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III 小千谷編
1 中越大震災と闘牛の里
 小千谷市の東部山間地に「東山」といわれる地域がある。この地域は旧山古志村と隣接し、かっては二十村郷といわれた地域である。狭い谷あいに小さな集落が点在し、昔より、農耕を生業としてきた。ここに古より、この地域ならではの独自の文化が育まれてきた。ひとつは「牛の角突き」といわれる伝統習俗であり、国指定重要無形民俗文化財に発展してきたものである。そしてもうひとつは、「錦鯉」である。錦鯉については、今や世界各国に愛好家を有する産業の域に達している。豊かな自然に囲まれ、独自の文化を育んできた静かな山里を平成16年10月23日あの中越大震災が襲ったのである。記録によれば、10月23日の地震発生回数は111回、10月だけで445回もの地震発生回数となっている。このときから、東山地域の牛の角突き復興の歴史が刻まれることとなった。
 
小栗山闘牛場(震災当時)
 
小栗山闘牛場(震災当時)
特別観覧席(右側2棟傾斜)
取り壊し予定
 
2 闘牛の避難
 震災により、家屋は倒れ、地は裂け、道路は波打ち、山河も形を変えるほどに崩れた。美しい棚田や錦鯉の池、尊い人命や愛牛・・・かけがえのないものが失われた。背後からは次々と危険が迫っており、ついに東山全地域に避難勧告が出された。家族同前の牛・・・どうにかして助けてやりたいとの思いから、別れ際に鼻綱を切り、野に放たれた牛たちもいた。余震が続く10月28日、隣接する長岡家畜市場に牛たちを集積する救出作戦が始まった。山河崩れる故郷を見ながら、R291を下るもの、隣接する川口町へ峠越えで下りるものもいた。かくして、牛たちは一時避難を完了し、11月初旬から11月下旬まで、闘牛振興協議会員の輪番で給餌等が行われた。しかし、目前には雪が迫っている。ほうぼう手を尽くし、空いた牛舎の確保のため奔走したものの、生き残った全頭を収容できる牛舎はついに見つからなかった。結局、あるものは地元の空いた牛舎へ、あるものは南部牛の産地の生産者へと引き取られていった。住み慣れた牛小屋から、それぞれの地で冬を越すこととなった。愛する牛との別れ、・・・追い討ちをかけるように小千谷は19年ぶりの異常豪雪となった。自然の猛威の前では、人も牛もすべて仮設暮らし。最終場所の11月の開催などできるはずもなく、平成16年の長い冬はやってきた。
 
3 闘牛復興への熱意
 心身ともに想像を絶する避難生活の中で、勢子たちの闘牛復興の熱き議論が交された。それは、生活を優先させざるを得ないという厳しい現実との葛藤の最中にありながらも、闘牛を復活させたいという熱い真摯な思いであった。角突きは金銭的には一銭の得にもならない道楽的なものである。しかし、先人から受け継いだ大切な文化を守りぬくという使命感や、何よりも誰よりも角突きを愛するもののみがもつ自負心は震災でめげることなく牛の角突きの「復興」がいつしか全員の目標となっていった。
 そんな思いとは裏腹に、小千谷闘牛場(小栗山)の被害は甚大であった。避難勧告解除のメドも立たず、復旧に要する時間を考えると、仮設の闘牛場の確保が必要であった。4月、長岡市に合併された旧・山古志村の牛の角突きが5月4日に長岡市営牧場の隣接地で開催されるという発表があった。小千谷はどうか。信濃川河川敷等候補地はあったが、白山運動公園に仮設闘牛場を建設し、6月5日に開催することが決定された。4月18日、多くのマスコミ関係者が注目している中で、小千谷闘牛振興協議会総会が開催され、席上で開催日が発表された。各地に避難していた牛たちは、人よりも先に牛舎に戻り、急ピッチでトレーニングが開始された。小千谷は残雪の中から、顔を出した桜の枝に桜が咲き出していた。雪の下にはまだ咲かぬ桜の枝もある。そんな時節、心待ちにしていた闘牛復興の日は現実のものとなったのである。
 
小栗山闘牛風景(震災前)
 
小栗山闘牛場全景(震災前)
 
仮設闘牛場 開会前
 
仮設闘牛場 本部付近開会前


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