長崎図(ながさきず)(楽歳堂旧蔵)
寛永18年(1641)平戸オランダ商館が、ポルトガル人が収監されていた出島に幕府の命令により移転させられました。そのため平戸藩によるオランダ貿易に直接的に関与することはなくなりましたが、新たに九州諸藩とともに長崎及び周辺海域の警備を幕府により命じられました。承応3年(1654)には長崎港周辺に平戸藩により台場(砲台)が作られました。この資料には、扇型をした出島、その右には唐人屋敷なども詳細に描かれています。
また、出島の左上方の海際には白抜きで家紋が描かれた大名の蔵屋敷(くらやしき)(四ヵ所)が描かれます。その右から2番目(梶(かじ)の葉紋)が平戸藩の屋敷です。この屋敷でシーボルトの門下生であった高野長英(たかのちょうえい)(蘭学者・蘭医)が平戸藩蔵書の洋書を翻訳したこともありました。
勇魚取絵詞(いさなとりえことば) (部分)
平戸島の西にある生月島(いきつきじま)で益冨組(ますとみぐみ)が捕鯨を開始したのは享保10年(1725)です。その後新しい捕鯨法の導入などで、享保18年(1733)以降漁獲高が増加しました。その最盛期には2000余りの鯨船、3000人余りの水主(かこ)を雇いました。創業開始から幕末までの130年間に21,700頭余りの鯨を捕獲したとされています。これによる平戸藩への納税・献金等は藩財政を潤しました。特に松浦静山が藩主の折には、財政の建て直し、それと貴重な資料を購入する経済的支援も行われたと考えられます。
勇魚取絵詞(いさなとりえことば) 版木(はんぎ)
勇魚取絵詞は、益冨組により製作されたものです。長期的視野により計画・製作され、完成までは益冨家では3代にわたり、平戸藩主も松浦静山・10代藩主松浦熈(ひろむ)の2代にわたっています。この製作には大槻清準(おおつきせいじゅん)が記した『鯨史稿(げいしこう)』をもとに益冨組による科学的知識、画は遠近法・司馬江漢(しばこうかん)(生月で捕鯨を取材した)の新技法が取り入れられました。
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