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高橋(史) ありがとうございました。それでは、私のほうからも問題提起を少しさせていただきます。今日のフォーラムの主催団体は、NPO法人師範塾、並びに埼玉教育研究会ですけれども、師範塾は東京、大阪、福岡にございまして、今、5期生を迎えております。今年の9月には埼玉師範塾を立ち上げる予定でおりまして、マスコミにもいろいろと騒がれるようになりましたので、師範塾をどういう目的で作ったのかということを少しお話し申し上げたいと思います。
 今日も松下政経塾の関係者がいらっしゃっておりますが、私自身、縁がございまして、松下政経塾の入塾審査員や教育指導をさせていただいて、塾生と一緒にローヤルという・・・。今はイエローハットと言うのですか。イエローハットの鍵山さんがやっておられる、手でトイレ掃除をするという研修に参加致しました。入りましてすぐに「凡時徹底」という社訓がありまして、「これは何だ」と思って非常に印象深く、今でも平凡なことを徹底してやることが大事だと。会社には、そういう社訓というものがあり、社是があり、社員の行動規範があります。
 学校には、求められる生徒像はありますが、求められる教師像は非常に不明確です。やはり教師としての理念、教師としての志が大事ではないか。なぜ今、教師がこんなに信頼を失っているのかということを考えまして、「われわれ自身が教師としての自分をもっと磨いていくという師範塾を立ち上げよう」という思いで師範塾を立ち上げました。そして、塾是、塾訓、行動規範というものを作りまして、四つの事業に取り組んでおります。
 第1番目は教師のプログラムですが、これが中核です。第2番目に親学のプログラム。親の教育力を向上させるために、これにも取り組んでおります。皆さんのお手元には、先程の長谷川先生のインタビュー記事の横に、産経新聞の私の記事が書いてあります。縮小しておりますので、ちょっと読みづらいかもしれませんが、「親学で教育力向上」というタイトルになっております。ちょっとそこを見ていただきたいと思います。今、この国では労働者としての親を支援するということはありますが、教育者としての親を支援するということが欠けております。教育改革国民会議が平成12年に出した報告書では、「人生最初の教師たる親の責任」ということを強調しました。これは、日本財団の前会長であった曽野綾子さんがおっしゃったことが反映されているわけです。
 外国では、そこにありますように、アメリカのミズーリ州で「教師としての親プログラム」を全米50州でやっています。イギリスとオーストラリアでは世界の3千カ所で展開しております。ニュージーランドでは「最初の教師としての親プログラム」を国庫で負担して展開しています。ニュージーランドでは保育所に子供を預けるのではなくて、運営も保育も親が担って、子育てから母親を解放するのではなく、家族が一緒に成長するというプレセンターを認可しております。そのように、外国では国を挙げて親を教育することに力を入れております。
 今、学力低下のことがいろいろ言われますが、親は「学校が悪い。教師が悪い」と言います。しかし、私がアメリカに留学している時には100万のホームスクールがありました。「家で教えるのは親の責任だ。学力だって、学校と教師の責任だけではなくて親の責任だ」という意識があったことはよく印象に残っております。
 なぜ今、親学なのか。今、親は勝手です。教師が親に対して「こういうふうにかかわってほしい」と言おうものなら、「いろいろな考え方があって、多様な価値観があって、わが家にはわが家の方針があるので、余計な口出しをするな」と言います。今の教師は、そこで引っ込んでしまいます。私は「引いては駄目だ」と申し上げております。今までの教師は、子供に対する指導力でよかった。でも、今は・・・。
 今日も高校中退の問題等で、校長先生の92パーセントが親の問題を指摘しているという指摘もございましたが、私も臨教審で政府の審議会の審議が終わって、20年近く現場を回りました。特に不登校、学級崩壊、高校中退という問題で飛び歩きましたけれども、この10年ほどは、もう間に合わないと思いました。モグラがどんどん出てくるのです。あちらをたたいても、こちらをたたいても、全国津々浦々からモグラがどんどん出てくる。これはもう対症療法では限界だ。根本療法だと。根本療法というのは家庭です。親の教育力を向上させなければ間に合わない。そういう思いで、これからは親学ということを埼玉から全国に広げたい。そんな思いでおります。親学プログラムも、これからの大事な課題ではないかと思うわけです。
 そして、更に子供向けのプログラムも展開しております。私が示唆をさせていただいて、PHPの教育政策研究会という所から15の提言をさせていただきました。その中で「学校を親としての育ちを図る親学の拠点とする」という提言をしました。学校が親学の拠点となる。つまり、親が親としての学びを深める拠点となる学校に転換しよう。これは学校だけではありません。幼稚園も保育所も、親学の拠点になる必要があると思っております。第2番目の提言は、親学アドバイザーというものを養成する。3番目は、教育委員がリーダーシップを発揮できるように、教育委員会の運営の仕方を改める。このようなことに重点を置きたいと考えております。
