日本財団 図書館


 ある時、韓国から大学院の先生の見学が来ました。その中に尼さんがおられたのです。怒ったことがないという人なのです。「そうですか。怒ったこと、1回ぐらいあるでしょう」「まあ、ありますけれど」と言って描かれたら、ほかの人がとっくに終わっているのに、その方は顔を真っ赤にして。(笑い)ほとんどほかの方の3倍ぐらい描いていました。皆さん、「怒りは深いのね」と。深層画のいわゆるこれは深い段階なんですね、なんていう話をして、彼女は「もう1枚描きたい」と言っていましたが。
 
 
 こういうのは絵なのです。これは落書きだと皆さんは思ったでしょう。こんなのは絵だとは思ってないでしょう。実はこれはとても素晴らしい絵なのです。こういうアナログ画というものは、日本でやらないのです。ところがこれがすごく大事なのです。ちなみに、3歳児のアナログ表現を見てください。
 幼児期はアナログ画がすごい得意なのです。小学校、年長さん、年中さんぐらいからデジタル画を獲得しまして、そして左脳的な絵が描けるようになるのです。これでもうすごい得意満面なのです。ところが、老人たちの絵は、このままフリーズされた状態で50年間いたわけです。50年後に新しいことをやって、このデジタル画を描くわけです。それをどうやって、彼らの本来の表現にしていくのかということで、私たちは考えたのは、子供の場合は、アナログ表現と感性画という表現をさせて開放していくわけです。高度なデジタルにしていくわけです。デジタルがいけないわけではないですから。その人のオリジナルデジタルというのはある意味で一つのスタイルということです。
 ですから、やはりゴッホならゴッホらしさというのがありますでしょう。あれはやはり一つのスタイルなのです。そういう高度なデジタルなのです。そうやって、感性画とアナログ画をいっぱい描かせて高度なデジタルにしていく。そして老人たちにも感性画とアナログ画をいっぱい描かせてスタイルを獲得させていく。観念の世界に入っていく。そして、自己実現と自己超越の世界に入ってもらおうという願いでございました。
 一番最初の臨床美術というのは、こういう形で始めました。患者と家族を中心に、医師、美術家、カウンセラーが、それぞれの立場で働くというかたちで始めたのです。今から10年前です。皆さん、もう50年間絵を描いたことがなくて、やめてくださいと言っておられたのですけれど、その時は3時間やりましたが、3時間後に皆さん顔を紅潮させて「楽しかった」と言っていただいたのです。
 ですけれども、失敗もございました。私たちが、やはり10言っても一つか二つしか理解していただけない方が多かったのです。私は指導してみてとても疲れましたけれど、見ている家族もとても疲れたのです。隣のご主人はできるのにうちの主人はできないということで、私がちょっと後ろを向いて、「こんな感じで描いて下さい」と説明している内に、ぱっと見るとできているのです。手伝ってしまうのです。この席の配置は間違えたということで、2度目はこうしました。家族には完全に後ろ側に行っていただくのです。そうすると、手伝うことはなかったのですけれど、今度はうるさいのです。「お宅のご主人はいいわ。うちの主人はできないで、全く情けないんだから」とか、そういう批評が始まるのです。それで「皆さん、うるさいです。私まで聞こえてきます」と言っても、もう夢中になってお互いにしゃべり合って、比較しているわけです。
 3回目にやっと今のスタイルになりました。患者も家族も一緒にやる。これは今定番です。皆さん、疑問じゃないですか。「認知症の患者がやるようなことを一般の人がやって楽しいの」と、「そんなレベルの低いこと楽しいの」と。これは絶対に違うのです。レベルが高いものとしなければダメなのです。ですから、家族の方も楽しいと思える、こんな描き方あったのかと思えるような指導をしなければ、患者さんたちも駄目なのです。
 というのは、患者さんたちは、かつて大学の教授もいますし、小学校の校長もいますし、本当にレベルが高い人たちが多いのです。その人たちがいろいろな施設で困り者だったのです。「『俺は偉いのだ』って今でも思っているのよ、あの人は」、「英語がしゃべれるからって、私に英語で話しかけてくるのよ。嫌なやつね」なんて言われているのです。そういう方たちのレベルに合ったケアをなされてないということが問題なのです。彼らに窓を与えてないのです。
 ですからご家族にとっても楽しいので、患者さんが風邪で休んでいるのに家族は来るということがよくあるのです。「そんなことあるのか」と思われるでしょ。あるのです。そのぐらいじゃないと長続きしないのです。最近は、こうやっています。広い場所の場合は、家族は前に来て、患者さんは正面の後ろに座っていただく。そうすると、私たちは役得で患者さんの素晴らしい笑顔に出会えるのです。でも、先程のスタイルですと、患者さんの素晴らしい笑顔を見られないのです。ですから、患者さんの家族も前に座っていただいて、普段家で見せない患者さんの笑顔を見ることができるのです。そして、患者さんにとっても家族が目の前にいたらとても安心と、すべて本当にうまくいくということです。最近、このスタイルが多いです。
 
