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高橋(史) ありがとうございました。(拍手)埼玉師範塾では、90歳になられても、95歳になられても、100歳になられても、ぜひ講師でお招きして、先生の元気さを確認したいと思います。(笑い)
 それでは、続きまして鈴木先生にお尋ねしたいと思います。高橋さんが「人事権のない校長は気の毒だ」というご指摘をされました。上田知事からは、「校長からこういう改革案を出してくれ。こうやってくれというものを出してほしい」というエールがございました。教師の意識改革、あるいは高校中退という具体的な問題もございますが、どうしたらいいのかということを校長先生としてぜひ提言をお願い致します。
鈴木 はい。今、知事から「校長からそういう意見を吸い上げて」という力強いお言葉をいただきまして、急に勇気がわいてきたような気がします。学校現場を預かる校長というのは、指導力も含めて、まさに権限はあるのだろうけれども、その権限が行使できないという現実があることをぜひ知っていただきたいと思います。
 これはなぜなのか。先程も言った通り、鍋ぶた組織、あるいはフラットな組織ということもあるのですが、校長そのものは大変な権限を持っていると私は思います。しかし、それを行使できない裏付けは何かというと、学校社会というのは、まさにもたれ合い社会であると。こういうことを校長自らが言うと、大変な発言なのでしょうけれども、そういう意味合いが非常にいろんな場面にあるということです。やはりこれを払拭しなくては、学校社会を変えていくことはできないのだろうということです。
 平成18年度からは、学校にも人事考課制度が導入されます。そういう意味では、校長の権限も当然いろんなかたちで具現化されてきます。それと同時に、学校は一つの組織体ですから、校長の目指す学校像を踏まえながら、先生方自身も自分の果たす役割は何なのか、どういう所でどういう力を発揮しなくてはいけないのかというのを非常に数値的な部分でも表現せざるを得ない状況も出てくるだろう。来年以降、学校は、いいかたちで変わっていくのではないかと私は思うわけです。
 そういう中で、先程いろんな場面があったわけですけれども、学校の教員の仕事をちょっと簡単に申し上げますと、教壇で授業を教えることと生徒指導を行うこと。その中には進学指導と就職指導も含めます。そして、PTA等にかかわる親との関係も非常に重要な意味を持っています。同時に、学校には校務分掌というのがございまして、学校運営上、いろいろなポジションでいろいろな仕事をしなくてはいけません。教員は、これらのものにかかわるわけです。そういう中で、ある意味では忙しいと言われる部分もあるけれども、それプラス部活動指導というのがあります。われわれ教員は、こういう仕事にかかわっています。
 そういう部分で私が思うのは、教員には教科指導の得意な先生もいるし、部活動指導の得意な先生もいるわけです。いろいろな場面で、得意な先生がいます。そういう包括的な仕事をうまくこなせる先生は、そうはいないのではないかと。特に学校というのは、教壇でしっかりとした授業を行うのは当たり前ですけれども、生徒指導にかかわる部分についても、当然そういう力を発揮しなくてはいけません。しかし、これもまたなかなか苦手な先生もいるわけです。また逆に、得意な先生もいます。
 そういう中では、教員研修の在り方というものをしっかり踏まえたかたちでやらない限り、学校現場は変わっていかないと私は受け止めています。同時に、教科指導の優秀な教員は、教科指導の力が発揮できるような学校も現実的にありますし、生徒指導で力を発揮できる先生は、そういう先生としての力を発揮する場をぜひ与えていただきたい。また研修の在り方についても、現在は初任者研修、5年次研修、10年次研修とあり、来年度からは20年次研修という研修が入りますけれども、その研修の果たす役割の中で一番肝心なのは何か。やはり現場に帰ってきて役立つ研修、即戦力的な研修です。それをしっかりとやらない限り、研修本来の在り方にはならないと私は受け止めています。
 そういう意味においては、各ポジションの指導主事さんと管理主事さんは一生懸命頑張っているわけですけれども、そういうものは、より学校の校長との連係プレーの中で構築していかなければ、全くうまくいかないわけです。そういう部分では、「教育委員会と学校現場との関係は、まさに両輪だ。特に校長と教育委員会は両輪だ」とよく言います。常にそういう風通しのいい中でやっていくことが学校を変えていく一つの出発点だということをぜひ受け止めて、そういうかたちの中でやっていくことがいいのだろうと受け止めております。以上です。
高橋(史) ありがとうございました。それでは、残りの時間で、今日、長谷川先生がおっしゃったジェンダー教育について少し議論してみたいと思います。
 お手元の資料の最後になりますか、「男女共同参画基本計画の第2次」という資料がございます。これは昨年の12月27日に出たものですが、その真ん中にジェンダーの定義が22行、書いてございます。ございますでしょうか。その22行の定義の中の2の所で、「ジェンダーというのは、もともといいとか悪いという価値を含まないニュートラルなものだ」ということを書いたうえで、「『ジェンダーフリー』という用語を使用して性差を否定したり、男らしさ・女らしさや男女の区別をなくして、人間の中性化を目指すこと、または家族やひな祭りなどの伝統文化を否定することは、国民が求める男女共同参画社会とは異なる」と明記をしております。
