずからも講義をするなどし、学問・思想の普及が行われました。これらの環境から、江戸後期における平戸藩家臣で学者でもある葉山鎧軒(はやまがいけん)が輩出されます。この葉山鎧軒は、吉田松陰に思想的に大きな影響を与えたと考えられています。
 
6. 10代藩主 松浦 熈(ひろむ)
 松浦熈(観中:1791-1867)は、父静山の3番目の男児として平戸で誕生しました。平戸藩主は4代藩主松浦鎮信(天祥:1623-1703)より代々江戸で誕生したのですが、熈は久々の平戸誕生の藩主です。これは引退後の地を平戸に選ぶ主な要因となりました。父、静山は、4代藩主あるいは5代藩主松浦棟(たかし)(1646-1713)が幕府内部で登用されたごとく、自らも幕政に参加する希望を持っていました。しかし、それは叶わなかったことなどもあり、47歳で隠居しました。そして、その夢を息子の熈に叶えさせようと、熈が幼少の頃より言い含めました。熈の夫人に、老中松平定信の娘シンを迎えたのも、静山の配慮があったと考えられます。熈は比較的父母に従順であったようで、父の期待に添うよう大名としての生き方を選びました。しかし、時勢は急変しており、日本近海に出没する外国船は増加し、平戸藩近海及び長崎の海防に多額の費用もかさむようになりました。文化5年(1808)の長崎におけるフェートン号事件、文政8年(1825)の異国船打ち払い令など危機が深刻化します。国内においても天保8年(1837)大塩平八郎の乱が発生するなど、まさに激動の時代に熈は藩主となったのでした。政治の分野では大変な時代でしたが、特に母親(静山側室)の仏神や先祖を崇敬することを教育された熈は、父の文化的事業もその志を継ぎました。父が記した随筆『甲子夜話(かしやわ)』を製本保管し、平戸藩の出版事業も父よりも積極的に行いました。また、中央から遠く離れた平戸藩で、負担にならずに継続普及できるよう「能」を自らまとめあげ関係図書を出版するなど、地元を愛する気持ちの強い藩主でした。日本史においては、父静山にスポットがあたっていますが、熈の存在がなかったらとても現在のような静山の評価はなかったと考えられます。ふるさと平戸の景色をこよなく愛した熈は、異例ですが江戸ではなく平戸での隠居生活をおくりました。そのため、熈に関する多くの史跡が今の平戸に多く残ることになったのです。
 熈が引退する決意を記した史料には、出世を望む父と、それに反対する家臣との間で板ばさみとなった苦悩が切々と述べられています。
 
7. 財団法人松浦史料博物館設立
 昭和30年(1955)10月1日、当主松浦陞(すすむ)氏より、土地・建物・資料の寄贈を受けて財団法人松浦史料博物館は設立されました。これには博物館初代理事長となった山川端夫(ただお)氏の存在がありました。山川氏の先祖は江戸時代初期からの平戸藩家臣でした。山川氏は貴族院議員、外務省外交顧問、国際連盟副会長等歴任しました。山川氏は終戦後の情勢の変化による平戸藩松浦家の資料散逸等を恐れ、博物館設立を「人生最後の仕事」と家族に話し奔走されました。その結果、長崎県内では2番目となる博物館が設立され、貴重な文化財が散逸をまぬがれ、すぐれた資料を伝える博物館として現在に続いているのです。
以上
 
文責)松浦史料博物館学芸員:久家孝史(くが・たかし)
 
参考文献
『くじら取りの系譜』中園成生 長崎新聞新書 2001
『洋学の書誌的研究』松田清 臨川書店 1998
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