 
 手順としてはこんな感じです。出迎えから導入、リアリティーをイメージして、「今日は何月何日ですかね」、「春ですよね」。春なのに秋だと思っている方がいらっしゃいますから、「春ですよね。今日は暖かかったですね」ということから回想法を取り入れて、そしてリラックスした雰囲気で右脳空間にしていく。そして、今日は「リンゴ」がテーマだったら、リンゴの歌を歌ったりリンゴ体操をしたり、テーマの説明をして、そしてその日のテーマを始めるわけです。
 そしてアートのことも説明して、一人一人描いて、そして終わったら鑑賞会をするわけです。約90分、今日は2時間ですけれども、やっている内容は約90分。30分は前とあとです。そして、10分ぐらいで鑑賞会をするわけです。日本人の鑑賞会というのは、欠点をあげつらうとこだと思っている人が多いのです。そうじゃなくていいところをほめる。いいところをほめるというのは、それはそれで日本人は苦手なのですね。
 批評家というと、悪いことを言うことだと思われています。偉そうに見えますけれども、そうじゃなくて、批評家というのは、作家のいいところを、「ほんとにこれは私が感動しているところなんだ」、「こいつは私の好きな絵描きなんです」と言うことが本来批評なのですけれども、どうも私たちはそうとらえていない。欠点をあげつらうことが批評だと思われていますが、そうじゃないのです。いいところを見つけてほめるということが、とても大事なことなのです。そして、握手して送り出す。これだけやって2時間セッションです。
 絵についての美術的な背景などを一切言わないで「この作品を見て何を感じますか」というのがギャラリートークです。ギャラリートークというのは今アメリカですごくはやっていますけれど、この鑑賞会も非常に似たようなものです。
 自分で感じたこと。「あ、この顔は怖くて、私、いたたまれません」とか、「ヤバイって感じがします」とか、そういう話をするのです。それを一人が言うと、「あ、僕もそれを怖いと思ったんだ。怖く感じた。でも、何かすごい迫力を感じますよね」なんて。迫力を感じるなんて言われたりすると、「あ、私も何かそんな感じがしてきた」みたいに、言葉によって非常にいろいろイメージがわいてくるのです。ですから、右脳と左脳のやり取りをするわけです。ですから鑑賞会はとても大事なのです。
 美術館なんかで、例えば2人か3人で行って、小さな声で一切偉そうなことは言わないで、これは印象派の絵でセザンヌに影響を与えた絵なんてことを言わないで、「どう感じる?」「俺はあまり面白いとは思わないな」「私はこう感じたのよ」「僕はこう感じた」。お互い言ったとすることを、受け入れたとすると、受け入れた途端にがらっと変わっています。そうすると、それを何度も何度も繰り返してやっていると、今まで見えてこなかったものに見えてくるのです。このことはとても大事なことだと分かったのです。
 あるおばあちゃんは、自分の作った新聞紙工作のカボチャが汚くてどうにもならないと思っていたのです。ところが、臨床美術士から「このカボチャは何て重量感が出てるのでしょう」という思いもしないことを言われるのです。重量感なんていうことは思いもしなかった。そして、おばあちゃんは今度、カボチャを見るたびに「私のカボチャは重量感がある。重量感がある」とお友達を呼んで、とてもうれしそうなのです。新しい文脈が作られたわけです。新しい文脈が作られる。そしてまたそこからスタートする。これはこの鑑賞会のとても大事なところだろうなと思っております。
 ドクターが、私と一緒に終わったあとお互いに掃除をしながら「何でこんなにアートセラピーって有効なんだろうね?」と聞いたのです。私は「脳活性化だからじゃないですか」なんて今更言ってもしょうがないので、「うちのスタッフの愛情じゃないんでしょうか」と言ったら、「金子君、駄目、そういう言葉を使うのは」と言われたのです。「どうしてですか」と言ったら、「いや、ここは教会じゃなくて病院だからね。愛とかではなくて科学的に説明してほしいんだよ」と言ったのです。
 それを聞いた私どものスタッフは、一週間後ぐらいに私のところにある本を持ってきました。「愛は脳を活性化する」という松本元さんの本です。松本元さんの本を読んでみたら・・・。皆さんも機会があったら読んでみてください。岩波科学ライブラリーに出ています。「愛は脳を活性化する」、とても驚きました。松本元さんは、愛を感じたとき脳が活性化するのだというのです。彼は日本生物物理学会の会長です。2、3年前に亡くなってしまいましたけど、彼に会いに行きました。そしていろいろ説明していただいたのですけど、本の中にはこの絵があったのです。だまし絵です。これは老人に見えたり若い人に見えたりしますでしょう?
 