 学校を親学の拠点とすることについては、既に教育委員会の重点施策の一つとして取り組むことを決めております。これは、県の方針として施策の中に入れることに決めました。
 3につきましても、従来、教育委員会全体が事務局案の追認に終始して参りました。しかし、本来、教育委員は、教育の基本方針、教育の基本計画を策定し、執行する責任がございます。そういう意味で、今後は、そういう基本計画を策定する段階から主体的にかかわることについても合意を得ております。
 親学アドバイザーにつきましては、今、PHPの中に親学研究会というのを作りまして、親学アドバイザー養成講座のマニュアルとテキストを年内に作成致します。今日、助成していただいております日本財団に全面的に支援をしていただきまして、既に埼玉県の中では秩父市、行田市、川口市で、ぜひ親学アドバイザー養成講座を先駆的にスタートさせて、埼玉県全体に親学の動きを広げて、全国に発信していきたいと考えております。自ら7分でとどめなくてはいけませんので、以上で私は終わらせていただきます。(笑い)
 それでは、先程のお話の中で高橋福八様が途中で時間切れで、私は「第2ラウンドでお願いします」と申し上げましたので、補足をお願いしたいのと、「思えば叶う」という本は大変素晴らしい感動する文章でしたが、自らの思えばかなう体験談も、ぜひ補足していただければと思います。どうぞよろしくお願いします。
高橋(福) さっき、時間切れでしゃべれなかったのですが、大したことではありません。1月2日に本庄中学の昔の同窓会があったのです。お客様ですから、私もごあいさつに行きました。81歳の同窓会だから、見ようによってはおじいさんばかりですが、言っていることは青年でした。一緒に話していましたら、ある方が「とにかく今の孫は駄目だ。ろくでもない」と言っているのです。そうしましたら、ある人が「そうじゃないんだ。俺たちは、丁髷(ちょんまげ)を結ったおやじから仕込まれたおやじに仕込まれた。だから、真っ当だった。ところが、われわれは終戦で自信を喪失していたから、自分の子供には自分の親から教わったことを教えていないじゃないか。その何も教えていない親が生んだ子供が孫なんだから、ろくな者はいないんだ」と言うわけです。(笑い)
 アメリカの陰謀だか何だか分からないけれども、本来の日本人のいい資質を育てる教育が昭和20年で断絶してしまったのです。これが問題なのです。これを元に戻さない限り・・・。だから、60年かかって駄目になった教育ですから、元に戻すのには、今から始めても60年かかります。息が長いです。私なんか生きていないかもしれない。(笑い)そういうことです。
 「思えば叶う」の本ですけれども、これは社内報を中心に書きました。私が書いたものを産能大学出版部がどこかで読んで、「何かあったら送ってくれ」と言うからコピーして送ってあげたら、「これは売れるから売らせてくれ」と言う。「一銭もかからないならいいよ」と言ったら、「一銭もかからない」と言うから作らせた。そうしたら、もう一万何冊で第5版。あれを教材に使っているんですってね。売れているのです。どういうことかというと、そんなに難しいことではなくて、思えばかなうという私の体験談を中心に社内報で書いたものの取りまとめです。
 私は深谷商業を卒業して大学へ行こうと思ったら、先生に「大学では深谷商業で教えている以上の簿記会計を教えていないんだから、行く必要はない」と言われてやめて、1年間、小僧に行きました。これが幸運だった。それまでは生徒会長とか子供会の会長とか、日の当たる所ばかりですから、自分が賢いと勘違いしてしまった。それで、東京に小僧に行ったら、ちっとも賢くない。中学校から来た同級生の小僧さんに全部負けてしまう。商売をやっても何をしても負けてしまう。「ああ、俺は普通の人間だ」ということが分かったのです。
 埼玉県の本庄では親戚に農家もいたから、昭和20年代でも、ひもじいということはなかったのですけれども、東京へ行くとコッペパンが常食で、ご飯は月2回ですから、おなかがすきます。ひもじいということも初めて知りました。
 さまざまな体験をして帰ったら、おやじに「お父さんはゼロから出発して埼玉県で一番の卸屋になったんだから、おまえは関東で一番になれ」と言われた。その時に、私は向こう見ずというか、ものを知らないというか、「おやじは俺を馬鹿にしているんだ。自分はゼロから出発して埼玉県の一番の卸屋になったのに、何で俺は関東で一番で我慢しなければいけないんだ。よし、俺は日本一になる」と言って、「業界日本一を目指せ」と書いて、倉庫に張ったのです。そうしたら、とても気の利いている小僧さんが1人いて、「今度来た若だんなは頭がおかしい」と言って辞めてしまいました。(笑い)
