高橋(史) 次は第2弾でお願い致します。ありがとうございました。(拍手)それでは、次は埼玉大学の長谷川三千子先生にお願いします。皆さんのお手元に資料があるかと思いますが、今、出ている「正論」の3月号に「ジェンダーなんか怖くない!」という、先生の大変刺激的なインタビュー記事が出ております。これに関連するお話もございますので、それも参照しながらお話を伺いたいと思います。
埼玉県の方でもあまりご存じない方もいらっしゃるのですが、先程、私が控え室で確認させていただきましたら、渋沢栄一様の孫の孫だということで、皆様にご紹介申し上げます。よろしくお願い致します。(拍手)
長谷川 今回、「実践の現場から」と銘打っている中で、ただ1人その趣旨に逆らって大上段の話をしたいと思います。その大上段の話が、先程のお二人の非常に生々しい実践の場のお話に結び付けばいいなと思っております。
大上段の話といっても、実は、私はすごく簡単なことを申し上げたいのです。要するに、人間にとって教育とは何なのだろう。どんな教育改革をするときにも、その根本をきちんと考えておくことが必要ではないかという気がするのです。
人間にとって教育とは何だろうと考えるときに、一番大事なのは、人間は生まれっ放しでは人間にならないということだと私は思うのです。これは本当にリアルな実感です。テレビで、青海亀の子供が卵からかえって、一斉にだーっと海に走っていくなんていう番組をよくやっていますけれども、あれを見ていますと、母親としては「うらやましいな」と思うのです。お母さんは、卵を産むのは大苦労しますけれども、あとはもう何も教えられなくても、子亀たちは自分一人でとことこと一斉に海に走っていく。途中でいっぱい食べられたりもしますけれども、何とか海にたどり着くと、だれにも教えられないのに自分で餌をちゃんと取ります。そして、何とか生き延びて親になれば、また自分の子孫を残していくことができる。ここには何の教育も学習も必要ない。全部本能にインプットされた道筋で生きていけるのです。だから、青海亀は本当に生まれっ放しで青海亀になれるのです。
ところが、例えばチーターみたいな動物になると、餌を取るという、その一つも、親のやることを見よう見まねでしっかりと見る。それから、親が半殺しにして持ってきてくれた餌を自分で殺してみるという学習の芽みたいなものがそこに芽生えてきています。これがチンパンジーになりますと、例えば石の上に木の実を置いて、それを石で割るという高等戦術を身に着けたチンパンジーのグループがいます。こうなると、これはもう絶対に学習が必要です。それまでは、親たちが割った木の実をただもらって喜んでいた子供が、ある年齢になると、自分もそのまねをし始めます。でも、難しい高等テクニックですから、やってみようといっても、木の実がつるつる滑ってしまってよくできない。そうすると、この子供のチンパンジーは親の所に来て、ものすごく集中したまなざしでじっと見るのです。「どうやるんだろう」と見て、それからまた自分の所に戻ってやってみる。こういうことを繰り返しているうちに、自分でも木の実がちゃんと割れるようになる。これはもう、まさに学習・教育の原点だと思うのです。
殊に感動的なのが、のぞき込んでいるチンパンジーの子供の集中した目付きです。教師をやっていますと、「ああ、学生たちがこういう目付きをして授業を聞いていてくれたらな」と思うような、ものすごく知的な集中した目付きをしているのです。
でも、考えてみますと、人間の学習というのも、それだと思うのです。人間は、根本的に何か新しいことを学習したいという気持ちがある。それをうまく育てて教えてやって、そこで初めて人間ができあがるということだろうと思うのです。
人間の文明がだんだん発達してきまして、石の上に木の実を置いて割るなんていうぐらいだと、親でも教育できます。先程の桜木中の先生のお話のように、浴衣が畳めないで苦労していた時に、お母さんが「ちょっとすそをお持ちなさい」と言ったらすっと畳めたという程度だと、親でも何とかなるのですが、微分だ、積分だ、三角法だとなると、「ああ、何かやったっけな。でも、私も苦手だったな」ということで、ここら辺はもう「学校様、ありがとうございます」とお任せするしかないわけです。
では、それだけで人間が人間になれるのかというと、実はもう一つ、生物にとって非常に大事な学習があります。それは何かというと、ほとんどの生物がそのために生きていると言ってもいいのですが、無事に結婚相手を見つけて、自分の子孫を残すことです。これは、それぞれの種にきちんと定められた雄・雌共同参画のかたちというものがあります。虎には虎のかたちがある。タマシギにはタマシギのかたちがある。大鷹には大鷹のかたちがある。それぞれに、大きくなったら雄と雌はどう振る舞って、どうつがいになって、どう子供を育てるという暗黙の知が、生物が生物として生き延びていくためには、ものすごく大事です。
ところが、人間の場合はどうかというと、人間は、そういうことをただの本能でできるという部分が恐ろしく退化してしまっているのです。その代わりに何があるかというと、文化があり、しつけがあり、世間の常識があり、しきたりがあり、儀式がある。こういうものに縛られることによって、これまでわれわれは、大きくなると、ただ本能の働きではなくて、上手に配偶者を見つけ、親になり、子供を産み育てることができていたわけです。
これが今、いわゆる「ジェンダー」と呼ばれている社会的・文化的にできあがった男女の役割の型です。本能が非常に退化してしまった人間にとっては、これは生物として生き延びていくための絶対不可欠の大事な知識・情報です。これは、以前は学校にお願いして教えてもらうというたぐいのものでは、もちろんなかったわけです。それぞれの家庭の中で、女の子には女の子の教育、男の子には男の子の教育という暗黙のジェンダー教育が行われていました。更に、それを世間が支えている。そういう格好がきちんとできあがっていたわけです。
ところが、20世紀の後半、日本だけではなく世界じゅうで、そういうものが一気に崩壊の一途にあります。こうなりますと、ただ家庭任せでは、男の子が男の子らしく、女の子が女の子らしく振る舞うことが非常に難しくなっているのです。そうすると、学校教育ですら、改めてもう1回そこに乗り出していく必要が出てくる。ですから、私は現在、ジェンダーフリー教育どころではなく、ジェンダー教育が求められているのではないかとすら思っております。細かいところは、いずれ資料のほうで見ていただいて、後半に譲りたいと思います。
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