 
 松本元さんは何が言いたかったかというと、人間の脳は結論から先にあるのだよということが言いたかったんです。分析してから結論を出すのではなくて、結論が先にあって、そしてあとで分析をするのだと。じっと見ていると、これ、若い人に見えたり年寄りに見えたりしますけれど、年寄りに見えている人がずっと見ているとぱっと若い人に見える。だってこれが目でこれが耳で、これがネックレスでしょう。じーっと見ているとぱっと若い人に見えてくる。若い人から年寄りに見える。これはもう分かりますよね。松本元さんは、こうやって脳というのは結論が先なのだよということを教えてくれたのです。私はすごいショックを受けました。
 そして、山鳥重という東北大の教授は、情動が脳のスイッチよと、こう言うのです。聞いたことないですね、情動だなんて。喜怒哀楽の情動が脳のスイッチだよと。この二つを掛け合わせてみると、私たち臨床美術にとってはすごく大事なメッセージなのです。今日、どんなに素晴らしいメニューを持っていって楽しんでいただこうと思っても、嫌なやつだなと思われた瞬間に、脳のスイッチを切られてしまう。すると、結論が先に出てしまうのです。「嫌な女の子だな、この子は」、「私はこの人に教わりたくないわ」と思った瞬間に脳のスイッチを切ってしまいますから、そのあとどんな素晴らしいプログラムをやっても、駄目だということに気が付いたのです。大体5分ぐらいで決めてしまうのではないかと言われています。
 私なんかは英語の勉強を初めてした時に、ザット・イズ・ア・ペンとかアイ・アム・ア・ボーイという先生が来て、この人に教わっても駄目だなと思った瞬間から脳のスイッチを切ってしまいましたから、もう英語は駄目になってしまいました。感性のいい子っていうのは、大体そうやって不良になるのです、落ちこぼれるのです。
 私と予備校時代に出会った子たちは、二つ三つ学校を退学してきた子が何人もいましたけど、みんな素晴らしい感性の持ち主。素晴らしい感性が故に、大人のウソ、教師のウソがすぐ分かってしまうから、「冗談じゃない。こんなやつの言うことなんか聞いていられるか」となって、算数も数学も英語も必修3科目勉強しないできてしまうんです。先生の前でたばこを吸って「先生、俺に注意できるなら注意してみろ」なんてことを言うのですよ。そんな子たち、そんな感性のいい子たちが、実は落ちこぼれるのです。
 それは結論が先にあるということなのです。むしろ感性のない子は勉強ができるのです。(笑い)それを聞いて、私は臨床美術をやるうえで、服装とかパフォーマンスということがとても大事なのだということに気が付いて、そういう講座を入れるようになりました。


前ページ 目次へ 次ページ





日本財団図書館は、日本財団が運営しています。

  • 日本財団 THE NIPPON FOUNDATION