 例えば、児童・生徒の発達段階を踏まえない行き過ぎた性教育、男女同室着替え、男女同室宿泊、男女混合騎馬戦などの事例は、極めて非常識であるというようなことが書いてあります。
 この第2次基本計画の趣旨から見ますと・・・。これは自民党の安倍晋三さんが責任者となって、過激な性教育、ジェンダーフリー教育に関する県別事例集に、各県から寄せられた3,500ぐらいの事例を載せているわけですが、埼玉県については6ページに及んでおりまして、今、読み上げたことにかかわる所が何カ所か気になります。
 学校名は申し上げませんが、例えば「小学校の運動会で6年生の男女が混合で騎馬戦をやっている」とか、あるいは「男女同室で着替えをしている」という所についても・・・。これは皆さんの資料にはございませんけれども、「中学校では男女同室で着替えを行っています。先生に聞いたところ、効率がいいという返事でした」と。「さいたま市立の中学校」とあります。高校でも「中学3年間及び高校2年から3年の時、男女の着替えは同室でした。高校の時は、体育の授業を2クラス合同で行うために、奇数クラスでは男子、偶数クラスでは女子が着替えるように通達が出されていたのですが、だれも従わず、同室で着替えていました。かつ、教職員も知りながら指摘をすることはありませんでした」と。具体的な学校名も挙がっております。というようなことが小・中・高において寄せられているわけですけれども、鈴木先生、今の埼玉県には、こういう実態があるのでしょうか。
鈴木 爆弾発言になってしまうので、ちょっと控えたい部分もあるのですけれども、あると思います。私が教育現場に校長で下りた時には、大宮西高校という市立の高校だったものですから、直接はそういう指導を受けなかったですけれども、実は、現実に男女混合名簿を導入している学校の調査もありました。当時、埼玉県が男女共同参画推進条例を制定した中で、学校現場の中に最初に入ってきたのが、いわゆる混合名簿という取り扱いで、「そういうものを導入しなさい」という意図的なものがあったことは事実です。
 あるいは、先程あったように、教室の中で男女が一緒に着替えをすることはあると思います。われわれの高校時代とか中学校時代には、ちゃんと部屋を分けてやりましたが、今の子供たちは、男の子のいる前でも非常に上手に体操服に着替えたり、制服に着替えてしまうのです。こういうテクニックがいつの間にか育ったのか、やはりそういう指導がなされていなかったのかと思いますけれども、現実にあるということです。
高橋(史) はい、ありがとうございました。平成14年に埼玉県が策定した男女共同参画推進プランは、14年から23年までの10年のプランですが、そこに「ジェンダーフリーの視点に立った教育の推進」と明記されています。そのことについて、平成16年12月の県議会の一般質問で逢澤議員が知事に質問されまして、その答弁の中では、「男女共同参画社会の推進を妨げるのであれば、『ジェンダーフリー』の用語は使用するべきではない」と答弁をされているわけですが、今日の長谷川先生の提起も踏まえて、知事、この問題をどのようにお考えでしょうか。
上田 なかなか難しいと思います。ただ、「ジェンダー」という言葉自体が混乱しているのであれば、それ以外の言葉で語ったほうがいいのではないかと文科省も言っておりますし、県としても、そうしたいと明言したわけです。従って、どうしても使わなくてはいけないようなときもあるかもしれませんが、原則「ジェンダー」という言葉を使わないで、男女共同参画の意味をしっかり教えていくことが望ましいと思います。それで、大事なことは、それぞれ同じような権利やチャンスがあるべきですが、生物学的な違いはあるはずだし、違いがあっていいと私は思っております。
 知事に就任して間もないころ、審議会の委員の先生が「知事は男子校と女子校をどう思いますか。おかしいじゃないですか。男女共同参画という意味からすれば、男女は一緒の高校に行かなくてはいけない。従って、県立高校は、すべからく男子校・女子校があってはいけない」というお話をされましたので、「私は、そうは思いませんね。別に男子校があって女子校があっていいじゃないですか。何よりも、その生徒たちがそれでいいと言っていて、親もいいと言っていて、OBもそれでいいと言っているのに、何で権力的にそれをわざわざ曲げなければいかんのか」と私が言いましたら、全く想像していない答えが返ってきたのか、すごく落ち込んで引き上げられました。(笑い)(拍手)
 ほかに選択肢がないと困りますが、幸い、高校は学区が完全にはずされているわけで、選択肢がいろいろありますから、男女の学校に行きたい人は男女の学校に行けばいいし、女子の高校がいいとか、男子だけの高校のほうがいいと思う人は、そこに行けばいいわけです。選択肢があればいい。先程、高橋福八さんが「学校は選択がない」と言われましたけれども、選択肢があればいいような気が致します。競争できるとか選択できるということがあればいいのではないかと思いますので、何でも一緒・・・。
 多分、僕らは恥ずかしいですね。「一緒に着替えましょう」なんて言われたら困ってしまいます。そういうのは女房だって嫌がっています。(笑い)だから、何か不思議な世界。そういうことが現実に行われていることを知ったら、多分「違う価値観の世界があるのかな。おかしな価値観だな」と、みんなが思うのではないでしょうか。(拍手)だから、なぜそんなことが行われているのか不思議だという率直な感想を持ちます。
