II 山古志編
1 山古志における『牛の角突き』
旧山古志村で開催されている「牛の角突き」は、500年とも1000年とも続いていると言われている伝統行事である。記録として残っている最も貴重な資料は、文化11年(1814)から天保13年(1842)にかけて滝沢馬琴によって書かれた「南総里見八犬伝」である。八剣士の一人である犬田小文吾が二十村郷の闘牛の日、暴れ出した牛を取り押えた物語が残っている。その中で「牛の角突き」は、二十村郷の神の祭り「牛あわせ」と言い、人々は「牛の角突き」と呼んでいたと紹介されている。
山古志で開催されている「牛の角突き」は、その当時の習俗の姿が多く残りまたギャンブル化せず村民の生活の中にとけ込んでいるという理由で、昭和53年5月に重要無形民俗文化財として国指定を受けるに至った。
この地域の「牛の角突き」の特徴は、勝敗をつけず引き分けが原則である。これは、従来からの決まりで小さな地域で闘牛を続ける為の工夫でもあり、現在では動物愛護の観点からも評価されている。
闘牛のオーナーは、「牛持ち」と呼ばれこの人達の心意気で山古志の「牛の角突き」は成り立っている。年間の飼育費用は約40万円、闘牛で得ることの出来る出場料は、全ての試合に参加した場合でも約5万円に過ぎず闘牛を飼育して儲かる事は無く、「牛の角突き」の伝統を続けなければという思いが、「牛の角突き」を長年守ってきた。
2 中越大震災の影響
平成16年10月23日午後5時56分新潟県川口町を震源とする震度7の大震災が中越地域を襲った。山古志村も甚大な被害を受け全村民避難と言う未曾有の事態となった。村内に向かう国県道は全て寸断され14集落が隔離され村外との連絡が取れず、山古志村の被害状況については24日の午後にならないと解らないという状況だった。
多くの人達が震災を受け危機的な状況に置かれている中、特に被害の大きな地域が「牛の角突き」の盛んな地域であった。南平地域には、山古志の闘牛のメイン会場である池谷闘牛場と、闘牛アパートと呼ばれていた闘牛専門の牛舎があった。闘牛場は、駐車場が全壊し会場内にある事務棟は倒壊した。地震の揺れの凄さをまざまざと痛感した現場だった。
一転救われた点は、闘牛場そのものの被害が思いのほか少なく、これならばアクセス道路の確保が出来ればまた再開できるのではとほんの少しの希望が見えた。
(池谷闘牛場 駐車場 被災写真)
闘牛アパートには、震災時横綱級の闘牛から当歳の牛10頭が飼育されていたが、残念なことに1頭を残し死亡してしまった。残った1頭もこの後、倒壊した牛舎の中で水も餌の無い中、救出されるまでの一ヶ月間も過ごした。誰もが生きている闘牛がいないと思っていた中での奇跡的な救出となった。
東竹沢地域も闘牛飼育が盛んで多くの闘牛を飼育していたが、同じく牛舎の倒壊で5頭死亡した。この地域では震災ダムの影響で芋川が増水し住宅はもちろん牛舎までもが浸水の危機となった。住民は、自分達が非難するときに何とか闘牛も一緒に助け出したかったが、当時の状況では困難で、生き延びて欲しいとの思いで綱を切り放牧してきた。
(東竹沢地区の倒壊した牛舎 闘牛3頭死亡)
村内に残された闘牛は陸路やヘリコプターにより救出された。残念なことに震災前62頭いた闘牛は31頭と半数にまで激減してしまった。残った闘牛も震災のストレスで体調を崩し、闘牛の再開は困難を極めるのではと思わせた。
|