 18年たって日本経済新聞には今でもランク表が出ますけれども、本当に頑張って、1年でサンダルの卸売業で一番になったのです。なぜなったのかといって、日本経済新聞が取材に来ました。その時には、北海道の札幌とか東京とか大阪とか福岡とか広島とか、全国に12カ所の営業所を作っていました。「こんな片田舎で、なぜ日本一になったんですか」と言われた時に、「私が賢かったから日本一になったのではない。日本一になろうと思い定めたから日本一になったんです。私が親孝行で、関東で一番になろうと思ったら、東京に店を出せば一番になれるんだから、関東で一番だったかもしれない」と。同じ人間でも、日本一になろうと思うと、打つ手が変わってしまうのです。「思う」と、その念力が自分の力以上の力を発揮するのを私は体験したわけです。そのことを「思えば叶う」に書いたのです。
 これは仕事ばかりではありません。私の母が芝居好きで、歌舞伎座がぺしゃんこになっている時には、私はおふくろと一緒に東劇まで行って芝居を見ていました。歌舞伎座が再興されてからは、歌舞伎座によく連れられて行きました。それで、「歌舞伎座っていいな」と思ったのです。「何とかあそこで1回、舞台に上がってみたい」と思った。それは田舎の少年にはあり得ないことです。でも、そう思ったのです。30代のJCのころ、「一生に一遍でいいから、歌舞伎座の舞台でうたでもうたってみたい」と言った。(笑い)あり得ないことだけれども、そういう願いを思ったのです。
 そうしたら、昭和57年ごろ、「市川海老蔵が團十郎になる。これの助六という芝居だけは素人が浄瑠璃で出演できるんだ。高橋さん、同だ」という話がありました。「本当に出たいけれども、今、命懸けでホテルを作っていて、命がやせ細るほど忙しいので駄目だ」と言ったら、その先生に「高橋くん、商売は一生だよ。團十郎の襲名は一生に一遍だよ。どちらが大事だ」と言われたので、「あ、それはそっちが大事だ」と出演したのです。(笑い)それから新歌舞伎座とか南座とか御園座とか、全国ずっと一緒に引っ付いて、團十郎に出るようになったのです。
 その中に清元志寿太夫と言う人間国宝の人がいて、そのうちに、その人のお弟子さんにさせてもらった。それで、私は歌舞伎座を借り切って、清元を2回うたったのです。だから、歌舞伎座みたいなひのき舞台にはとても上がれないと思っても、「出たいものだ、出たいものだ」と言うと、できるのです。
 そうすると、今度は舞台から助六の踊りを見るでしょう?出端と言うのですけれども、舞台から見ていると、花道で踊るのが格好いいのです。一生に一遍でいいから、あの花道を歩いてみたいと思った。(笑い)これも不可能です。でも、シャリーンと鳴って、あそこからぱっと出てきたら、男と生まれて何と気持ちがいいだろうと思ったわけ。そうしたら、今から4年前に、実際に私はチャリーンと音をさせて上がって、七三でお辞儀をして本舞台に行ってあいさつをしたのです。できてしまった。私はロータリーの会長になった。会長になると権限があるから、「歌舞伎座を借りろ」というのでやってしまった。(笑い)ここには仲間がいないからいいけれども、実は私は歌舞伎座の花道を歩いてみたかっただけです。清元のバックグラウンドでやったのですけどね。
 というように、不可能なことでも「ぜひやってみたい」と思うと、人知を超えた念力が出るのです。秀吉もナポレオンも家康も全部、自己暗示の名人です。もっと偉くなる人は他人に暗示を掛けます。暗示を掛けながら、自分が大きくなっていく。ですから、思えばかなうのだから、思い続けることが大事だと。
 私は今、生きるか生きないかは分からないけれども、109歳まで元気で生きると言っているのです。30代では88歳で死のうと思った。そして、今度は99歳に切り替えたのです。100まで・・・。(笑い)そうしたら、きんさんぎんさんが出たらもう普通になってしまったので、5、6年前から今度は109歳。「何で9だ」と言うから、「煩悩を越えて死ぬんだ」と言ったのです。(笑い)この話をすると長くなるからやめます。(笑い)
 そういうふうに、みんなの前でしゃべっただけで、健康管理が友達とは全然違ってしまうのです。みつきに一遍ずつ歯医者に行くとか、健康管理には本当に注意する。みっともないから。100で死んだら「あのほら吹きが」と言われるでしょう?そうしたら悔しい。(笑い)だから、「何とか健康で生きよう」となるのです。
 だれにも迷惑は掛けないのだから、思いをかなえるために夢を語る。私の今年の座右の銘は「夢を語ろう」というのです。夢を語っても、だれにも迷惑は掛けないです。あの北島康介だって宮里藍だって、みんな言ったんですって。イチローだって、小学校の野球少年の時に「俺は世界に通用する野球選手になる」と言ったそうです。北島も、小さい時に「俺はオリンピックで優勝する」と言ったんですってね。みんな冗談だと思ったのです。でも、なってしまったでしょう?この本には、言い続けることの力がいかにすごいかということが書いてありますから、歌舞伎座に出てみたい人はぜひ読んでいただきたい。(笑い)ありがとうございました。


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