高橋(史) ありがとうございました。長谷川先生にもお聞きしたいのですけれども、ビートたけしの「TVタックル」では、この問題を何度も取り上げました。おじいさんは川へ洗濯に、おばあさんは山へしば刈りにという物語に代わりまして、つまり男の役割、女の役割ということ、性別による固定的な役割分担は差別だということです。例えば小学校の校歌で「父のような立山連峰、母のような神通川」という歌詞が問題になりました。なぜ父が山で川が母かと。つまり、陰と陽を優劣で論じた。私は誤解だと思いますけれども、そういう相互補完的な在り方・・・。私は、いつもこのように説明しているのですが、こういう説明が果たしていいのかどうかということも、ちょっとご意見を伺いたいのですが。
 男女共同参画社会基本法は、第1条で「豊かで活力ある社会を実現する」と述べております。豊かで活力ある社会は何によって実現されるか。日本は、男女が和合し、補完し合って参りました。その和合し、補完するという文化を大事にしながら、しかし、制度の中には、あるいは意識の中には、男尊女卑というものが残っています。それを取り除いていく努力をする。これを「補完的進歩」と言っています。
 第1の近代化の教育改革は、ヨーロッパにモデルを求めました。第2の教育改革は、アメリカの民主主義にモデルを求めました。この二つは過去を否定して進歩しようとした。そこに限界があったと私は思っております。
 これからの第3の教育改革は、「競争」というキーワードがございますが、違いを生かし合って、共に新しい知恵を作っていく。男と女の違いを否定することが活力ある社会を生むのではなくて、男と女が和合し、補完し合いながら違いを生かし合って、本当の意味の男女共同参画社会、競争社会が生まれるのではないかと思っております。男女共同参画は、男女の社会参加の機会の均等を求めるものです。男女平等は、性別によって権利が差別されないという人権の同等化を求めるものです。男らしさや女らしさを否定したり、男女の特性そのものを否定するようなジェンダーフリーは、男女の同質化につながる。ここは明確に区別をする必要があるのではないか。こんな言い方をしているのですが、これで果たしていいのかどうか、先生のご意見も伺いたいと。
長谷川 「補完的」とか、難しい言葉が出てきて何か分かりにくいとお思いになっている方もあるかもしれませんけれども、要するに一番簡単なことは、先程も高橋先生がおっしゃっていらしたように、親学が大事だと。今のわれわれは、親になる力がどうも弱っている。これが教育問題の一番根っこの問題になっているというご指摘がありました。この「親になる」というところですが、単なる親には絶対になれないのです。母親か父親か、どちらかにきちんとなっていないと、抽象的な「親」なんていうものはありません。
 先程、高橋先生がとても気持ちのいい成功談をお話しになったので、私は自分の失敗談を最後に短くお話し致します。これをお聞きになると、「なるほど。ジェンダーフリーなんて言っていると、これはえらいことになるぞ」ということが実感を持ってお分かりになると思います。
 実は私自身は、ちょうど先程のお話にもありましたように、敗戦で自信を失った親に育てられた世代です。でも、民主主義教育の走りで、小さい時には「女らしく」ということをただの一度も言われないで育ちました。ほかの女の子たちが、おままごとをやったり、お人形さんで遊んでいるのを尻目に、「あんなの、つまらないよ」と言って、木登りをしていました。虫を捕まえていました。学校に上がってからも、別に自分を男だとも思いませんけれども、女だとも思わない。まさに文字通り、ここの男女共同参画基本法にうたわれている通りの男らしさや女らしさに縛られない育ち方をして参りました。自分では、それでいいと思っていたのです。
 幸いにして、こんな私をもらってくれる人がいましたので、転がり込んで無事に子供が生まれたのですが、そこで、はたと困ってしまったのです。つまり、母親になって自分より小さい生き物を慈しむということをそれまで一度も自分の体で体験したことがなかったのです。ですから、早い話が人工飼育されたゴリラに生まれて初めて子供が生まれてしまったというパニックぶりでした。何とか乗り越えたのですけれども、全く自信のない親でした。
 親学の一番大事なところは、何でもいいから親が自信を持つことだと私は思っています。私自身を振り返ってみると、親としての失格の最大のポイントは自信がなかったところです。何で自信がなかったかというと、まさに小さいころに、女らしさ、女の子らしい遊びを全部軽蔑してやってこなかった。その付けが母親になってみて全部回ってきた。私だけならいいですが、子供たちに会うと、「小さいころは、お母ちゃんがどじで駄目で私たちは本当に苦労した」と今でも文句を言われます。
 こういうことを振り返ってみますと、今の共同参画社会というのは、私みたいな駄目母親を作るための法律です。その弊害を一足早く体現してしまった私から見ますと、こんなことはとんでもないという気が致します。幸いにして、親学の輪が全国に広がろうとしているところだそうですので、そこでは私のような駄目親を作らないように、親への教育をぜひ徹底的にやっていただきたいと思っております。


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